土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

仏教が日本にもたらした論理の光 (聖徳太子の時代精神)

2013-08-12 09:05:46 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

聖徳太子は事実上、仏教を日本の国教としました。
これは明文化されているわけではないのですが、十七条憲法の第三条「詔を承りては必ず謹め」の上位に、「篤く三宝を敬え」とあるからです。

詔とは、天皇の命令です。
それよりも、三宝(仏法僧)が上・・・という概念であり、これは憲法上は、天皇(神道)が仏教の指導を仰ぐ形となります。

さて仏教が、当時の日本人にもたらせた、新たな思考形態があります。
それが、論理です。

神道は、かんながらのみちであり、神の心や願いを忖度することであり、それ自体は普遍的なものなのですが、
それを執り行うのに大事なものが、実は神道には欠けているのです。

それが、「教え」です。
つまり、神様のお心や人々に対する願いを現す、文章が存在しないのが神道なのですね。

文章を読み込み、呻吟し得られるものが、論理的思考です。
論理とは要するに、「重要なものと、重要でないものを分別すること」そして、「重要度の高いものと、低いものを分別すること」と言えると思います。

宗教の文章、つまり経典には、必ずあるものが存在します。
それは、その宗教で描かれている神様仏様が、何を以って価値あるものだと見出しているかです。
つまり、善悪です。
宗教経典には必ず、善悪の価値観が存在するのです。

つまり、経典を読み、そしてそれをさらに読み込むことで得られるものは、
善悪の価値であり、さらに善の程度、そして、悪の程度が理解できるのですね。

犯罪であっても、それが罪なのか無罪なのかだけでなく、国家反逆罪や強盗殺人のような凶悪なものから、軽犯罪にいたるまで様々にありますね。
このように、この世における様々なできごとの中で、それが神仏の視点に立ったとき、これらのできごとは善なのか悪なのか、
またその善や悪は、どの程度のものなのかを、仏教のような経典型の宗教ならば理解でき、結果的に身につけることができるのです。

これが、宗教教育の意義です。
一定の価値を押し付けるのが宗教教育ではなく、それを元に価値の体系を理解し、体得できることが宗教教育の意義です。

これを今の世界では、日常的に行っているのですね。
それらを主に、聖書を中心に行っているのが世界です。
ですから海外の方は、論理的思考(ロジカルシンキング)が得意であり、論戦(ディベート)が強いのです。

また仏教では、他の宗教とは違い、因果の理法・・・つまり、原因と結果という科学的思考を重視しますので、論理的思考と同時に、近代で人類の多くが得た科学的思考も、理解し身につけることができました。
教えのない神道の元での古代日本に、聖徳太子は論理という思考の光をもたらせたのです。


しかし日本人は伝統的に、論理的思考が苦手と言われます。
それはディベートの弱さとなって現れております。
それは、宗教教育が定着していないからだと私は思います。

あれ?
おかしいですね。
聖徳太子の時代から、はや1500年の歳月が流れております。

なぜ日本では宗教教育がなされず、高等宗教と言われる仏教が定着しているにもかかわらず、日本人は論理的思考が苦手・・・と言われているのでしょうか?

それは時代を下って、暗い影を日本の宗教界に投げ込んだ、一人の有名な僧侶がいたからなのです。

                                                   (続く)


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