土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

篤く三宝を敬え (聖徳太子の宗教立国宣言)

2013-08-09 10:38:44 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。
拙ブログでは、歴史を扱うことが多く、今は飛鳥時代の聖徳太子の時代に着目しております。

前回は有名な十七条憲法第一条、和を以って貴しとなせでしたが、今回はこれまた有名な第二条、篤く三宝を敬えの精神です。

日本は古来より、また現代に至るまで、天皇を頂いた国家です。
天皇はその縁を辿ると、日本神道の主催神天照大神の子孫となり、全国の神社の最高の神官でもある宗教家でもあります。

天皇を頂き続けるということは、つまり、神道を奉ずることであり、日本の国教は日本神道・・・となる・・・のですが、
聖徳太子は十七条憲法という国家の支柱をつくるにあたり、この第二条で事実上、仏教が国教化しました。

第三条に、詔に従え・・・が来ます。
詔とは、天皇の言葉です。
天皇の言葉より上位概念として、仏教を敬うが来ておりますから、これは事実上の国教宣言であり、仏教を中心とした国づくりを宣言したものだと解釈して良いと思います。

何より聖徳太子ご自身は仏教に帰依され、そして太子のお父上である用明天皇が、歴代天皇として初めて仏教に帰依なさっていらっしゃいました。
(仏教は最高の神官が、帰依できる宗教であった・・・という事実をお忘れなく。)

その第二条の内容ですが、

二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。 ・・・ (下略)
 {ににいわく、あつくさんぽうをうやまえ。さんぽうとは ぶっぽうそうなり。}

第二に示しておきたいことは、仏教の三つの宝を心から敬って欲しい、ということなのである。

三つの宝というのは、覚った仏・仏の説いた法・法にしたがう僧の三つの事である。これらは、生きとし生けるものの最終的な拠り所であり、すべての国にとって最も大切な教えなのである。

したがって、いかなる時代のいかなる人であっても、この教えを貴ばないでよいという事があるだろうか。

きわめて悪い人間などというものは非常に少ないし、それらの者でも、よく教え導きさえすればついてくるものだ。

しかしながら、もしこれらの三つの宝を拠り所としないとしたならば、どうやって心のまがっている者達を正しくする事が出来るだろうか。


となります。

つまり憲法を制定し、仏教を国教化するにあたって太子は、仏教を正しさの基準・・・として捉えていたことがわかるのです。

なぜ太子は、仏教を正しさの基準としたのでしょうか?
それは仏教の真髄を、太子がご理解なさっていたからだろうと思います。

仏教の真髄とは何か。

それは、因果の法です。
因果とは、原因と結果です。

私流に申せば、「つじつまが合う」になります。(笑)

つまり仏教は、宗教でありながら、同時に科学でもあるわけですね。

その科学的思考の実例集が、多岐に渡る仏教の教え(法)なのです。
法を説いたのが、仏陀(お釈迦様)であり、法を守り広げているのが僧なので、これらは共に貴いので敬え・・・となるのです。

神道には儀式神事はあっても、教えがありません。
仏教は教えが中心の宗教です。

また仏教は平和的な教えですが、その性格上、国防に弱いところがあります。
神道は国防概念に富んだ宗教です。

これらが対立するのではなく、日本では補えあえたのです。
他の地域では、仏教は他の戦闘に強い思想勢力の対決に、あがらうことができませんでした。
まぁ、それゆえに、日本にたどり着けたとも言えますが。

そして仏教の創始者である、ゴーダマ・シッタールダというお方が、釈迦国の王子出身者であり、
本来は政治家となる方が起こした宗教である事実も忘れてはなりません。
つまり仏教には、国家を預かる政治家が拠り所とするべきエッセンスが、教え(法)の中に多く含まれているのです。

そしてここが大切なのですが、日本の憲法で唯一、その根拠を示す思想哲学を明言しているのは、十七条憲法だけなのです。
大日本帝国憲法も、現行日本国憲法においても、日本国の国教を明言しておりませんし、その国の上位に立つ神仏の存在を明言しておりません。

つまり、日本の近代憲法の二つには、哲学がないのです。

これが両法の、法としての限界値の低さを露呈していると私は考えます。

日本は聖徳太子の十七条憲法を見直し、その精神をよみがえらせるべきです。

                                      (続く)







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