古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

成都の古鎮1

2009-11-29 23:26:02 | 日記
その24 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年11月21日(土)

久しぶりに太陽が顔を見せた。

予てより計画していた古鎮めぐりの仕上げに上里古鎮へ行く。成都近郊の四大古鎮の黄龍渓古鎮、洛帯古鎮、平楽古鎮、安仁古鎮は既に見学した。

最後の上里古鎮は成都市から150km程はなれた雅安市の郊外に有る。成都の新南門汽車站から雅安までは高速道路で約2時間のバスの旅だ。更にそこから27km程離れた上里古鎮には雅安汽車站の前からミニバスが出ており約45分だ。

久しぶりの太陽に全てが好い気分だ。
雅安の街を出ると直ぐに両岸が切り立った渓流沿いの細い道になる。完全な田舎の道を清冽な渓流沿いに登る。センターラインの無いギリギリの2車線の田舎道とはいえ、最高クラスのコンクリート舗装だ。こんな田舎のこんな少しの交通量しかない道が完全コンクリート舗装だ。如何考えてもおかしい。上里古鎮がそんなに素晴らしいのだろうか。

暫らく走ると、急に空が開けて小さなダムが現れた。細い渓流の上流は谷が開けた大きな盆地になっていた。そのダムと平行して下流に小さな橋があり左の開けた谷の方へ道が続いていた。その道はコンクリート舗装で、バスの行こうとする方はアスファルト舗装だった。メイン道路は谷を渡って左に行くほうの道だ。しかしほとんどの車はダムの右沿い(いわゆる左岸)の道を進んで行く。街や人家は右側の奥へと続く道路沿いに点在するのだから当然の話だ。
バスはダム沿いに更にかすかな勾配を登っていく。

やっぱりと言うか、当然と言おうか当たり前のことだ。左の開けた谷沿いの道の奥には、何と中国で最高のあの超有名な「パンダ」が居るのだ。
人民よりも偉いパンダがいらっしゃるのだ。この印籠が目に入らぬかと、水戸の御老公付きの格さんが言ったとか言わないとか。
そうなんです、雅安パンダセンターが有るのです。それに、あの四川大地震の影響で、臥龍パンダセンターから避難してきているパンダが居るはずなので、その数は更に増えているのです。

小生はパンダには興味が無いので当然パスです。入場料に抱っこして写真を撮って遊んで、はいウン千元の世界だそうです。パンダファンには申し訳ありませんが何の報告も出来ません。しかし、同行したY氏が雅安に一泊して次の日に訪れていますので、また後日多少の情報が挙げられるかと思います。

上里古鎮は、田舎の山奥の、寂れた昔ながらの好い古鎮と言いたいのですが。やっぱり、いずこも同じただの観光地のテーマパークでした。成都から高いバス代を払って一日がかりで来た旅もガックラ金太でした。

何処かの街で成功するとそれに習って、右も左も一緒くたになって同じ街創りをする。清、明時代の田舎の街を鉄筋コンクリートで造り、ペンキを塗って仕上げる。映画の張りぼてや、劇の背景画のようだ。
画一的な銭湯の富士山だ。あっ、富士山とはちょっと違うかな。

中国の古鎮はいずこも同じ張りぼてだ。

蜀の薬膳素食

2009-11-27 15:46:25 | 日記
その23 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年11月17日(火)

夕食にちょっと高級な欽善齋(食府)へ行く。薬膳素食料理という範疇の料理店だ。
店の装いは高級感が漂う。客層もかなり高級だ。ドレスコードが必要と言う訳ではないがそれなりの雰囲気の店だ。料理も期待以上のものだ。肉のように見えて蒟蒻で造ってあったりして興味は尽きない。ほんの数種類を食しただけだが、胃に身体に優しい料理だ。そう高くは無いが美味なり。
時々はこういった店に行かないと、完全に民工になってしまう。せめて気持ちだけは豊かにして居たいもので、その為にも美味なものには時々は触れねばならない。

人間、何と言っても満足な食事が得られない時の状態ほど惨めなものは無い。その他の事なら多少は我慢できる。しかし、飢餓の苦しみは生死に関わるので、特にその渇望は計り知れない。と、同時に食に関しては如何様にも対応が出来る。対応というよりも、順応出来るといった方が良いかもしれない。あれが食べられない、あれが美味いと言っている段階はまだ上出来な方なのだ。

極限の状態では人肉さえもその食料となる。アンデスに墜落した飛行機の遭難事故のドキュメンタリーを読んで酷く感じ入ったことがあった。

そう極端な例では無いが、この街にもかなり貧しい人々がいる。ゴミ箱からペットボトルや空缶を回収するのは当たり前だが、食べ残し、飲み残しも回収している。彼らの食料になるのは確かだ。街角の料理店に子供を連れた乞食が入ってきて何がしかの施しを受けて、食べ残した料理をビニールの袋に入れて持ち去るのを何度か見た。

道路や人だかりのする広場、地下道の入り口、お寺神社の入り口、駅やバスターミナル周辺、有名観光地周辺などは、彼らにとって格好の稼ぎ場所なのだ。決して人寂しい街外れや、田舎にはいない。ある程度の通行量と歩行者がいなければ商売にならないのは、何もコンビニエンスストアに限ったものではない。彼らとてマーケッテングリサーチは十二分に行っているに違いない。

そして色々なタイプの彼らがいる。手足の不自由な者、目耳口の不自由な者、子供をつれた親子兄弟、単に年を取って稼げない者、そして面白いのは、いや、面白いといっては何なんだが、学生が物乞いをしている。しかもその言い分は大体同じで、親が急病で入院した、もしくは事故にあって仕送りが出来なくなった。それで多少の学費を援助してほしい。ここに学生証若しくは休学証明書を提示します。しかしほとんどがコピーで写真がぼけている。しかもかなり離れた都市の学校だったりする。何故ここに居るのとつい言ってみたくなる。尚且つ学生は一向に顔を上げないので本人かどうか確認できない。
さらに解せないのは、高校生ぐらいの女子がチョークで道路にお金を無くしてしまいました。家に帰るバス代5元を下さいと書いて下を向いている。三四人は見かけた。しかも必ず5元か8元位だ。大金でないのが良い。まあ8元も有れば、かなり遠くまで行ける事は行ける。しかし今時の中国の女子高生ならば必ず携帯電話を持っている筈だ。ちょっと電話すれば解決する筈だ。なんとも解せない。
様々なタイプの物乞いやタカリがウジョウジョ居る。心して掛からねばならない。

同じように、貴方の身の回りを見回せば、いかに多くの段階の人間がいるかが解かると思う。上は、夕食に数万いや数十万円数百万円の大枚を費やす者から、ごみ箱から残飯を漁っている者まで、いやその残飯さえも得られずに餓死する者まで居る。その幅は並大抵の比ではない。上はキリが無い。下のその結果は餓死だ。

歴史や文化の程度も、その根底の食事、食糧やその調達、種類、品質、量などによって大きく影響されていると思われる。衣食足りて礼節を知るという論語の言葉があるように、その基本の生きるための最低限の必要条件を満たさなければ、人間何を言っても始まらない。

中国の田舎を旅していると、特にその農業力の違い、穀物の品種、生産量によって人口の濃密度、維持密度の違いをはっきりと感じる。
米、麦、玉蜀黍、粟、稗等の雑穀など、何を栽培しているかでその維持人口が激しく変化するようだ。
一般的に、田圃が見えると急に家が多くなり、村落が現れる。麦もそれなりの集落になるが、その他の穀物の場合は家が点在していて、集落は特に何かの都合で集まったような場合だけに限られる。いわゆる交通の要地、交易地、門前町、いわゆる観光地などだ。

国の要は農業だ。国の力は食糧を生み出す農業だ。兵糧を握られたら全てがお仕舞いだ。
食糧無くして、何の国家ぞ。

薬膳料理店の話から国家までになってしまった。

食い物の恨みは末代まで。恐るべし!

成都のおばさん

2009-11-24 00:49:05 | 日記
その22 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年11月16日(月)

「奈津」おばさんに会った。しかもかなり昔の,、まだ二十代のおばさんだった。
小生が小学生の頃に会ったおばさんだった。盆、暮れ、お祭りや刈上げの時に、父親や祖父に連れられて行って会った本家のおばさんだった。
奈津おばさんは、おばさんと言っても父の従兄弟に当たるおばさんで、当時で精々二十数歳だった筈だ。四人兄妹の末っ子で深窓の美女で親戚中の評判だった。

その二十歳代のおばさんにこの中国の街で出会ったのだ。
何度か声を掛けそうに成ってためらった。ここは中国だよと。それに50年前のおばさんは居ない筈だと。自分も50年経っている筈だと。
それぐらいそっくりなのだ。前にも書いたが、時々親戚や旧知に会う。本当にその人がそこに居るのだ。
「こんにちは、ご無沙汰しています。お変わりなく、」と声をかけてもおかしくないその人がそこに居るのだ。

奈津おばさんの父親が小生の祖父の兄で、おばさんは父と従兄弟に当たる。おばさんの直ぐ上の兄の「ナオ」さんには子供の頃よく遊んでもらった。親戚の中で父系の中では最も可愛がって貰ったおじさんだ。かなり前に静岡の御殿場で亡くなって、小生の父親が葬式の段取りをしに御殿場に行ったようだった。
おばさんの上の二人のおじさんは戦死しており、奈津おばさんは本家でのただ一人の後継者だったが、結婚もしておらずまだ独身の筈だ。養子の話を聞いたことがある。本家相続のために親戚の誰かを養子にということだったがどうなった事だろうか。
もう、二十年ぐらい会っていない。そのおばさんの50年位前のそっくりに会ったのだ。息を呑んだ。

中国では親戚、旧知に時々会う。一人や二人ではない。何人ものその人に会う。本当にその人なのだ。死んだ筈の人から、まだ生きている人まで千差万別で会える。

チベット、モンゴル、中国では日本人のルーツに会える。旧知やその原型のような人々に会える。それらの「地」が間違いなく日本人の故郷であることを確信する。

有名人にも会える。今日も若乃花(お兄ちゃん)や船越栄一郎や坂東英二に会った。サインを下さいと言おうかどうか迷うほどの人間が居る。

中国恐るべし


笑える笑っちゃう話その3/3

2009-11-20 14:22:48 | 日記
その21 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年11月15日(日)

笑える笑っちゃう話二話は既に決着したが、笑えない笑っちゃう話はまだ決着していない。いや、結果が確認出来ないと言った方がいい。

実は、笑えない笑っちゃう話は、本当は深刻な話なのだが何故だか笑ってしまう話なのだ。その途中経過を書いておこう。
話は、数日前の深夜までさかのぼる。

宿のロビーでインターネットをしていた夜中の1時30 分頃に、一人の日本人学生が重そうなカートを引いて宿にやってきた。いかにも心細そうな風情だ。肩を落とし、疲れきった表情の彼はフロントで空き部屋の有無を聞いていた。還暦背包族には良く解かる英語だが、フロントの女性には良く通じていない。チャイニーズイングリシュとジャパニーズイングリシュの対決だ。同じ英語を話している筈なのだが少しずつ食い違っている。それに日本人学生は疲れ切っているようで元気がない。

初めての都市に着いて張り切るのが普通の旅行者だが、彼はダウン寸前だ。助け船を出してやることにする。日本語で声をかけると、安心したように笑顔がこぼれた。やっと日本語で意思疎通が出来る喜びにあふれていた。彼のこの数時間の緊張が何となく解かった。それはきっと彼にとって始めての経験だったに違いない。
宿の部屋を確保して、やっと安心したようだ。

H1氏によるとその事態は次のようであった。
H1氏とその友人のN1氏は日本からある都市を経由して先程成都の空港に到着したが、N1氏は入国を拒否されたとのことだ。なんでも検疫で37度の熱が有るという事だった、今流行の新型インフルエンザの疑いをかけられたのだ。賢明な読者なら何で、H1氏、N1氏なのかお解かり頂けたであろう。そうなんです。N1氏はまさに、そのインフルエンザではないかと疑われて足止めをくったのです。

その飛行機は22時30分頃に到着したが、色々と手間取り、片割れは経過観察のため強制留置。そして濃密な接触のあった当事者H1氏は平熱なのでやっと無事解放されたと。そんな訳で両替も出来ずに、こんな遅くに宿に着いたとのことだ。タクシーもお願いして人民元でなく日本円で受け取ってもらったとのこと。当然、宿への押金も無いとのことだ。
そんなこんなをフロントのおねーちゃんに説明すると理解してくれたようだ。

空港でのやり取りと、急に一人になった不安な気持ちで、深夜の街をタクシーでやっと宿にたどり着いたのだ。その心労、ストレス、不安は十分に解かる。それであんなに落ち込んでいたのだ。
少し落ち着いたようだ。今は如何することも出来ないのでゆっくり休みなさいという言葉が慰めだろう。

次の日の午後にはH1氏は元気になっていた。彼本来の姿のような明るさで「おはようございます。」と言ってくれた。少し安心した。
「で、N1氏の具合は」
「宿の人に頼んで連絡して貰っているんですが、確認できないんです。でもこの宿に行くことはN1氏に最初から話しているので、連絡できる状態であれば連絡することになってます。」
収容された病院の名前を聞いたがフロントの人間は聞いたことが無いと言う。

N1氏の消息がハッキリしたのは更に次の日だった。N1氏からH1氏に入った連絡は、「今日、何とか感染症病院へ転院するために救急車で護送された。元気だから大丈夫だ。電話は、、、。」
ああ、やっぱり、今流行のあの新型インフルエンザか、、
その感染症病院は市の南の方に有り地図にも載っている。ここなら隔離されても安全だ。とりあえず所在と元気なN1氏が確認できたようだ。

H1氏等は九賽溝や他の観光地へ行く予定を立てていたがこの入院騒ぎで既に三日を費やしていた。H1氏は遠くの観光地には行けないが、何とか成都近郊の観光をしているようだ。が、N1氏は強制隔離病院のベットの上で過ごしている。

そして数日が過ぎ、H1氏の帰国する日が来てしまった。如何するのかと聞くと、
「N1氏はまだ病院だし、彼は更にもう三日後の便なので置いて行く。まあ、今日差し入れに行って様子を見てきます。」と言う。
結果的に、当然、面会は出来なかったが、差し入れを受け取って貰えたし、そこに居るようだということが解かったと言う。まあそれくらいで安心するしかないのだろう。収容されたのが自分でなくN1氏だったという事でその幸運を素直に喜んでいる。

冷たいと言われようがH1氏の自由になる範疇を遥かに超えた次元の世界なので如何することも出来ない。
「先に帰るが、宿の皆が心配しているので、退院したらその宿に行くように、 H1」のメモを病院職員に託してきたとの事。

そして、そのN1氏の帰国予定日も過ぎてしまった。宿にも現れないし、宿に連絡も無い様だ。まだ入院しているのだろうか。それとも、強制送還されて日本に帰ったのだろうか。
中国の病院で隔離されて、強制送還で結局一歩も外に出れずに戻ったのだろうか。

そして更に数日が過ぎた。
宿のフロントのおねーちゃんに一度病院へ連絡してみてくれと、多少この件に関わった還暦背包族のおじさんは言うのだった。今も何の情報も無い。他人事で関係無いといえば無いが、気になる。

笑えない笑っちゃう話だ。

笑える笑っちゃう話その2/3

2009-11-19 20:33:36 | 日記
その20 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年11月8日(日)

笑える笑っちゃう話第2章(前回の序章に続く)

元気な可愛い韓国娘のその後
還暦背包族がメールで問い合わせをした、韓国青年からの最新の韓国口説き情報は次のような内容だった。ただし版権は韓国青年にあり、尚且つ彼の承諾を貰っていないので、こそっとお知らせしよう。

「韓国青年(HP氏)の韓国女子口説きテクニック 四段階法」
愛の言葉って、どうしても段階が必要だと思います。それで、四段階の強度のメントを用意しました。一般の韓国人の女の子の情緒も考えて
1.웃는 얼굴이 예뻐요 (ウッヌン オルグリ イエポーヨ。)
  笑顔がきれいです。
2.같이 있으니까 좋아요 (ガチ イッウニカ ジョウアヨ。)
 (あなたと)一緒にいると(気分が)よくなります。
3.좋아합니다 (ジョウアハムニダ。)
 (あなたのことが)すきです。
4.사랑합니다 (サランハムニダ。)
  愛してます。
ロマンチックチベットのため  頑張ってください! 先生、幸運を祈ります!

何と優しい青年ではないか。同胞の可愛い女の子に、今まさに魔の手が伸びようとしているのに、、心優しく愛の口説き文句を、つい最近、その手で彼女を掴み、目出度く来春に挙式するという、その最新の方法を伝授してくれるとは。感謝感激雨霰だ。

彼の名誉のためにも四段階口説法で頑張るぞ。と、思ったが、そのチャンスは次の日にあっさりと消えた。

今日着いた日本の大学生三人とA嬢の四人でパーテイーを組み直ぐに出発するとのこと。パーミット(チベット地区入域許可証)が届き次第出発するのだという。
遅くとも三日後の電車には乗れるだろうとのことだ。

あんなに喜んでいた還暦背包族は如何したらいいのだろう。トンビに油揚げをさらわれた狐か狸か猿のような顔をして、ガックラ金太とは俺のこったと大声で叫んでしまった。その落胆たるやこの世の最後かと思われるほどだ。
急にチベットが嫌いになった。急にA嬢が嫌いになった。全ての韓国娘が嫌いになった。全ての韓国女性も嫌いになった。
同じくチベットも嫌いになった。そんなチベットへは行きたくもなくなった。もう止めよう。チベットには行かない。
次の日チベットツアーをキャンセルしたのは言うまでもない。
それくらいガックラ金太なのだ。本当は他にも行かなくなった理由はあるのだが直接のきっかけはA嬢と一緒に行けなくなったことが大きい。

韓国青年の好意に報いる為に、彼のメールの文言を写して餞別のガイドブックと一緒にA嬢に渡した。メモを見てニッコと微笑んでくれたのが唯一の慰めだ。
それで全てが終わってしまった。

笑える笑っちゃう話だ。