1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月17日・イサム・ノグチの融合

2020-11-17 | 美術
11月17日は、仏映画女優ソフィー・マルソーが生まれた日(1966年)だが、彫刻家イサム・ノグチの誕生日でもある。

イサム・ノグチは、日露戦争がはじまった1904年、合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父親は日本人の詩人・野口米次郎で、母親はニューヨーク生まれのアメリカ人レオニー・ギルモアだった。
両親はニューヨークで出会い、いっしょに暮らしたが、英語で詩を書く日本人の父親は、イサムが生まれる4カ月前に日本へ帰ってしまった。身重の母親は日本人が比較的多い土地で息子を育てようと、カリフォルニア州へ引っ越し、そこでイサムを産んだ。
しかし、軍事的に増長する日本を警戒し米国では反日意識が高まり、暮しにくくなっていく米国を避け、母親はイサムを連れて船で日本へ渡った。
母子を出迎えた父・米次郎は、3歳になる息子の名前をイサム(勇)と名付け、それで彼の名はイサム・ギルモアとなった。
複雑な家庭事情を抱えた母子は、やがて父親・米次郎と離れ、母子二人だけで暮らしだした。母親は英語の家庭教師や雑誌編集の仕事をしてイサムを育てた。
7歳になる年に神奈川の茅ヶ崎へ引っ越したイサムは、10歳で指物師に弟子入りし、秋いっぱい家具作り、欄間彫刻の修行をした。
「指物師のもとにいた期間こそ、ぼくが受けた教育と名のつくもののなかでただひとつ、心からの喜びを持って学んだもの」(めら・かよこ『イサム・ノグチ物語』未知谷)
14歳になる年、小学校を卒業すると、イサムは家族と離れ、単身船に乗って太平洋を渡り、米国インディアナ州の中学校へ入学した。第一次世界大戦中だった。
米国でイサムは「ジャップ」といじめられながら苦学し、彫刻家を志したが、弟子入りした師匠に「才能がない」と烙印を押され、破門された。意気消沈し、18歳で急きょ医師へ志望を変更し、ニューヨーク・コロンビア大学の医学部へ進学した。
このころニューヨークで会った、ノーベル賞候補のだった野口英世博士は、彼に、医師より芸術家のほうが偉大だといい、芸術家になるよう勧めた。
19歳のイサムは医大生を続けながら、街の教会でやっている夜間の美術学校に通いだした。そのころ彼は父の姓をとり「イサム・ノグチ」と名乗り、彫刻家の道に人生を決めた。そしてブロンズ像「ウンディーヌ(ナジャ)」を作った。
その後、彼はニッケル・クロム製の「バックミンスター・フラーの頭像」を発表し、ピカピカの金属像でセンセーションを巻き起こした。
イサムは、一個一個の石や木を刻む彫刻から、地球の大地そのものを彫刻して美しい作品ととする「プレイマウンテン(遊び山)」へと考えを進化させ、日本で広島市内の平和大橋をデザインし、和紙を使った照明器具を開発し、フランス・パリではユネスコ本部の庭園を作り、米国内ではジョージア州アトランタにあるビーモント公園の遊具をデザインした後、1988年12月、心不全のためニューヨークで没した。84歳だった。

イサム・ノグチ。民族的に宙ぶらりんの苦しい状況から身を起こし、数々の出会いのなかでみずからを成長させ、自身の個人的な悩みを、全人類に通じる、地球人としての普遍的な思想にまで昇華させた芸術家である。
(2020年11月17日)



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