テーマ設定の山 甲武信岳への山梨ルートは、「徳ちゃん新道」といわれ、頂上小屋のご主人が拓いたといいます。その頂上まで標高差1300m、一歩一歩ご主人の努力のすごさを実感します。
少し前、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』が話題になった。
少年コペル君の体験や周りのできごとからの疑問に「おじさん」が答えていくという形式で、吉野が哲学を語るのである。
少し前、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』が話題になった。
少年コペル君の体験や周りのできごとからの疑問に「おじさん」が答えていくという形式で、吉野が哲学を語るのである。
1948年に初出版され、これまでに8回もさまざまな出版社から出されるほど時代を超えて支持されている思想の本だ。
こうした本は時代を負って廃れる感があるが、この本の場合、戦争の惨禍が残る80年前に書かれ、最新のマガジンハウス版は2017年の出版なのである。子どもたち自身も取り巻く環境も学校教育も時代的に大きな隔たりがあるのに、思想・哲学に類するこの本が確固として時々の子どもたちに支持されていることに驚く。
もちろん、このことを取り上げたのは、他でもない、教育の普遍性をめぐる探究と関係あるように感じるからである。
確固たる児童向け文学が成り立つのと似た文脈で〝確固たる教育哲学〟は語り始められないものか?それは難しいことなのか?。
今回、話の切り出しとして、吉野源三郎を紹介した。最後に、目についた一文を載せておく。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることになるのだ。
(調べ途中のWikipediaから引用です。)
確固たる児童向け文学が成り立つのと似た文脈で〝確固たる教育哲学〟は語り始められないものか?それは難しいことなのか?。
アカデミックな立場での教育哲学の現場はどうなっているのだろう。
教育学者 広田照幸さんは「問題提起としたいと思って書いた」本で大胆な指摘をする。
教育学者 広田照幸さんは「問題提起としたいと思って書いた」本で大胆な指摘をする。
(紙幅の都合もあり適切な引用の仕方かわかりませんが。)
『近代教育フォーラム』第1号(1992年)で、原聡介が、教授可能性論を歴史的にたどり直しながら、今の教育が落ちている事態の本質を、次のように言い当てている。
本来、教育はどう言ったとしても、目的の外在性を前提にしなければならないのだろうけれども、それを明確にできないまま、いやわれわれは内在的目的を大事にするといいつつ、あるいはその振りをしながら、結局は何もしない。その結果、技術主義的に子どもの乱開発にひたすら従事するか、さもなければgood handsを誰か別のところ、例えば政策担当者にゆだねてしまい、その下請け仕事としての教育学に甘んじていることになる。(原聡介「近代における教育可能性概念の展開を追う」)
教育学は子どもの中に可能性を見出しそこに対して有効に働きかけるための技術知として発展してきた。その発展の方向性は、「何に向かって教育するか」と言う目的(外在的目的)は棚上げにしたまま、「子どもには可能性があるのだから教育する」と言う論理(内在的目的)に従うものだった。だから、「何に向かって教育するか」という問いについては、教育学は口ごもってしまう。子どもに内在する発達可能な部分を見さかいなく伸ばしていくと言うことになるか、あるいは、政策担当者に決めてもらうしかない状態だ、と言うのである。
(中略)
原の問題提起はとても重要である。現代の教育学校にとって最も深刻な危機は、まさに「教育の目的」に関わる問題群をスルーしてきている点にあるのではないか、と思うからである。今ある学校教育の役割や目的をどう考えていけば良いかをカッコに入れて無視したまま、具体的な目標と手段の問題ばかりが考究されている。究極的な方向づけを欠いたまま、学校教育の「改善」が教育学者によって語られているのである。
以上、『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)
教育哲学の旗手がアカデミックな立場から発現させにくい雰囲気みたいなものが分かる気がする。語りきれない感じ。
『近代教育フォーラム』第1号(1992年)で、原聡介が、教授可能性論を歴史的にたどり直しながら、今の教育が落ちている事態の本質を、次のように言い当てている。
本来、教育はどう言ったとしても、目的の外在性を前提にしなければならないのだろうけれども、それを明確にできないまま、いやわれわれは内在的目的を大事にするといいつつ、あるいはその振りをしながら、結局は何もしない。その結果、技術主義的に子どもの乱開発にひたすら従事するか、さもなければgood handsを誰か別のところ、例えば政策担当者にゆだねてしまい、その下請け仕事としての教育学に甘んじていることになる。(原聡介「近代における教育可能性概念の展開を追う」)
教育学は子どもの中に可能性を見出しそこに対して有効に働きかけるための技術知として発展してきた。その発展の方向性は、「何に向かって教育するか」と言う目的(外在的目的)は棚上げにしたまま、「子どもには可能性があるのだから教育する」と言う論理(内在的目的)に従うものだった。だから、「何に向かって教育するか」という問いについては、教育学は口ごもってしまう。子どもに内在する発達可能な部分を見さかいなく伸ばしていくと言うことになるか、あるいは、政策担当者に決めてもらうしかない状態だ、と言うのである。
(中略)
原の問題提起はとても重要である。現代の教育学校にとって最も深刻な危機は、まさに「教育の目的」に関わる問題群をスルーしてきている点にあるのではないか、と思うからである。今ある学校教育の役割や目的をどう考えていけば良いかをカッコに入れて無視したまま、具体的な目標と手段の問題ばかりが考究されている。究極的な方向づけを欠いたまま、学校教育の「改善」が教育学者によって語られているのである。
以上、『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)
教育哲学の旗手がアカデミックな立場から発現させにくい雰囲気みたいなものが分かる気がする。語りきれない感じ。
ただ一方、今ほど「教育の目的」のカッコが外れ、頭上が開かれるような教育の目的が待たれる状況はないのでなる。
そして、広田さんは、「ポストモダン」が教育哲学を躊躇させたという。次回はこのことを考える。
今回、話の切り出しとして、吉野源三郎を紹介した。最後に、目についた一文を載せておく。
コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと坐りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりの事ではない。世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることになるのだ。
(調べ途中のWikipediaから引用です。)
生き方、在り方の普遍性についてである。