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もんく [とある南端港街の住人になった人]

スペインかポルトガルの港町に住みたい
日本→インドネシア→台湾→マレーシア→日本
since Oct. 2004

もうメールやめたいです

2011-03-02 23:47:45 | いろいろ雑記帖
もうちょっと前のことになってしまうのですが、仕事場のメールサーバがダメになったことがありました。

マイクロソフトのエクスチェンジと言う製品です。家庭のパソコンなどですと電源を落として再起動したりすれば割合簡単に回復したりするものですが、どうしたわけかまる1日ダメだったようです。

それで仕方なくプライベートなメールアドレスは使わず、gmailに一時的なアカウントを作って対処しました。セキュリティ上どうなのかわからなかったので、ファイル送信が必要なときは添付せず、そこにたまったメールは後で処分することにしました。


いつも言いますが、メールを使う習慣、と言うか時代はそろそろ終わりにした方が良いように思います。たまったメールは大事ですが、後で使おうと思って保存しておいても検索が大変ですし添付ファイルの書類の中身まで検索するのもさらに大変です。それにメールがあったことさへ忘れます。さらに自分に配信されなかったメールの情報は永久にわかりませんし、提供できる情報が自分にあっても気づかなければ終わり。もったいないです。


もうちょっと簡単でビジュアルで見られて編集できる情報ツールってできないものでしょうか。クラウド的なグループウェアみたいなものが。今のグループウェアは入り口が整理され過ぎていてできることが限られているし何だかビジネスっぽ過ぎる。それに面倒で貧相な感じがします。

上に描いたのはグループ・マインドマップっぽく考えたグループウェアのようなものです。こんなのどうですか? 会員制交流サイト(この前、ニュース記事がフェイスブックの事をこう読んでいました。この言い方、面白くないですか?)みたいでもあります。

カンニング?、悪いの?

2011-02-27 22:29:48 | いろいろ雑記帖
掲示板でリアルタイムに大学入試の問題を書いて誰かに答えを求めた人がいると言う事件があったのですね。ニュースに出てました。

複数の大学でたぶん同じ人がそれをしたようだけれども、いずれもレベルの低い大学の名前ではないので不正をしたにしても入試前まである程度は勉強はしていた人なのかと思う。それにしてもカンニングは今の試験の方法では良くないこと。


と、そうも思うけれども、大学の入学試験のあり方自体もどうかな、と思わないでもない。

それは昔からあまり変わっていなくて、極論すれば「たくさん覚えてたくさん出す」、ノバうさぎ(ちょと古い)方式のもの。もちろん豊富な知識はそれはそれで大切だし、それが蓄えられるのも一つの才能なり能力になるのだと思うけれども、これだけ世の中が変わり、世界の中の日本のポジションが変わってきているのに未だ受験制度は数十年前のまま、試験方法は大昔のままと言うのも何か変だろう。

だいたい、そのやり方でやってきて、日本中の多くの人が大学に行くようになって日本にとって何が良かったのかと考えると特にたいした事ができたわけではない。(今、大学進学率が50%もある。)それなのに、今時インターネットで調べればかなりの事がわかるのにそれをわざわざ覚えておいて紙に書くなどと言うのが未だに試験として成立している方がずっとおかしいのじゃないかと思う。

そうして良い大学に入った優秀そうな人を企業が採って、今の日本の学生はダメだと言っているのだからいったい国をあげて何をやっているのだかわからない。だからインターネットで解決できるような問題をそもそも出す方も出す方だ。カンニングする方と同じ位におかしいのじゃないか。



例えば、誰かをつかまえて議論しなければ解決できない問題を出してその場で一緒に試験を受けに来た人と議論させてから回答させる。それを試験管が評価して得点を加減するとか、どこかの国の英語の新聞を読んで自分の立場述べさせるとか、いろいろ試験方法はあるのじゃないかと思うけれども、どうだろうか。またそんな問題だったら出題から1週間して回答とプレゼンで入試にするみたいな方法もあるわけだし。

日本の場合は客観的に比較ができる点数式でないと不公平が出るとか変な反対が出るのでなかなか実現しないだろう。けれども医者になる人に必要な能力、エンジニアのための能力、サービス業に従事する能力、経営者になる能力など皆違いがあるのに公平に審査するために同じように試験を受けるのもおかしい事だ。

たまにはその場をどうにか乗り切るために即効性のあるカンニングのような行為で凌ぐ能力が必要な場合もあるかも知れない。だから単にカンニングが悪いなどと言う意見が蔓延する方が幼稚なのかも知れない。今の日本でこんな入試のままで良いのか、と考えてみる方が良いのじゃないだろうか。

中国人が食糧難を救う

2011-02-24 22:03:31 | いろいろ雑記帖
チャイニーズから教えてもらった美味しそうな料理を紹介します。

炒め物ですね。

せっかくですから皆さんもおうちで料理してみてください。
どこのご家庭にもある材料でとても簡単にできるんですよ。

今日は特別に逆回しで見てみましょう。
(10)完成図ですね。
(9)ビンから材料を取り出しています。
(8)冷蔵庫に1晩寝かしてあったんですね。下ごしらえですか。

(7)この時点ではまだ固そうですね。醤油は丸大豆に限ります。
(6)ベーキングパウダーも入れていたのですね。

(5)重曹も入れていました。
(4)おやこれは何でしょうか?、やわらかくするための何かでしょうか。
(3)お酒に漬けています。

(2)キッチン鋏で食べやすいサイズに切っておくわけですね。
(1)わ、わ、わ、割り箸に見えますけれど......


ちょっと驚く結末でしたが、よく考えてみれば近代の日本の食料品加工の歴史はこれと同じです。

チョコレートが高くて買えなかった時代にはチョコレート菓子のようなチョコレートらしい味のするお菓子ができました。缶ジュースはジュースなどと俗称で呼ばれますがジュースではありません。中身が本物のジュースである場合は今でも値段が高いのです。ソーセージと名が付くものはオリジナルと比較すればソーセージのような何かでしかありません。日本食の代表格である寿司に乗っているイクラやカニは本物でない場合も多いものです。犬や猫や鳥だって自然の中には絶対に無い人口フードで生きています。

そう考えると割り箸料理をバカにする事はできません。

将来、食べるものが不足してくると現在は食べ物として認識されていないものが食べ物に変わるかも知れません。牛や鳥の肉が不足した場合に虫やミミズを養殖して食べるかも知れませんし、割り箸のもとの木だってどうにか消化できないセルロースを薬品処理して食べられるようにする可能性だって無いとは言えません。


割り箸料理を食堂で出していたりメンマに混ぜて売っていたらひどい事だと憤慨する人は多いでしょうけれど、こうした間違った発想だって将来何か役に立つことだってあるのではないでしょうか。

(割り箸料理を本当に自分の手でやってみた人はエライ!)

正社員と非正社員の足し算引き算

2011-02-21 23:59:59 | いろいろ雑記帖
亀井静香氏が郵政をやっていたときに22万人の非正社員が郵政グループで働いていて、そのうち10万人を正社員化すると言っていた。どこからそんなお金が出るのかなと思ったが、もちろん郵政の事業収入なく税金投入だろうとは想像できる。なぜなら小泉改革を元に戻そうと言う魂胆だと言うのは誰にもわかることだったからだ。

その後、実際に10万人は無理だったろうけれども日本郵便で約6500人が正社員となったと報道された。そのまま順調に正社員数を増やし続けられるわけはなく、郵政は2000人の新卒採用を止めたし2000人の非正社員を雇い止めにして追い出すことに決めたと言う。6500人の枠に入った人と採用されなかったり追い出される4000人は文字通り明暗を分けた形になる。

総務省の発表によると現在の完全失業者は334万人。そのうち1年以上の長期失業者が121万人と、完全失業者の36%、1/3強もいるとのこと。残りの210万人の中にもその予備軍はいるのだろうから弱者が固定される現象が顕著になってきているのだと思われる。


そこで、単純に思うのは、今の政策では不安定な非正社員を正社員に取り込みなさいと推奨している。そのためにお金も撒いている。さて、非正社員を能力や志向など気にせず、正社員の枠に全て(は無理だとしてもその大部分を)押し込むことができるのだろうか?、と言う疑問だ。


昔のように右肩上がりの経済であれば多少の余裕と言うことで、いくらか昼行灯(ひるあんどん)が灯っていても許されたかもしれない。現在はこれまでの利益の源である生産活動が(とっくに)海外移転していてそれほど頭数は必要でないだろう。頭数だけなら外国の方が安いと言うあたりまえの事が言えるわけだから、いくらこれまで一所懸命仕事してきましたと言ったところで相手にされるわけが無い。

だからいくら雇用促進を進めようとしても景気刺激をしてもその流れを変えることはできないだろう。日本円の価値が今の1/3になって、給料の額面がそのままだったら変わるかもしれないが。求職者を全て正社員にしようと言うアイデアはそんな非現実的で壮大なものなのかな、と思う。


そう思えば、非正社員を正社員にする前に固定化された正社員と言う制度に手を付けず温存させているのかは全くもって不思議としか言いようが無い。無理にこのまま全員を正社員に突っ込むとすれば日本郵便のようにいくらかの人数を正社員にしておいてその他を長期失業に留めておく事を日本の産業界に強いることになる。

これは単純な足し算引き算の問題だ。

(1日8時間働いて保険やらいろいろとボーナスが出る人 x 人数a)+(そうでない人 x 人数b)=企業の使えるお金(一定)

人数aを増やそうとすると人数bは莫大になる、と言う事じゃないだろうか。これを解決するにはどうしたら良いかと言うと、答えは "8時間働く"、"保険やらいろろ"、"ボーナス"などの部分に手を付ける以外にあるだろうか?


「正社員の労働時間は段階的に6時間までに制限」「ボーナスは制度化せず」「サラリーマンも保険料や税金は自分で全額申請して払う」などをマニュフェストに書いたらそもそも政党として成立しないかもしれないが、誰か言い出さないだろうか?

実名と匿名

2011-02-21 22:04:52 | いろいろ雑記帖
「日本にもじわり浸透=「実名制」に企業も関心―フェイスブック(時事通信)」と言う記事が出ていた。TwitterやFacebookのことが最近よく話題になる。

その中でよく言われるのが実名と匿名の問題。

昔"携帯電話"と言うものが日本に出てきたときにみんな口をそろえて「あれは日本人のメンタリティに合わないから普及しない」と言っていた、あの頃を思い出させる。FacebookやTwitterに関しても少ししたら全然見方が変わっているだろうな、と思うのだ。



(1)匿名性は失われるだろう。
友達知り合いがネット上でも隣にいる以上匿名でも匿名性はどんどん薄れていくだろう。仮に名前は伏せてニックネームで出ていたとしても、友人の誰か1人が実名だったり会社名や卒業した学校を登録していれば匿名と言っても匿名とは言えない状態になるだろう。少しづつでも知り合いがそこに入ってくれば匿名は意味を成さなくなる。


(2)今でも部分的には実名と同じ。
だってネット以前の友人がこれを読めるようにしているから。断片的な情報を集めれば実名とあまり変わらないかと思っている。


(3)表の顔と裏の顔があるの?
日本は本音と建前が普通にある社会。会社で仕事をしている時とプライベートでは全然違うと言うことがある。人に言えない嗜好もあるだろうけれど、ここでは"立場意識"と言うことが問題だ。日本人は立場によって言うことも行動も特に何の躊躇もなく変えることができる。お客さんとしてお店を訪れるときと自分が売り手である場合との違い、面接に来た学生と面接官の違いである。元は同じ立場であったはずが自分が強い立場になるとその事を簡単に忘れて行動できる。

立場によって行動が違うと言うのは実社会でも"立場と言う匿名"で生きているってことだ。就職活動で学生がリクルートスーツを着たり、面接官に受けの良いように振舞ったりするのは、顔も名前も実名には違いないがその場に合うニックネームやアイコンになろうとしているのと同じだ。それは実名なんだろうか。

そうしてネットでは全く違う事を書くとしたら実名とニックネームの反転が起きていることになる。

まだインターネットが出来てからそれほど時間は経っていないが将来もこうした分離逆転を我々はずっと続けていくのかどうか、こんな苦しいやり方がこのまま続くものなのかどうか....?


(4)「実名で嗜好などを隠したい」と思うのは周りがそう思わせているからだ。
ではどうしてニックネームと実名で言動を変えなければならないかだが、これは実際にその主張なり嗜好なりが他人に見せてはいけないものである可能性はかなり低いのじゃないかと思う。どちらかと言えば、周囲がそうさせているように感じられる。例えば同僚として付き合ってる人が政治や宗教的に強い志向を持つのは、多くの場合嫌がられる。仕事とそれは別だよとは見られないのだから一人の人が実名とニックネームに分離してしまうのは仕方の無いことだろう。


(5)無名の人々のコンセンサスはどこに集まる?
今、エジプトなどで起きていることをうらやましいと思う日本人は案外多いのじゃないかと思う。あちらでは集会そのものが危険で、集会が取締りの対象なのはいつの世も専制国家には付き物だ。よく知らないがそれでも政治や社会に関する議論を(隠れてか?)することが普通にできる下地があったのではと想像させる。道具としてFacebookなどがあったにしても単に便利だっただけではないのかと。

日本の場合は政治的な集会を開いたり議論したりする事、それより議論そのものをあまりしない。匿名で強いコメントを寄せると言うのは見るけれども、それでエジプトのようにどこかにコンセンサスが集まる可能性があるのだろうか? mixi?、まさか。

無数の匿名から発せられた断片的な垂れ流しの言葉は何も集めないだろうか。
それとも実名に移行するだろうか。可能性としては実名移行の方が強いと思っているが。

独自ドメインを取ろうと思う

2011-01-27 22:13:14 | いろいろ雑記帖
そろそろプロバイダ(ソネット)を止めようかと思います。

はぎさんに独自ドメインの取得と言う方法を紹介していただいたので、その方向で検討しています。

実際にはメールアドレスのためだけにドメインがあれば良いので、有料メールアドレス(他の機能なしにメールだけのプロバイダのようなもの)でも良いかな、と考えたのですが、安いにしてもメールアドレス1個だけで独自ドメイン管理の年額と支払い額が変わらないと言うことがわかったのでこの方法は却下です。メールアドレスが複数設定できないとお得ではないからです。


独自ドメインの取得サービスをやっている会社はいくつもありました。有名なところだと以下のようなのがあります。
お名前.com
DOMAIN KING
VALUE-DOMAIN
ムームードメイン
Star Domain
さくら
他にもたくさんあります。

ほとんどがドメインだけだと年額で1000円以内。プロバイダの1ヶ月の料金よりもこちらの年額の方が安いと言うことになります。正直言ってどこにすべきか迷います。近日中に決めるつもりです。Star Domainあたりが有力候補。安いのと最低限のメールの機能が充実しているから。どなたかアドバイスください。




さて、そうなると、ドメイン名も決めなくてはいけません。

仕事には使わないとしても、遊びだけと言うわけでもないのでこれはなかなか難しい。





そうそう、日本に行かなくて済むかもしれない。
寒いときはいやだな。
でも飛行機の中で映画が見られないのは残念。

効能や効果

2011-01-13 23:13:26 | いろいろ雑記帖
先日読み終わった1Q84 book3 の評価をネットで見たら起承転結のような何かの結果を想像して、つまり謎解きがあることを期待して読んでいる人がかなり多いのに気付いた。

小説を謎解きと考えるなら、なぜ1Q84に迷い込んだのか、なぜ年上の恋人はいなくなったのか、なぜリトルピープルは....と次から次へと表れる不思議なことを説明していかなけらばならない。そして最後に、なるほどそうだったのかとならなければならない。

そう思って読み終えると、ああこれは"つづく"だな、と思うだろう。けれども作者はそんなことお構いなしにどんどん不思議を積み重ねていってしまった。book4を書こうと思えば書けるに違いないがそんな謎解きのために書くだろうか? これは単に(単にと言うほど簡単ではないが)不条理なのだと理解すべきだろう。

ちゃんと見れば誰もがこんなわけのわからない不条理とも言える世界に生きていて、何かちょっとするととんでもない変なことに巻き込まれたりする。1Q84ならずとも実世界がそうなのだとは考えられないだろうか。

と、そっちの方は別にきっと誰か書いているだろうからお任せしてここで中断。文学批評に詳しい人がいるに違いない。



"何かをするときっとこうなる"と言う単純な法則は多くの人がとても好きな考え方だと思う。1Q84もそう思って読むと謎解き小説になる。日常の中で我々はいつもそう考えるクセがついている。

薬には必ず効能がある。(と思うからビタミン剤で病気が改善することがある。) ココアを朝に飲むと腸管が掃除されて健康に良い。(みのもんた)と言うようなものから、信じるものは救われる、この壷を持つと災いが避けられるなどいろいろある。

昔の親は子に"ためになる"とかならないとか言ったものだった。結局良い結論なり良い結果がもたらされるように将来を見据えて行動せよと言う思考だ。それは原因→結果思考だからで、実際に自分の身にそれでは説明のつかない事がたくさん起こっているのを無視して子にそう言っていたとしか思えない。


1+1=2、こんな簡単なことは実際そう多くあるものだろうか?

マッサージ。一通りのことは誰でも習えるしできるようになるけれども、誰が誰に施術しても同じ効果が表れるものだろうか? 同じ時間受けると同じ料金を取る。施術する方も同じ時給だ。 修行。どんな修行でも長くやればきっとある程度誰でもできるけれど、誰がやっても悟りに達するだろうか?


多くの人がその行動や行為の先に理想的な結果があると思っている。だからこそ学校に行って勉強するし、それと同じ方法論で修行までもする。ちょっと不思議な感じがするし違和感がある。それができたら誰でも何かの達人になっている。逆に言えばコインを入れたら缶ジュースが出てくる自動販売機のような考え方のように思う。



原因と結果のつながりからはフリーになって何かを感じたり、したり、されたり、何かが起こったり、起こらなかったりそう言ういろいろな事がある、だだそれだけの世界に生きていると言うことではダメなのだろうか。結果を求める"ため"に今何かをしているのでなく、今している事自体が結果ではいけないだろうか。結果の後にはまた別の結果がつながって、そこには何の法則も経験則も通用しない世界が広がっている。

そうしてそれを不条理と言うか、偶然と言うかそれはどちらでもかまわないが、宇宙の法則だとか原理だとかそうした遠回りした理屈に起因させないでおとなしくそう言うものだと素直に受け取っておくのはどうだろう。

うんちは何故臭いのですか?

2011-01-11 23:16:13 | いろいろ雑記帖
うんちは何故臭いのですか?



->食べたものが身体の中で醗酵するから。



それでは大豆を煮て毎日お塩と一緒に食べ続けていたらうんちはお味噌の匂いになりますか?



->いいえ、菌が違うからダメです。やっぱり臭いと思います。







うんちは何故臭いと感じるのですか?



->.........?



それではドリアンは臭いですか?



->人によって違います。



クサヤは臭いですか?



->人によって違います。



ではうんちは臭いのですか?



->他人のは臭いですけれど、自分のは良いかもしれません。



うんちは臭いものですか?



->...............?

日本経済俯瞰

2011-01-09 10:39:28 | いろいろ雑記帖
ニュースを見ていると、増税にはみんな反対です。

自分の財布から金を取っていくなと言います。でもその反面行政サービスはもっとやれと要求もしています。そのあたりはいろいろ言いたいことは誰にもあるでしょう。ただ、実際に何ができるかとなると実はそう簡単でも多くの手があるわけでもないのではないでしょうか。

そうしたわけで、現在の日本は自由経済国家と言うより中国と同じで"統制経済国家"になっています。経済に関する限りあまり自由ではないのです。なぜなら経済の約半分を行政が握っていて、行政の動向によって生活のレベルなどが左右されてしまう状況だからです。(上図参照)

できることは少ないのですが、
(1)赤とピンクの部分を小さくする。
これは小泉さんがやろうとしていた事です。急にやると行政のポンプが吐き出す水が少なくなるので全体が縮小しそうになりますが、長い目で見ればすべきことではあります。(亀井君はもとに戻そうとします。)

(2)赤とピンクの中身の質を変える。
これは民主党がやりたいことです。
子供にお金をばら撒いて、逆に所得の何とか手当てを減らすと言うようなものです。赤とピンクの絶対量を変えるのは怖くてできないのです。(民主党でなくとも怖いかもしれない。)事業仕分けで出てきたお金はたった1兆5000億円程度なのであまり規模の問題としては大きな変化は期待できないと言うことになります。

(3)全体の輪を大きくする。
これを実現するには民間のみなさん(つまり我々)がどうにかするしか無いです。と、言っても今の世代は先輩たちのように勤勉でもないしよく働きもしないのでなかなか難しいと思います。(前の世代のやり方が正しいとは言いません。)


こうして見ると、現状を抜け出すには(3)を考えるのが一番簡単です。(1)と(2)は政治家や公務員に阻まれるのは目に見えているわけですし、それに日本のGDPの半分を握っているのが公務員となれば政治家を動かす票だってたくさん持っていると言うことですから。

(そうすると"国民"っていったい何?、ってことにもなります。政治家が国民と言うときそれを自分たちの事と勘違いしてはいけないのです。半分はあちら側の人たちを指すわけですから。)


そう言うわけで、今我々がやらなければならない事は政治家の言う事に一喜一憂するようなつまらない事じゃないってことはわかりますね。増税に反対するとか何かを要求するとか.... それはすなわち、統制から外れて自由になるってことも意味するのかも知れません。

携帯電話のメールアドレスを使っている人は行方不明になりやすい

2011-01-04 12:02:45 | いろいろ雑記帖
高校時代からの少数の友人とメーリングリストをやっている。あまり盛んにメール交換しているわけではないので久しぶりに年賀状代わりに投稿してみた。

そうしたら友人のSさん(見てるかい?)が携帯電話を買い換えたので新しいメールアドレスを教えてくれた。彼は行方不明にならずに済んだけれど、携帯電話のメールアドレスを使っている人は数年経つとほとんど行方不明になると言うミステリーがある。


どうして行方不明になるかと言うと、携帯電話は通常の機種変更より新規に買ったほうが安いからだろうと思う。新規に買うと電話会社から与えられるメールアドレスは前の機種で使っていたものが使えなくなるからどうしても変更しなければならない。携帯電話に付いてきたメールアドレスは他のプロバイダのメールやGoogleなどのフリーメールの送受信よりもパケット代金の面で優遇されているから他のを使うわけにもいかない。

そうするとどうしても電話が換わるだけでメールアドレスも代わることになる。その時点でその人と疎遠になっていると通知も忘れられるわけだからたぶん平均して3年で行方不明になると決まっている。以前にCAD教室の仲間だった22人も今は2人しか連絡が付かなくなっていた。


電話会社はあまりそう言うことを気にしてはくれないけれども、不満を言う人はいないのだろうか? まあ、本人は行方不明になったつもりが無いから良いのかもしれないけれど。携帯電話でメールを使う人はちょっと考えておいたほうが良いのじゃないでしょうか?

(行方不明にならない方法はフリーメールやプロバイダメールで転送設定をするような便利な方法を使う事などが考えられます。)

1Q84 book3 おわり

2010-12-31 17:34:28 | いろいろ雑記帖
1Q84 book3を読み終わった。
今年中に読み終わろうとはまったく思っていなかったが、それでもどうにかこの3冊を終了できて良かった。"終了できて良かった"と言うのが第一の感想。なぜならけっこう長くて遠回りな道のりだったから。


人間と言うのは不思議な性質を持つ生き物で、常に自らのこと、自らに起こること、そして自らの置かれた環境について"解釈"し続けなければ生きてはいけない。こう言うのはもちろん自分を含めてそう評するのであって、他人のことを外から眺めて言うのではない。

日常のことで何か問題がある。その意味と答えを人はいろいろな何かに求める。まずは"あの時あれを選択してしまったのが原因でこうこうこうなった"と言うように因果関係を考える。実際にはそれとて自分で制御できたかどうかは置いておいて、ともかくそう考える。簡単だからだ、と言ったら本人は怒るだろう。

さらに社会環境、世の中の流れ、行き着くところまで行くなら宇宙の原理まで持ち出すことだって可能だ。現代社会においてそうした資料は豊富で一生かかっても追いつけないほどだからいくらでもその考えを拡張することはできるのだ。


そう問いかけ始めるとそれはキリの無い作業の連続となる。一度その流れに身を浸してしまうと抜け出せる希望はそう多くはないかと思われる。無限ループに近い。

何しろ自分に関わるネタだって年齢に比例するだけたくさんある。数年前はそんなつもりは無かったのに今こうしているのは何故かと言う事でさへもがネタになる。ある人と偶然に知り合ったこともそれを単なる偶然でないと解釈する、そんな"趣味の領域"に引っ張り込むことは至って簡単な作業だ。偶然や思いも寄らぬ出来事であればあるほどその対象には打ってつけであることに間違いはない。

そこに簡単な答えは無いからだ。逆にそれに大して荒唐無稽であっても簡単な答えを提供するある種の"思想じみたもの"に人は組しやすい、と言うことである。ただ、永遠に、いや死ぬまでそれを続けるのはかなりの労力を必要とするだろう、間違いなく。


その努力、労力の果てに疲れ果て、行き着くところも実は決まっている。(残念ながらこうした事には神秘も何もなく、先人の経験と言うのは必ずあるものだ。) それは"現実を認める"と言う最も簡単なものに過ぎない。そこには宇宙の原理も何も神秘的な想像を超えた力などはなく、あったにしてもそんな事が簡単にわかるほど人は優れた存在ではないし、もし何かあったにせよ人にわかるほど、そして人が求めるほどにシンプルではないだろう。


結局、自らの身に何が起ころうと、自らの身体の形状がどうであろうと、自らの置かれたその世界がどれだけわけのわからないものであったとしても、我々はそれを一つ一つ丹念に"それはそう言うものだ"と認めつつ死への時間を辿らなければならない。死への時間を辿る、それ自体がつまりは生きると言うことだ。



この1Q84と言う作品はあまり新しいテーマに挑んでいる物だとは思えない。ただ、人の生きる中にあってそして歴史の中にあって再度、先人から引き継いだテーマを新たな方法でまとめなおしたもののように感じられる。推理小説のように読み終わって全てが解決してすっきりした読後感を得られるものではない。未解決の部分は未解決のままに放置しこの作品を歴史の中に放り込んでおく事自体がこの作品に与えられた役割なのかと思う。成功するかどうかは時間が過ぎた後でなければわからないことであるが。

ただ、今現実的に人が(自分が)しなければならない事があるよ、と言う部分では神秘主義的なその手の本とは違って好ましい部分ではある。ただし、その点においても先人の言葉をフォローするだけのものである事は間違いなく、この作品の独自性に関した評とは言い難い。



読書感想文としては"何言ってんの?"ってことになるはずなのでこのあたりで終わり。

快適君

2010-11-26 23:43:11 | いろいろ雑記帖
人間て言うのは、...いつも時々ハッと我に返る夢遊病者のようなもので、その時が良くても悪くても、とりわけ悪い状態の場合に「どうして自分はここでこんな事をしているのだろう」と思うものじゃないかなあ。

ここにいるキャサリンさんなんかは「どうしてこんな男と結婚しちゃったんだろう」と日々、割と小刻みに我に返って思っているように見える。キャサリンさんばかりじゃなくて世の既婚女性の多くはきっとそう思うことがけっこうあるのじゃないだろうか。だって結婚の7割(だったっけ?)は失敗だなどと良く言われるのだから。


結婚と言うようなことばかりじゃなく、だいたい人のするほとんどの事がそうだと思う。もともと好きだったわけでも無いことを何時しかやり続けるようになっていたり、それは不愉快に見えることでも何故かそれをし続けていることは多いものだ。趣味でも仕事みたいなことでもクセでも習慣でも何でも、それに理由があるわけじゃないのにどうしてもそうしないと気が済まない。

そんなわけのわからない物事がごってりと塊を作っているのが現在の"自分"と言うものじゃないかと思う。今ある状態の全てを洗いざらい分類したり整理してみようとしたら、きっと30年住んだ家の押入れみたいにもうなぜそこにそれがあるのか思い出せないようなものがごっそり出てくるに違いない。

そう考えると、きっとどこかで知らないうちにそれを受け入れるきっかけがあったと言うことだけれども、どうもそれらを連れて来るヤツがいるような気がする。そいつには名前が無いようなので勝手に名前を付けさせてもらうが、「快適君」が良いように思う。


人が何かしたいとか、変えたいと感じるのはやっぱり"快さ"がそこに付いているからと言うのが一番じゃないかと思うからだ。イヤイヤの時はほとんど長続きしないでその場限りになるけれども、ちょっとした心地良さや快さがある時は脳ミソが拒絶せずになぜか自動的に受け入れてしまう。子供がちょっとほめられるとそれをずっとやり続けるようなもので、大人になってもそれが変わることはないのじゃないだろうか。

結果としてどうしてそんな事やり続けるのかな、と思うようなことが習慣になってしまったりする。そうしてそんな事が積もり積もってだんだん変なクセのある大人に成長していって、元の姿が何だったのか、果たしてこの人に純真な子供時代があったのかなと言うようになる。海の底に沈んだカキの殻のたくさん付いた石ころだ。



それはそれでまあ、仕方ない。

逆に、他人にきっかけを与えるとすれば快適君と言うコンパニオンをたくさん連れて歩いているような人じゃないとそれはできないのじゃないだろうか。怒ってばかりいる上司の部下はきっとその場は仕事をするように見えるけれども、ずっと怒り続けていなくては仕事にならないだろう。けれど、快適君を連れて来てくれる上司の部下はあまりいろいろ言わなくてもちゃんと仕事を自主的にするって説明だとわかり易いかと思う。

自分自身はあまり快適君を連れて歩く方じゃないので人に何か影響を与えるような人間にはなれないかと思うけれども、たまにはそう言う事を心掛けないといけないなと思うこともある。別に仕事じゃなくても。

デジカメ

2010-11-22 22:55:04 | いろいろ雑記帖
ニコンのP50と言うカメラを使っているが、先日壊れそうになったので新しいカメラを買おうかと思っていた。

ニコンは奇跡的に復活したのでそのまま使うことにしたが、もし次回壊れて復活しなくなったらどうしようかと思うのと、キャサリンさんが使うカメラが無いのでそれも検討しなければならないとも思っている。

そこでカメラの条件はこうなる。

(1)単三か単四電池が使えること。

デジカメの電池はほとんどがリチウムイオン電池で、それは機種ごとに専用になっている。これはストロボへのの充電時間を素早くしてストロボでもすぐに何回もシャッターを押せるようにするためと、電池を小型化しても長持ちするからだ。

プロでないほとんどの人が多分オートモードで使っているのでストロボへの充電速度は速くなければならないのだと思うが、デジカメは基本的には光を機械が適当に電気信号に変えるのでそれほどストロボに頼らなくても、暗ければ暗いなりに何かが写る。それにコンパクトサイズのデジカメに付いているチャチなストロボなんて役に立つ瞬間は実際あまり無い。だからそんな事どうでも良い。ストロボは通常時OFFにするのが基本だと思っている。

また最近はのデジカメは燃費が良いので1回のフル充電で200枚や300枚は撮れることになっている。

ただ、よく考えなくてはならないのは、これが2000枚とか3000枚では無いことだ。もし1週間の海外旅行に行くとしたら200枚や300枚など2日もあれば撮れてしまう。と、言うことは予備のリチウム電池を3本充電して持っていくか充電器とコンセントの変換機を持って行かなければならない。それ以外の方法でカメラの電池を回復する方法は皆無なので残りの5日間はカメラなしになる。

機械式のカメラなら世界中どこにでも売られている35mmのフィルムを補給するだけで思い出を完全に残すことはできたが、デジカメの場合はいくらメモリーカードが大容量でも電池が切れたら終わり。カメラの本質的な機能とは全く関係ない電池にデジカメは拘束されている。本末転倒なのである。携帯電話の電池なら今は世界中どこでも手に入るがデジカメはそうはいかない。性能はどんどんアップしても機動力は電池による拘束で低下していると思う。

どんなに良いカメラでも電池が切れて使えないなんて意味がない。乾電池なら人間が住んでいるところならジャングルでも手に入る。(実際、ジャングルで乾電池は買えた。)


(2)できるだけ軽くて小さいこと。

プロじゃないので持って歩く気になる物でないと使えないと言うだけ。


(3)すぐ撮れること。

最近は安いデジカメでも高機能なのでモードダイヤルが付いているのが多い。移したい物が目の前に現れてから電源をONにする。写したい対象から判断してモードを切り替えて写す。失敗の無い写真を写させるためにメーカーが用意したセッティングがこれで選べるようになっているのだけれど、これは見た目がカメラっぽくなるだけであまり意味のある物だとは思えない。

電源がONになったらセミオートになってそのままシャッターを押して見たとおりに撮れればそれで十分だと思う。失敗してもほとんどの場合、もう1回オートフォーカスしなおして撮るだけで良い。失敗しなかった時にも念のために数枚撮っておいたからと言って別に損するわけでもなし。


そんなわけで、安いカメラをもう1台買おうか、それともカメラ付きスマートフォンを買おうかと思っている。

どうしてスマートフォンが出てくるかと言うと、電池の問題はカメラより電話の方が便利、割合手軽に撮れること、うまくいけば基本的な編集が出来そうなことを考えるとそれも良いのかなと思うからだ。スマートフォンはHTC、Samsungあたりなら世界中にあるので何があっても大丈夫だろうと思うし、この意味ではデジタル時代のカメラとしてはスマートフォンの方が実はカメラらしいと思えなくもない。

カメラ自体の性能はテキトーでかまわない。フィルムの時代と違ってデジタルでは一発勝負の要素が減って、どうにかしようと思えば後からどうにかなるからだ。


そう言うことで、お勧めはありませんか?

Haji

2010-11-20 09:42:49 | いろいろ雑記帖
先日の17日のHari Raya Hajiの日に牛がモスクに連れられてくるかと思っていたら、今日になっていた。朝、モスクのスピーカーから響く声がいつものお祈りでなく何かの案内のようなものに代わって長く続いていたので見に行ってみた。


モスクの入り口で見ていると中にいた男性が入っても良いよと招き入れてくれた。写真も撮って良いと。寛容なのだ。