釜石の日々

紫波町の蓮の花

7月に入ると近年は毎年、紫波町にある五郎沼に出かける。北上川沿いに開けた平野にあり、遠野と同じく農村地帯で、縄文時代からの歴史の町でもある。釜石に来て最初に紫波町に興味を持ったのは、志賀理和氣神社(しかりわけじんじゃ)と言う名の神社の存在であった。日本での最北端の式内社だ。例のごとくと言うか、社伝では804年に坂上田村麻呂が勧請したとされる。803年には志波城が、また811年には徳丹城が蝦夷平定のために造営されたとされる。紫波郡にはそれらの跡が遺されている。東北にはあまりにも多く坂上田村麻呂による勧請寺社が存在する。しかし、陸前高田市の衣太手神社(東御殿)、登奈孝志神社(中御殿)、理訓許段神社(西御殿)三宮を合わせた氷上三社、つまり現在の氷上神社にも見られるように、むしろ名称からしてまさに蝦夷にまつわる名称だと思われる。五郎沼も蝦夷の末裔である奥州藤原氏初代藤原清衡(きよひら)の孫、桶爪太郎俊衡(ひづめたろうとしひら)、五郎季衡(ごろうとしひら)兄弟の館、桶爪館のそばにあり、五郎がよくそこで泳いでいたことから付けられた名と伝承されて来た。館は1189年に源頼朝により奥州藤原氏が攻められた際、桶爪太郎俊衡が自ら火を付け、逃れたとされる。平泉には藤原氏の柳之御所跡がある。同じくこの紫波町の桶爪館にも「政庁」や「御所」があった。現在五郎沼近辺は「日詰」と表記されている。室町時代には足利尾張家の末裔とされる斯波氏の一門の高水寺斯波家がこの地域を支配している。なお、出羽の最上氏も同じく奥州斯波氏の一つである。紫波町には多くの歴史的な寺社や遺跡がある。五郎沼には800年前の蓮の花が咲く。平泉の中尊寺金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡の奥州藤原氏3代の遺体と4代目の泰衡の首級が納められていた。1950年にそれらが調査され、泰衡の首級が納められた首桶から100粒ほどの蓮の種が発見され、古代蓮の著名な研究者である大賀一郎博士がそのうちの5粒を持ち帰り、1998年にそれが開花した。五郎沼の蓮はその800年の眠りから蘇った蓮である。紫波町には他にも蓮が見られるところがある。浄土真宗大谷派の光圓寺である。境内が広く、恐らくかっては境内周囲に堀があったと思われる。二つに別れた沼地に蓮が何本も花を咲かせる。白蓮と黄色系の4種の蓮が植えられていると言うが、先日行った際には、ほとんどが白で、わずかに二つだけピンクの花が咲いていた。境内の池には睡蓮や菖蒲があり、近くには紫陽花が咲いていた。蓮の花を見終わって、ふと目の前の側溝をみると、水面に動くものが見え、近付いて見ると、何匹かのザリガニであった。おそらく蓮のある沼にもいるのだろう。光圓寺はたくさんの白い蓮の花が咲き、五郎沼は綺麗なピンクの蓮の花が咲く。紫波町は奥羽山脈から北上山地の間に広がる田園地帯で、遠野とはまた違った風景を見せてくれる。歴史的な遺物も多く、岩手では遠野とともに惹かれる地域だ。
五郎沼の800年前の古代蓮

光圓寺の蓮

蓮の沼の側の側溝にいたザリガニ
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