もんく [とある港街の住人]

夢と未来に羽ばたかない

最近校舎が新しくなった小学校の階段室らしき部分の窓に大きく「夢」「と」「未」「来」「に」「は」「ば」「た」「く」と書いた紙が貼ってあった。一文字が1つの窓に大きく貼ってあった。

何て小学校らしいんだろう。そう言うところは30年前とあまり変わっていないのだなあと思う。まあ、あまり深い意味を考えなければ美しい語感で良いのだろうと思う。これを掲げたからと言ってどうにかなるのだろうかとも思うが。きっと誰も気にしない。


しかし、見てしまうとやっぱり気になる。何が気になるかと言うと、「夢と未来にはばたく」のがあまりにも普通過ぎて誰も変だと思わないのが、どうしても気になる。

小学生に対して「夢と未来にはばたきなさい」と言う。つまり未来の夢や希望に向かってがんばって勉強しなさい、と言うような意味だ。それも普通だ。子供が勉強するのは普通だから。誰も不審には思わない。

と言うことは、子供たちは学校で、未来のためのキツイ修行生活をしなければならないわけだ。その事自体はそう言うこともあるかも知れない。

気になるのは、そのもっと元にある考え方の部分。小学校に行って勉強するのは未来への単なる"過程"なのか、そして未来はそれによって得られる"結果"なのか、と言うところ。


そう言うメンタリティーで育てられ教育されたと、今になって自分では感じる。勉強するとテストの点数が良くなる。成績が良くなる。良い学校を受験できる。良い会社に入れる、そんな結果らしきものが小出しに提示されて何とか成人になるまでやってきたりする。会社でも良い地位とか給料とか上司からの受けの良さとかいろいろな結果が小出しにされる。

でも、そんな結果は過ぎてしまうと実は何でもない、それもただの"過程"の一つに過ぎなかった。

結局、はばたくほどの未来なんて何も無いって事が理解できただけだ。


しかし、そうして刷り込まれた習性と言うのはなかなか手放せないもので、こんなに時間が経過して人生も半分を過ぎる頃になってもまだ未来に結果を求めようとなどしてしまう。こうして修行のように何かをしておけば資格が取れるとか、仕事にありつけるとか、お金持ちになれるとか、いろいろあるだろうけれども、人生の時間の全てを"過程"にしてしまおうとする。

それじゃ人生の時間をいったい何時味わうんだ?
ずっとずっとそうやって生きて、何時かきっとパッタリ倒れて死ぬだろうけれど、そこまでのどこで味わうって言うんだ?


でも、素晴らしい未来なんて無かったって、何の良い結果も無かったって涙する事はないと思う。今からの全部の時間を"過程"じゃなくて"結果"にしておけば良いだけの事なのだから。常に今が結果。だから資格を取るためとか試験のために勉強するなんて修行じみたことは止めよう。常に今と言う結果を受け入れて、そこから全て始めるようにしよう。

ここでこうしていられる時間、それが生きてるってことの実態だし、それが何故かは置いといて、きっとラッキーなんだよね。


だから「夢と未来に羽ばたかない。」
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