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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

9月23日・レイ・チャールズの旅

2018-09-23 | 音楽
9月23日は、白人のシンガーソングライター、ブルース・スプリングスティーンが生まれた日(1949年)だが、黒人シンガーソグライター、レイ・チャールズの誕生日でもある。

レイ・チャールズ・ロビンソンは、1930年、米国ジョージア州のオールバニで生まれた。「みんなをただ見上げるだけ、私たちの下には地面しかなかった」(レイ・チャールズ、デイヴィッド・リッツ著、吉岡正晴訳『わが心のジョージア レイ・チャールズ物語』戒光祥出版)という最下層の貧困家庭で、小さいころは外を歩くにも裸足だった。父親は鉄道工事夫で、べつに妻がいた。レイの母親とは不倫関係だった。不倫してレイと弟の2人の子をもうけながら、父親は妻と離婚し、レイの母親とはべつの女性と結婚した。
レイは3歳のころから、近所のカフェのピアニストに可愛がられ、ピアノを弾かせてもらっていた。彼が5歳のとき、4歳の弟が目の前で溺れ死に、それからしばらくしてレイの目からどろどろとしたヤニが出はじめた。医者は失明すると宣告した。それから2年間かけて、緑内障により彼の目は徐々に見えなくなっていった。
7歳のとき、無料で入れる全寮制の州立の盲学校に入学。学校でピアノを弾き、外のクラブでもピアノを弾いていたレイは、13歳のころに店の女性客と初体験をし、14歳のころには、借りたモーターバイクで街を走りまわっていた。当時すでに彼は全盲だったが、バイクの運転には絶対の自信をもっていた。
15歳になる年に母親が亡くなると、レイは学校を辞め、フロリダ州のジャクソンヴィルへ引っ越し自立することを決心した。つてを頼ってジャクソンヴィルの家に泊めてもらい、ナイトクラブのピアノのまわりをうろついては、仕事をさがし、しだいに演奏させてもらえるようになった。ジャクソンヴィル、オーランドー、タンパと、ふらりと新しい街に移っては、街のクラブでピアノを弾き、レイは自分の技術を磨いた。バンド仲間に見栄えが悪いと言われ、タンパで黒いサングラスを買い、それが彼のトレードマークとなった。
その後も西海岸のシアトル、ロサンジゼルスをへて、バンドのメンバーとして、全米各地の町々をめぐる演奏旅行に出た。ずっと旅興行に明け暮れる人生を送った。そうして21歳のときには、自家用車をもち運転手を雇っていた。レコードを出すようになり、彼は尊敬する歌手たちのまねでない、自分のオリジナルな歌い方を模索しだした。
25歳のとき、「アイヴ・ガット・ア・ウーマン(I've Got A Woman)」がヒット。このころ、伸びのある独特のボーカルスタイルを確立し、自分のバンドを率いるようになった。人種差別に苦しみながら演奏ツアーを続ける彼のリズム&ブルースは「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー (Hallelujah, I Love Her So)」のヒット以降、白人層にも広まり、「旅立てジャック(Hit The Road Jack)」に代表される、女性コーラスと彼の男性ボーカルの掛け合いのスタイルを打ちだすと、バンドは引っ張りだこになった。
「ホワッド・アイ・セイ(What'd I Say)」
「わが心のジョージア(Georgia On My Mind)」
「愛さずにはいられない(I Can't Stop Loving You)」
など数々の名曲を歌った彼は、2004年6月、肝臓がんのため、カリフォルニア州ビヴァリーヒルズで没した。73歳だった。

「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are the World)」録音時のレイ・チャールズの存在感は圧巻だった。また、映画「夜の大捜査線」のエンディング、急行列車が走り去る場面に流れる「夜の熱気のなかで(In The Heat of The Night)」は歴史的な名曲である。聴き手が年を重ねるごとに聴きごたえが深まる、味わい深い歌声である。
(2018年9月23日)


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