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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

夢と未来に羽ばたかない

2008-11-23 00:14:20 | 日本脱出
最近校舎が新しくなった小学校の階段室らしき部分の窓に大きく「夢」「と」「未」「来」「に」「は」「ば」「た」「く」と書いた紙が貼ってあった。一文字が1つの窓に大きく貼ってあった。

何て小学校らしいんだろう。そう言うところは30年前とあまり変わっていないのだなあと思う。まあ、あまり深い意味を考えなければ美しい語感で良いのだろうと思う。これを掲げたからと言ってどうにかなるのだろうかとも思うが。きっと誰も気にしない。


しかし、見てしまうとやっぱり気になる。何が気になるかと言うと、「夢と未来にはばたく」のがあまりにも普通過ぎて誰も変だと思わないのが、どうしても気になる。

小学生に対して「夢と未来にはばたきなさい」と言う。つまり未来の夢や希望に向かってがんばって勉強しなさい、と言うような意味だ。それも普通だ。子供が勉強するのは普通だから。誰も不審には思わない。

と言うことは、子供たちは学校で、未来のためのキツイ修行生活をしなければならないわけだ。その事自体はそう言うこともあるかも知れない。

気になるのは、そのもっと元にある考え方の部分。小学校に行って勉強するのは未来への単なる"過程"なのか、そして未来はそれによって得られる"結果"なのか、と言うところ。


そう言うメンタリティーで育てられ教育されたと、今になって自分では感じる。勉強するとテストの点数が良くなる。成績が良くなる。良い学校を受験できる。良い会社に入れる、そんな結果らしきものが小出しに提示されて何とか成人になるまでやってきたりする。会社でも良い地位とか給料とか上司からの受けの良さとかいろいろな結果が小出しにされる。

でも、そんな結果は過ぎてしまうと実は何でもない、それもただの"過程"の一つに過ぎなかった。

結局、はばたくほどの未来なんて何も無いって事が理解できただけだ。


しかし、そうして刷り込まれた習性と言うのはなかなか手放せないもので、こんなに時間が経過して人生も半分を過ぎる頃になってもまだ未来に結果を求めようとなどしてしまう。こうして修行のように何かをしておけば資格が取れるとか、仕事にありつけるとか、お金持ちになれるとか、いろいろあるだろうけれども、人生の時間の全てを"過程"にしてしまおうとする。

それじゃ人生の時間をいったい何時味わうんだ?
ずっとずっとそうやって生きて、何時かきっとパッタリ倒れて死ぬだろうけれど、そこまでのどこで味わうって言うんだ?


でも、素晴らしい未来なんて無かったって、何の良い結果も無かったって涙する事はないと思う。今からの全部の時間を"過程"じゃなくて"結果"にしておけば良いだけの事なのだから。常に今が結果。だから資格を取るためとか試験のために勉強するなんて修行じみたことは止めよう。常に今と言う結果を受け入れて、そこから全て始めるようにしよう。

ここでこうしていられる時間、それが生きてるってことの実態だし、それが何故かは置いといて、きっとラッキーなんだよね。


だから「夢と未来に羽ばたかない。」

無題

2008-11-20 23:35:40 | 日本脱出
久しぶりにEaglesを聞く機会に恵まれた。

高校生のころ"Hotel California"が流行っていて学園祭でちょっとカッコつけた者たちが教室で大音量で何度も何度も弾いていたのを思い出す。その時は耳触りの良い曲だとしか思っていなかったけれど、後になってよく聞いてみるとずいぶんと意味深い詞の曲でびっくりしたものだった。

あれを弾いていた連中は今でも心にスピリッツを持って生きている.....そんなわけ無いな。たぶんただのおっさんになってるだろう。

結局どんよりした70年代、無気力からバカ騒ぎに変わった80年代、それから今に至るまで新しいスピリッツは蒸留されなかったわけだし、チェックアウトして出て行った人間は誰もいなかったと言うことだろう。"受け入れるようにプログラムされている(We are programmed to receive.)"と言うのは正しかったんだなあと思う。


今、その"受け入れる"と言う言葉がもう一つの意味を持ち始めたように感じている。


.....そこから先も書こうと思ったけれど、今は止めておこう。

今日の夕方の雲は素晴らしくキレイだった。こんなに汚い街の上にもこんな雲が漂うことがあるものなんだなあと感心するほど。素晴らしいよね。

夢見る幸せ、それとも不幸?

2008-11-19 11:20:48 | 日本脱出
しばらく以前に「明日があるさ」と言う曲がリバイバルヒットしていたことがあった。

>明日があるさ明日がある
>若い僕には夢がある いつかきっと いつかきっと....

こんな歌詞だったと思う。
これを歌う人も聞く人も嬉々としてとても楽しそうだ。
スポーツでも将来の進路を考える場合でもよく先生や先輩や親などから「夢に向かって一直線に....」と言うような言葉を聞かされるのはよくある事。「明日があるさ」の思いと共通するものなのかと思う。

しかし、「明日があるさ」には、その明るい未来とは反対の暗い影のようなものが感じられてならない。(そう思う人は他にいないだろうか?)

明日の夢に自分の将来を託そうと思う、明るい未来を夢見る、それは何故なのか? 
今が苦しいから? それとも現在ある苦行を正当化するため?

将来の夢は「○○○になること」だとしたら、自分以外の何かになると言う事? 現在の自分は成りそこないの○○○と言うことか? 昔の人は子供に期待する気持ちを込めて「末は博士か大臣か」などと言ったものだけれど、そう期待された子は果たして幸せなんだろうか。

なぜ道を歩くのですか?

2008-08-16 10:01:49 | 日本脱出
A「あなたは何故、道を歩くのですか?」
B「目的地に行くためです。」

日本では歩く場所は道と決っている。どうしてなんだろう?

それがあたりまえ?

道以外の場所に誰かが建物を置いて通れなくしているからじゃない?

誰かって誰?

あの人、その人、自分だ。

あれっ? 最初にあったのは道なの? それとも建物なの?

どっちが先にできたんだろう?

道の脇に建物を作ったのか、それとも建物と建物の隙間が道なのか?

どっちを先に決めたとしても、そんな「あたりまえ」と「不自由」を作ったってことじゃない?

魚がどうなった?

2008-07-16 09:46:07 | 日本脱出
ニュースでは石油高のために漁船が出ないと言う。新聞にもそう書いてある。漁師さんたちが損失補てんを求めてデモをしている写真も出ていた。ワイドショーではコメンテーターが政府は補償して.....(なんとかかんとか)言っている。この前まではこの値上げラッシュで消費者の生活はどうなってしまうのでしょうか、などと言ってたのに今日はまるで反対の立場なのが面白い。漁師さんたちはずっと昔には魚がたくさんとれてお金が貯まって猟師町に御殿がたくさん建っていたんじゃなかったっけ? (昔のことだけど)

などと、思って今朝の折込広告を見るとこんなのが、いったいこのチグハグさは何なのだ? 何時もより魚が安いじゃないか。


追加
この騒ぎで魚を食べなくなると近い将来アルツハイマーになる人がさらに増えて保険料もさらに重くのしかかってくることに成るのだろうなあ。

資格ランキングに寄せて

2008-05-31 00:00:13 | 日本脱出
今までの人生をリセットして、新しい未来が期待できる資格ランキング - goo ランキング


gooランキングにこんなのがあった。資格と言うと何かしら前向きなもの、オーソライズされた立派なものと言う印象がある。その資格を持っていると一応のレベルに達している印みたいな感じのもので、多くの人が一所懸命勉強してその取得を目指している。

何も考えなければそれで良いのかも知れないが、実態はたいした資格でもないのがほとんどじゃないだろうか。資格は昔から「サムライ商法」と言われ、資格ができるとそれにコバンザメのように商売人が寄り添ってくる事でひとつのエコシステムができあがる。少し時間が経つとそれは利権になってもう壊すことも変更することも難しくなってしまうものだ。("士"="サムライ")

例えば美容、理容を行うための資格は美容師、理容師なのだけれど、これは鋏を使うことから衛生面を担保できれば良いだけのものだったはずが、なぜか美容学校、理容学校を卒業しなければ取得はほぼできないことになっている。髪を切ってもらうのに実はその腕前などどうでもかまわないわけで、それはサービスを受ける方が上手い人を任意に選べば良いだけのこと。ただ最低限の安全だけはお願いしたいからその資格は必要なものなのだが、学校ではそれ以上のことを教えている。そのコストは安くない。そんな学校を出ないと美容師にも理容師にもなれないのだから、これもすでに既得権益だし資格を出す財団法人との間に強固な癒着が存在しているわけだ。

そう言う取得に無駄な時間とコストを要する資格は他にもたくさんある。

だから、日本で出されるほとんどの資格は日本でしか使えない。世界は広いのに資格を取得する目標を掲げた時点でかなり内向的な態度で勉強しなければならないわけだ。

実のところ、資格はそれを取得する人のためのものと言う印象を与えながら、本当は資格を出す人間たちのためのものである可能性がかなり高いと言わざるを得ない。近年、どんどん新しい資格ができているのは、世の中の変化に人材を対応させるためではなくて、天下り先を確保する手段なのである。

資格によって我々はそのカテゴリーの人間にされ、資格取得によってそのヒエラルキーの末席に座らされ、そして想像力まで奪われるのがオチではなかろうか。


免許取得 -管理人はつらいよ

Wapedia-Wiki:天下り

パンダ1億円は本当?

2008-05-02 23:42:26 | 日本脱出
石原都知事:パンダ「いてもいなくても…」-毎日jp

パンダ借り入れ、中国に要請 首脳会談でも議題に?(朝日新聞) - goo ニュース

パンダのレンタル料がペアで1億円だとの噂だけれど、その根拠が探せない。どこを検索しても噂話しか出てこない。ではその噂の金額の出所は何処?


それでは、と言うことで一応簡単に調べてみた。これだからネット社会は便利。

まずは文部科学省から。
文部科学省の予算を見ても概算しか出てこない。これではもしそこからパンダのレンタル料金が支出されていてもわからない。何せ、1億円の献金を忘れたなどと言う人たちが面倒見ている政府組織内だからパンダに年間1億円出していても領収書は開示されないと言うことか。

それではお金をもらっている方の上野動物園の所属する東京動物園協会の財務に関する資料を見てみる。

これによると、国からは直接資金供給は無いようで、出しているのは東京都となっている。


さて、ならば石原都知事が「パンダはいらない」と言う意味はわかる。都が作った銀行に400億円も余分に支出せねばならないのだからパンダ予算だって削りたいだろう。東京はフリーターが飛びぬけて多いし、地方から未だにたくさんの人が流入しているし、カジノもオリンピックもやりたいし、石原さんもパンダ代は節約したいのだろう。

待てよ、それならなぜ福田首相が中国に対してパンダ借り入れ交渉するのだろう? これは筋が通らないのではないか? 金は出さずに口を出す? いったいどうなっているんだ? 東京都経由で文部科学省の予算が下りているのか?


ところで、日本人の皆さんはパンダが欲しいのだろうか?
私はいらないなあ。パンダが見たければ中国に行って見れば良いと言う石原氏の意見に賛成。飛行機代安いんだからとか、そのお金を別のところに使えってだけじゃなくて、上野動物園でパンダを見るときのあの違和感が嫌だから。

上野のパンダは特別扱いされてガラスの箱の中に住んでいたけれど、それはパンダと言えるのだろうか? 確かに生物学的にはパンダだろうけれど、それはパンダの"殻"であって"生きている"パンダとは言えないだろう。

マトリックスと言う映画の中で首に管を刺されて夢見ながら培養されている人間に似たものを感じてしまう。人間は「人間らしい生活」とか「自分らしい生き方」なんて言葉を使ってものを言うとき、自分の体が生物としてきちんと機能している事だけを言うのではなくて、その置かれている環境まで含めて「人間」や「自分」と言うと思う。

なのに動物に関して言う場合にその本体だけを言うのはやっぱりおかしいんじゃないかなあ。全ての動物をこちらから見に行くなんてとてもできる事じゃないが、たまにはちょっと遠くまで行かないと見られない動物がいてもかまわないじゃないか。どうせ見るならパンダらしいパンダが見たい。

正社員化

2008-04-24 10:20:44 | 日本脱出
「フリーター100万人を正社員化」 政府目標、3年で(朝日新聞) - goo ニュース


すごく聞こえの良いタイトルの付いたニュースだ。

けど、すごく「否定的」ニュアンスも感じてしまうものでもあるなあ。


フリーターを正社員にしようと目論んでいるちゃんとした人たちかた見れば、それはフリーターは所謂(いわゆる)「ちゃんとしてない」者たちなのだろう。

「ちゃんとした」人たちは正規雇用されていて、毎月ある程度決められた収入があって、社会保障もあって、多分多くに家族もあって、家を買って、30年ローンも組めて、週末にはレジャーに出かけて、話題のスポットに買い物い行って、将来にもあまり心配も無くてと言うような「ちゃんとした」生活を送っている人たちのことだと思う。

「ちゃんとしていない」人たちはアルバイトとかパートで働いていて、長く仕事をやっても昇給はないし、ボーナスも無い、国民年金を自分で手続きして支払っていて、ちょっと長く病気になると解雇されて、家は安アパートで、結婚するなんて夢のようなことで、遠くまで遊びに行くなんてなかなかできないような「ちゃんとしていない」生活を送っている人たちだろうか。

この「ちゃんとしていない」人たち像を思い浮かべた「ちゃんとした」人たちが考える100万人を正社員化ってのは、やっぱり、かなり否定的見解の結果なんだろうと思えて仕方ないなあ。


でも「ちゃんとした」人たちの「ちゃんとした」生活って、本音で言って、そんなに良いもの?

「ちゃんとした」事をするにはそれなりの(良く言えば)努力ってのが大きいんじゃないかな。悪く言えば「我慢(がまん)」かも知れないよね。もちろん、我慢している人ばかりじゃないけれど、どちらかと言えば我慢している人の方が大多数だろうと思う。多分95%。

こんな事詳しく言うまでも無いので割愛してしまうけれど、人を幸せにしない日本と言うシステムの中で「ちゃんとした」人生を歩むって、それは幸せになる事なのかなあ? 100万人が正規雇用になって、「ちゃんとした」人になって、それは幸せになるってことなのかなあ?

「ちゃんとしていない」人たちが経験している「仕事をやった分だけお金を貰うって言う」システムはある意味フェアなやり方だと思うけれど、日本の中では「ちゃんとした」人たちのやりかたとの間で根本的なアンフェアがあって、その結果フェアなやり方がダメなやり方になってしまっているんじゃないんだろうか。

そのアンフェアを解消するのが本来やるべきことじゃないのかな。100万人をその中に組み込んでまた多数派にしてしまえば、確かに問題は無くなるように見えるけれど、それは問題が無くなるんじゃなくて見えなくなるだけじゃないのかな。


「ちゃんとしていない」人たちの中にはそれを選んでいる人もいるわけで、それをダメの部類に入れないで「それもアリだね」って言ってやる優しさが、本来的には必要なんじゃないかなと思う。

「意見を変えた」

2008-04-24 07:54:06 | 日本脱出
逮捕状取り消し請求審理へ 米ロサンゼルス銃撃事件(産経新聞) - goo ニュース

ずっと昔の三浦さんの事件、あの時は多分無罪になるだろうなあと思っていたらやっぱりそうなったけれど、その事件がまたここで出てくるなんて不思議な気がする。


この事件そのものについては、いつもながら、ここではどうでも良い。問題は今回の審理の流れの方なんだ。

さっきテレビ朝日の朝のワイドで現地レポーターが日本時間早朝に行われた逮捕状取り消し請求の初審理が終わったと言っていた。この審理では弁護士による意見が検討されて、結局再審理が行われる事が決まったそうだ。

そしてそこに注目の一言が入っていたのを聞き逃すわけにはいかないね。判事は弁護士の意見を聞いて「意見を変えた」と言ったんだ。もうちょっと詳しく言うと、最初判事はこの、三浦氏の逮捕を取り消すかどうかを決める審理は三浦氏をロスに移送してからにすべきだと考えていたらしい。しかし、弁護士の申し立てに従って開かれた今回の審理で弁護士の意見を聞くうちに「意見を変えた」そうだ。


「意見を変えた」これを英語のニュアンスでどういったのかはわからないけれども、それが普通に日本語的な意味でのそれであったなら、これは驚くべき事だね。

日本では有り得ない。絶対に、天地がひっくり返っても有り得ないことだよ。


日本でもこうしたお話し合いで何かについての意見を交し合う事はあるし、その結果としてきっと何か決まることもあるよ。でも、当事者たちが自分の「意見を変える」なんて、絶対に有り得ないだろう。

日本では「意見を変える」事はせずに「折り合いをつける」んだ。折り合いってのはどっちの意見も曲げないままに「仕方ないなあ、あんたがそう言うんなら、それじゃまあ、こっちもここまで譲るから、なあどうだい?」「そうだなあ、そんじゃこっちもそこんとこは譲るからさ、この件はこのあたりで丸くおさめとこうよ。」って言うような事だ。この中にもう一人、仲介役のような人が入ると「まあ、ここではあんたの顔を立てて...」となるようなこと。


日本では自分の主張を曲げたり、まして間違っていたことを認めたりするのは美徳としてはよろしく無いわけだから、誰かと折衝して結論を出すとなるともうそこには「折り合い」しか無いことになる。自分の面目がつぶれないようにしてくれよって言い続けるしかないわけだね。そうならないとカッコ悪いから。


本当の事言えば、それじゃ話し合いにはならないと思うんだ。相手の言うことを聞く機会ができたのにそれを聞かないで自分の事を主張し続けるなんてやり方じゃ、本当には結論には達しないし、自分のためにもならないでしょう。他人の意見を聞けるのは自分にとっての一つのチャンスじゃないのかな。

だから「意見を変えた」って公言できるってすごい事だと思うんだ。日本人に限って言えばそれを言える機会が一生に一回でもあったら幸せかも知れないなあ。アメリカ人には当たり前でもね。

空が青い

2008-04-02 16:32:15 | 日本脱出
昨日の空は青かった。

それは奇跡のように青かった。奇跡でなければもしかしたら自分はもういつの間にか死んでいて死後の世界に入り込んだのではないかとさへ思った。

そう思わせるもう一つの要素がそこにあった。昼間だと言うのに町には人が一人もいなかった。家々のシャッター式雨戸はアイボリー色に太陽光を反射して閉まったままだしアスファルトは白っぽく乾いた色をしている。蟻一匹いない。

こんな良い日に誰もこの空を見ていないなんて全く信じられない。映画で良くある住民全員が忽然と消え去った町そのものだった。


我に返って思う。
普通の日本の郊外の町はこんなものかも知れない。きっと夜になると車が家の前に帰ってきて家のあかりが点されるだろう。テレビも点けられてご飯になって風呂に入るのだろう。別にそらが青かろうが赤かろうがそんなことはどうでも良いのかも知れない。

久しぶりに見るこの町の様子はゴーストタウンそのものだ。全ての商店はシャッターを下ろしてしまって人影は無い。もう人々はこの町には寝に帰るだけなのだろう。

子供のころ見たここは何かもっとしっとりとした、例えば人の吐いた息の中で暮らしているような雰囲気があったと思う。今は乾いてしまって砂漠の風が吹くようだ。記憶の中のこの町では特に良い事も無かったように思う。他の人達もそうだたのだろうか。だからこうなってしまったのだろうか。

さっきニュースで その2

2008-03-28 22:03:27 | 日本脱出
大学進学が経済的理由でかなわず、人を傷つけるような事件を起こしてしまった子の父親が報道関係者の前で頭を下げたそうです。

このお父さん、良い人だったのかも知れない。
子供に対してお金が無いから大学諦めてくれと正直に言えたのだから。どうしようも無かったのかも知れないが、成績も良く進学を希望していた子に対してなかなか言出だせる事でもないはずだから。どんなふうにそれを伝えたんだろうか。

しかし、今普通に進学する事はダメかも知れないがそれに変る別の方法を提示してやれなかったのか、とも思う。皆が普通に進む道ばかりが道じゃないのだし。親ばかりでなく、高校の先生達や周りの大人たちもそれを提案できるアイデアを何も持っていなかったのか。それともそう言うチャンスが無かったのか。

どちらにしても厳しいし悲しい社会ではないか。
もっといろいろなやり方やいろいろな人生の方法論があるのだと、たった一言も、言ってやれないのだから。回り道や一度のすらもマイナス要素と見られない社会なんて。


こう言う記事を読んで自分の周りの人でなくて良かったと思って終わりが普通だろうか。でも、日本は1年間に1000人の殺人犯を毎年産み出している社会。年末ジャンボ宝くじで1億円当たる人数よりもずっと多いのに。なのに宝くじは当たるかも知れないと思って買って、身内に殺人犯が出るはずは無いと思うんだよね。

さっきニュースで

2008-03-27 09:15:26 | 日本脱出
さっきNHKニュースで70代になってから役者を目指した人のことを放送していた。それまで普通に幾つかの会社に勤めていたが自分の本当にやりたい事は無かったそうだ。役者になった時には親戚中大騒ぎだったらしい。

その後病気になって一時はもう役者として復帰できないかと思われたがどうにかまた舞台に立てるまで回復し、その画像が出ていたのには二度びっくりさせられた。


その後、経済的理由で大学進学を断念した子供が駅のホームで人を突き落として殺してしまったのが報道されていた。高校での成績は良かったらしい。


若いうちに人生を諦めてしまう人、歳とってから新しく何かを始める人、いろいろな人生がある。でも多くの場合そのいろいろに対して他人(ひと)は優しくない。「今からそんな事初めて何になるの。」よく言われる事だ。

暗いけれど

2008-03-03 08:55:43 | 日本脱出
ジャカルタの空港に降りたってまず感じるのは臭い、いや匂いだろうと思う。甘い香りと言うか丁子(ちょうじ)煙草の香りでしょうか。良くも悪くもあの香りは独特です。

そうしてもう一つ感じるのは「暗い」ってことじゃないでしょうか。私は台北の空港からだったのでなおさらその落差を大きく感じたのかも知れません。日本の空港もものすごく明るいので同じかもしれませんけれど、何しろジャカルタの空港は暗いんです。

国際線ターミナルも暗いのですが国内線ターミナルはもっとずっと暗いです。(写真)日本で言えば深夜の無人駅の暗さじゃないでしょうか。


でも、しばらくしてその暗さになれてくると別の事を思うようになりました。

「これで良いのかも」と。

別にこれで不都合じゃありません。飛行機が遅れたためにここでお弁当が出たのですけれど、暗いからと言ってご飯を鼻に運んでしまうほどではないわけですから。逆に日本や台湾の空港の明るさって何だったのだろうとも思えてきます。

そう言えば以前、インドネシアで欧米人の借りていた部屋を見せてもらった経験がありましたがそこも間接照明がぼんやり灯っているだけでとても暗かった記憶があります。その時は照明の効果で雰囲気があって良いと思ったのですが、確かに暗くて本を読もうと思えばそれ用の別のランプが必要なようでした。


我々は何となく明るいのが良いと言う感覚の中で生きていますからどうしても明るくしてしまう習性を身に付けてしまっているんだと感じました。その結果不必要な明るさが当然になってしまったのかもしれませんね。

そんなところも自分に問いかけてみる必要がありそうです。