古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

大草原国家旅遊風景区の草原と空

2009-10-31 11:55:35 | 日記
その14 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月23日(金)

昨夜は良く寝れなかった。
電話が数回鳴ったり、ドアをノックされたりした。公安や武警であれば宿の人間を連れて来るはずだから簡単にドアを開けられるはずだ。そうでない所をみると誰かの間違いか、何かのイタズラだ。
服を着たままベットに横になる。不安な一夜を過ごす。

そんな訳で、早々に出発することにした。成都に帰ろう。
多分、一番のバスは6時発に違いないので、宿を5時にはチェックアウトする。真っ暗な中をタクシーで汽車站に向かう。
成都に帰ろう。

昨日の武警との経緯は次のようなものだ。
午後3時頃に、馬爾康(マルカム)の裏山のゴンパに登ったら、若い武警二十人程が入り口の石段に屯してトランプなどをしていた。休憩時間なのか何なのかリラックスして遊んでいた。こんな武警も有りなのかと、しらっばくれて、手にカメラをぶら下げたまま通り過ぎざまに二三枚撮った。階段を降りて行こうとすると、後ろから声を掛けられた。
しまった、見破られたか。知らん振りして階段を下りると、前に廻られ何か言われた。ここはしらっばくれるしかない。
言葉が通じないとみると、カメラを出せと迫る。ぶら下げたカバンの中で先程の写真を削除しようとするが中々美味くいかない。思いっきり前の画面に戻して差し出す。暫らくいじっていたが画面が小さいのでハッキリとは確認出来ないようだ。その間に別の隊員から何やら聞かれたので、手帳を出して書いてくださいと丁寧に言う。「あなたは「本地人」か」と聞かれ、「日本人」と答える。筆談で「中文が解からないのか」と聞かれ「解からない」と答える。すると、カメラをいじっている隊員に何やら声を掛けカメラを返してくれた。良かった。
面倒は御免とばかりに、急いで階段を下りる。

暫らく降りると後ろから声がする。追ってきたのだ。意味がわからない振りでそのまま下る。人が居る所までどうしても下らなければならないと思い必死だ。だが走る訳にはいかない。
今度は本当にまずい。急いで先程の画面を削除する。終わったか終わらないうちに隊員が二人追い越した。後ろに多分三人。完全に囲まれた。
しかし、写真は削除出来たから多分大丈夫の筈だ。一番前の偉そうな隊員が何処かと電話で話をしている。「ズーベン」なる単語が聞こえる。まずい。電話の様子ではまだ結論が出ていないようだ。
「止れ!」とは言わないでただ前後を固めているだけだ。何とか人の居る通りまでは降りたい。

四、五分の下りだが非常に長い階段に感じられる。
停まらないで何とか人の居る道路まで降りることが出来た。しかし、今度は数人に完全に囲まれた。住民の人々が何だ何だの素振りをするので、自分たち二人以外は散れと一番偉そうな隊員が言った。二人の隊員に足を止められて、質問される。
なんか解からないが色々と質問されるが埒が明かないと見えて、筆談で「宿はと」聞かれるので、「名前は覚えていない」がこの辺りだと地図を書く。「名前は」ときかれ暫らく意味が解からない風にしていた。地元の人が五、六人何だ何だと言う態度で寄ってきた。人が集まってきた。するとその一番偉そうな隊員は「OK OK」という仕草。今度は後も見ないで人通りの多い方の道へ急ぐ。
たぶん人民を刺激しないように言われているのだろう。人が集まってくると急いで行ってしまった。
たった其れだけだが、心臓がバクバクだった。

一日に20数本のバスしかない時刻表を見ると、成都行きは4本で始発はやはり6時だ。これで馬爾康を離れよう。切符売り場は未だ開かない。早く切符を買ってバスの乗客になろう。やっと落ち着く。成都に帰ろう。

見渡すと、九賽溝県行き16人乗りのミニバスがある。7時10分発で、148元、約500kmの道程だ。うん、九賽溝か。あの超有名な世界遺産でもある九賽溝に直接行けるのであれば、行ってみようかとも思うし、武警や公安が何かしても反対方向に成ると思い、決断する。九賽溝は門票(入場料220元観光車90元の計310元)が中国一高いことでも有名だが。

バス代148元は今までで最も高い汽車票だ。多分道が良ければ10時間位のバス旅だ。

しかし、これがまた色々な意味で素晴らしいバスの旅だった。
その1は街を出ると直ぐに、素晴らしい凸凹の未舗装の道路で、片側が工事中の実質一車線の道路が峠まで三時間続く。時速に直して精々十四、五キロメーター位か。
その2は「紅原」の街の北側に広がる黄河と揚子江の分水嶺の一つで、大草原と言うか湿地帯の高原(3500~3800m)を通ることだ。数キロに及ぶ直線の舗装道路、緩やかにカーブする道路が大草原に一本だけある。100km/h位でとばす。バスの速度計は壊れているので正確には解からない。対向車はほんの数台だ。
周りは見渡す限りの黄色く枯れた大草原。黄河の支流の白河が緩やかに流れる。耗牛が数百、数千の群れを作ってあちこちで放牧されている。遥か遠くの山裾の耗牛は黒い点々にしか見えない。中国の広さと自然を実感する。数キロ直線を走り山裾に沿って緩やかにカーブし、一寸した丘を越えてまた次の直線コースに出る。
遊牧民のテントがポツリポツリと見える。隣の家まで何キロあるのだろう。

360度の草原遥かになだらかな山並みが望める。正に大草原、大高原、正真正銘の大草原国家旅遊風景区だ。

その3は晴れ渡った青空とその空気の清々しさだ。何も言うことは無い。

午前中の凸凹道の後は、まるで高速道路のようにとばし九賽溝には夕方の6時頃に着く。
11時間のバス旅は終わった。腰に付けた万歩計は5万台の数字を示していた。(バスの座席に座っていて反応したバウンドの数だ。)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四川省西蔵の光と陰

2009-10-27 16:53:56 | 日記
その13 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月20日(火)

今日は朝から雪だ。昨日は雪線が3500M位まで下がって居たので今日は甘孜の街も雪の中だ。まだ積もっては居ない。
徳格(デルゲ)へ行く積りで宿を出る。バスは8時30分発だ。毎日ぶらぶら歩いていた通りを早朝の7時に普通に歩く。汽車站まで30分位で歩いていたのが15分ほどで着いてしまう。まだ一時間以上もある。
昨日は汽車站の前に徳格行きのミニバンが三四台止って客引きをしていたが、今日は一台も居ない。変だ。
汽車站が8時15分になってやっと開いた。昨日のメモを見せる。ちょっと待っていろという仕草をする。暫くすると四五人のチベッタンと僧侶が数人来て、窓口のおばさんと話をしている。「デルゲ」という言葉が聞こえるので、彼らもデルゲに行くのだろう。多少安心する。
しかし暫くすると、彼らは雪の降る中を街の方へ戻っていった。発車時刻を少し過ぎている。あわてて窓口のおばちゃんに先程のメモを見せる。何やら喚く。メモを出して書いてくれと言うと、「大雪、車不帰、没有」
要するに、大雪でバスは有りませんと言う事らしい。一日一本のバスが運休では手の施しようが無い。まだ雪は降っている。甘孜に来春まで閉じ込められるかもしれないと言う恐怖に駆られる。
移動しよう。昨日、通過したタンゴまで戻って、ラルン ガル ゴンパに行ってみよう。
ミニバンの溜まり場である、中央の十字路付近まで歩いていく。今日の天候の為かいつもよりバンが少ない。「タンゴ」「ルーフォー」と言ってる客引きが少ない。
タンゴがチベット式の名前で、ルーフォーと言うのが中国式の名前で同じ街を指している。この辺では中国式の名前の他にチベット式の名前も通用するのだ。看板や商店名などは漢字とチベット文字の併記が普通で、地名などの固有名はチベット式のほうが多いような気がする。そして、漢字が通用しないことのほうが多い。学校教育を受けている筈なのに漢字の読み書きが出来ない。特にチベット僧は殆んど漢字を解さない。普通語の会話は多少出来るようだ。
8時50分頃にタンゴ経由「色達」(セルタ)行きというミニバンの二番目の客になる。しかし、満員になるまでは発車しないので暫く待つことに成る。四人の僧侶と三人のチベッタンが揃った。運転手を入れて九人だ。おい、待てよ、乗車定員は運転手を含めて七人の筈だ。それに荷物の多いこと、屋根の上やら座席の間やらにドカドカ詰め込む。九人目の客は、運転席と助手席の間で股間にシフトレバーがある。それでも運転手は斜めに構え、タバコを吸い、鼻歌まで歌って運転する。たいしたもんだ。動き出したのは10時15分だった。
街の出口の交通検問所は、窓ガラスの曇りと、雪のため難なくパスする。通過したらフロントの曇りと窓ガラスの曇りを拭きワイパーを動かした。したたかなもんだ。

タンゴの入り口で股間にシフトレバーを挟んでいた客が降りていった。前は運転手と助手席に一人になった。タンゴには午後1時30分に着く。昼食休憩だと言う。ラルンガルゴンパの二人の僧に付いて行く。8元の耗牛肉ミンチの面を食べる。僧持参の塩茹での耗牛肉をご馳走になる。その後一人で街をブラブラする。発車の時間を確認していなかったので早々に戻る。
1時間経っても誰も戻ってこない。2時間経っても誰も戻ってこない。そう言えば運転手が皆の電話番号を聞いていた。連絡用なのだ。
運転手が戻ってきたのが15時40分。二人降りたので残りは5人だが、坊主が帰ってこない。その内に残りのチベッタン二人の荷物を降ろして隣のミニバンに積んでいる。運転手がお前も移れと言う仕草をする。坊主も戻ってきて荷物を移動する。そして、空いた先程のバンに甘孜へ行く客の荷物を積み込み始めた。客の交代をしているのだ。成る程考えたものだ。そして料金をよこせと言うが、色達までの料金をよこせと言う。おかしいが仕方が無いので払うが、きっと降りる時に揉めるに違いない。
新しい運転手にラルンガルゴンパは降りられるのかと聞くと「OK」と言う。

ミニバンはやっと16時に動き出した。まだ150kmも有るというのにもう日が傾きかけている。
しかし、途中の景色は又素晴らしかった。雪景色の4000mの高原をミニバンが跳ばす。道路は舗装と未舗装が半々ぐらいだが未舗装道路の凹凸が少なく結構飛ばせる。峠は4270mであった。最高記録だ。吹雪で寒いが記念に写真を一枚撮る。

ラルンガルゴンパには20時過ぎに着く。
目の前の山の斜面一面に電気の光が灯いている。何千何百の窓が電気の明かりで光っている。ステンドグラスのモザイクのようだ。目の前の数百m先から見上げるように窓の光が天上へ延びている。数え切れない。山の斜面の全面に渡って光に溢れている。
降りようとすると、近くに居た僧たちが「ノーノー」と言う。運転手に聞くと「ノーノーセルタOK」と言う。
先程のOKは何だったんだと思うがこれも商売の常套手段だ。おい又かよと思うが僧たちが言うのだから間違いないだろう。先に下りた二人連れの僧に好く頼んでおくのだった。坊主先に立たず。(後悔先に立たず。)
やはり潜入は難しいのかもしれない。

仕方が無いので30km先の色達まで行って貰う。時間は21時。
山の奥の草原の街のはずだ。標高は3860m。甘孜よりも460mも高い。真っ暗で何も見えない。街頭の明かりが辛うじて街らしく見える。中央広場らしき所にぽつんと賓館の明かりがある。「高原魂賓館」如何でもいい、それしか見当たらないのでそこに決める。
その前にやはり、ミニバンの料金を払えと揉める。
先程のタンゴでここまでの料金を払ったと身振り手振りで言うが当然納得しない。他の人間はやはり降りるときに新たなミニバンにそれなりの料金を払っていたようだから、小生だけ例外ではないだろう。結局幾らだと聞くと「80元」。おいおい、しらばっくれて今まで見ていたが精々一人50元位だ。完全に吹っかけてきた。こちらも強引に40元以上は払わないと言う。60元まで値を下げてきた。勝ったと思った。「40元、ノーモア」後は一切掛け合わないで荷物を引き出してしまう。


2009年10月21日(水)

朝の7時30分から散歩をかねて明日の切符を買いに出る。小さい街なので一時間あまりで一回り出来てしまう。
ミニバン、乗り合いタクシー等が集まる十字路で次の目的地の情報を仕入れようとするがさすが本場チベット、漢字、英語が通じない。仕方が無いので、近くで一番立派な事務所の「中国電信」に行く。カウンターの女性に「色達汽車站」と書いたメモを見せる。右に言って左らしき仕草。しかしそこの通りは二度も通ったがそれらしき建物は無かったので、再度先程のメモを見せると側に居た女性が案内して外に出てくれる。50m位行ったそこは、泥んこの広場で車が一台停まっているだけで、材木や、スクラップ等が放置してあり、建物は普通のチベット式泥仕上げの平屋が有るだけだった。
その泥小屋の小さな窓の横に「售票処」と書いた看板がある。それで全てだ。

窓口のおっちゃんに何時もの様にメモを見せる。「馬爾康(マルカム) 1張」返事は、「明天 早午6:10 62」これで明日のバスの予約は出来た。先日のように大雪に成らないのを祈るだけだ。

碁盤の目のような正確な区割りなので、迷うことなく東の端から西の端まで一通り歩く。北側の大地の上には街に入ってこれないチベッタンの泥仕様の小屋がある。ゴミ捨て場の中に住居が有るかの如きである。百軒近くは有るだろうか。

路店の商店は18時には店を畳んだ。街の店も19時には殆どの店がドアを閉めた。20時には茶楼という看板を掲げるデスコ兼バーみたいなもの灯りだけで、後はわずかの街頭が照るだけだ。

21時30分、ドアをノックする音にまどろみから覚める。公安にパスポートを持っていかなければならなくなったとの事。そう言えば、登記していない。おばちゃんは宿代を受け取っただけで、外人宿住の届出に記入していない。
本人も出頭しなければならないのかと思ったが、宿の人だけで良いとの事。30分後に外人登記の用紙を持って戻ってきた。記入するとそれを持って、もう一度公安へ行かなければ成らないと出て行った。
どうして、誰がなぜ、何時、何処で外人がこの宿に居るという事が解かるのだろう。いや、公安がどうして日本人が居ることに気が付いたのだろう。それとも偶然に網に掛かったのだろうか。
そういえば、夕方に宿の前の路上に公安の車が止っていた。

中国人や公安はボーとしているように見えるが、実はそれも芝居で人の把握は確実にしているのかもしれない。
「恐るべし公安。」

2009年10月22日(木)

今日のバス旅行は5時30分の汽車站一番乗りから始まった。
数分して小綺麗な「M」似のチベッタンの女性が来た。未だ開かない汽車站の門の前でその女性との会話、「何なに、成都、何なに何時」「マルカム、5点40分」それで意志の疎通は出来た。「私は成都に行くんだけれど、あなたも成都に行くの、所でまだ門が開かないけど、今何時かしら」「いや、私はマルカムへ行きます。今は5時40分です。」
そして三番目は向かいの3m位の塀を乗り越えて現れた。
5時45分に汽車站の門が開いた。あちこちの路地から携帯電気を点けてバラバラと人が集まってきた。気温1.4℃、風は無い。そう寒くは感じない。
一番バスは6時の成都行きだ。マルカム行きのバスは少し離れた路地から出てきた。成都行きと並んで止った。マルカム行きは見るからにボロッちい。乗り込む人もいかにもチベッタンばかりだ。それに比べ成都行きは先程の女性と同じように身綺麗な服装が多い。

今日の観光コースはセルタ河に沿って下っていく。途中で河の名前を変えながら下っていく。標高で1000mは下る。
馬爾康(マルカム)と言う地名から、勝手にマルカムは馬の走る草原の康(カム地方)の街と想像していた。着いてガックリの、今までの街と同じ山ん中の狭い川沿いの大きな街だ。
州都だけあってその規模は大きい。どうしてこんな山の中にこんな大きな街が有るのだろう。何時もながらの疑問が出る。途中の風景からはそんなに人口が多いとは見えないが、何処に人が住んでいて、何処から人が沸いて、こんな大きな街が有るのだろうか。

武警に連行されそうになった。
(身の危険を感じた。写真を撮ったり視たりするにも、あらゆる事に注意を払って慎重に行動しなければならない。今書けるのはこの一行だけです。)

どこかへ逃げなければならない。切符は無いが、明日は早々に移動しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四川省西蔵の空と風

2009-10-26 14:48:56 | 日記
その12 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月14日(水)

面が割れてしまった。
成都の宿のロビーで五六人の日本人と喋っていた時に、「あれっ、仙台アガシさんですか?」と言われてしまった。そうなんです、「中国バックパッカー観光旅行記」のBBSに7月頃から時々お邪魔して投稿していたのです。
「話の旅程と仙台出身と仰いましたので間違いないと思いました。BBSをチェックしていたので解かりました。」との事。
「中国バックパッカー観光旅行記」と作者の「流浪小侠」さんの話題で花が咲きました。
「凄い人ですね」が結論でした。確かに素晴らしい旅行記です。足元にも及びつきません。参考にさせて貰ってます。色々と役に立つ情報が満載です。是非見られたらいいと思います。


2009年10月15日(木)

宿を7時20分に出る。何時も8時位までゴロゴロしていたが、6時に起きて支度をする。
大部分の荷物は宿に預けていく。少しの服と歯ブラシとパソコンだけで廻ろうと思う。荷物の重いのはもう担げない。それほどの体力がもう無い。

城北汽車站を10分程遅れて発車した康定(カンデン)行きバスは茶店子汽車站を経由して高速に乗った。今回も理解に苦しむ出来事があった。
バスは汽車站を出て100m位走ると、停留所でもないところで止まり、6人を乗せた。1km位走って交差点で2人を乗せ、ガソリンスタンドで給油中に5人を乗せた。しかも、乗車しないブロカー風の人間がいずれの場所にも居たことだ。さらに、バスの車掌が発車前から頻繁に電話をしていた。着信が多いが自分の方からも電話をしていた。さらにびっくりは発車してしばらく走って、また茶店子汽車站に戻って遅れてきたのか青年一人を乗せた。料金は誰の収入になるのだろう。
結局市内を出るのに一時間あまりを費やす。

久しぶりの、公道を使っての追い越しレースを見る。いや、運転手の直ぐ後ろの一等席に同乗させて貰っているのだ。
そして今日も相変わらず交通事故の生々しい現場を見ることが出来た。運転手が今まさに脱出してへたり込んでいる。トラックは崖から半分落ちかけている。数時間前に正面衝突したバスと乗用車の残骸がある。故障して放置してあるトラック、今まさに修理中のトラック、バスが十台位はあったろうか。

しかし、今日のハイライトはそんな物ではない。何を隠そう、今回の旅行で最高の女性と同席したのだ。年の頃は四十数歳、服装のセンスといい、その姿形といい、電話の対応といい、容姿は言うに及ばず。さらに仄かに香る香水は植物系の爽やかな香りだ。二言三言しか言葉を交わさなかったが、十分に世界で通用する気品を持っている。何処のどん人なんだろう。途中の「瓦斯」という所で降りていった。その街に植物研究何とかという大きな会社の建物があったので、きっとそこの社長婦人に違いない。

「康定」の街は川沿いの岸にへばり付いているという表現がぴったりの街だ。その直ぐ裏は数千メートルの岩山だ。谷の間からはさらに高い山が望める。
夕方の川風は寒い位だ。地元の人間も既に防寒具を着用している。まだ秋の装いの身には夜の寒さがことにしみる。

同宿の中国人の若者と少し話をした。彼は礼儀正しくしかも清潔である。気の良い青年で尚且つ英語で多少の意思疎通も出来る。彼の旅行プランを聞くと違うコースだが彼のコースに行きたいと思っている地名も入って居る。しかも彼も一人旅だ。予定を変更して彼と同行しようかとも思う。
しかしそれでは余りにも安易過ぎる。還暦背包族を名乗っているにはお粗末過ぎる。出来るだけ独力で旅をしなければ背包族に入れてはもらえないだろう。泣きの涙で自分を通すことにした。
チベット圏に入って意思疎通が難しくなってきた。中国でも漢族以外の中年以降の人間は漢字の読み書きが出来ないことが多い。多少の不便と労力は厭わない事にしよう。


2009年10月16日(金)

明日の切符を買いに行く。「明天 甘孜(ガンゼ) 1張」のメモを見せる。「明天6:00 113元」と書いたメモが戻る。窓口から200元を入れる。切符と保険の証書とおつり87元を返してよこす。当たり前のことを当たり前に行う。
どうして二三日前までは外国人がこの切符を買えなかったんですか。何も聞かれないし、それ以外に何も無い。不思議な国だ。

近くの木拉錯風景区に行こうと思うが公共の交通機関が無いのでタクシーをチャーターしなければならない。最安値で150元だ。同行する人が二三人居れば良いのだが宿のフロントにも声を掛けたが誰も居ない。35kmで1時間ぐらいの距離なのに結構良い値段する。街では大体、10kmで15元だ。大目に見て往復で90元、待合が60元という計算なんだろうか。
見たい気がするが、今までの大当たりは虎跳峡だけで確率10%だ。止める。またの機会にしよう。還暦背包族には次のチャンスが有るのです。なに、気が向けば又来れば良いのです。もう、二度と来れないし見られないなどと思うことはありません。気楽に考えます。どうしても見たいなら又来れば良いだけですから。だから簡単に諦めも着きます。

「康定」の街が一望出来る跑抱馬公園へ行く。
これが又とんでもない公園だ。街の南西にそそり立つ岸壁をよじ登っていくのだ。出発点の観音堂までは道路から20m位の高さだ。しかし、その階段からしてかなり急だ。本番はその観音堂の裏の階段からの急坂だ。ヂクザクに登るがそれでも手を伸ばせば階段に手が付きそうになる。
山屋根性が今日も試される。頂上の公園までは標高差300mと踏んで1時間で何とか登頂しよう。最低でも中間位に有る展望台までは登ろう。

気合を込めて踏み出すが相変わらずペースが上がらない。やっぱり歳だ。止めよう。何時もの自問自答が始まる。

多少前回で高度順応が出来たのか、もしくは多少のトレーニングになったのか今回は前回よりかなり呼吸が楽だ。経験になったのかも知れない。

標高差320mを50分で登った。だが残念なことにそこには門票50元と書かれた「跑馬公園風景区」の入り口があった。この急登のご褒美が入場料50元ですか。この公園に門票が必要とは知らなかった。入場料を取る観光地へは近付かない様にしようと思う。
登りとは別のルートをとって下る。せっかく苦労して登ったのに気分が悪い。

街に下りた所で、本格的な格好をしたチベッタンがバイクに跨って自分の街へ帰ろうとしていた。腰に刀を指し、男性も女性も完全な民族衣装だ。写真を撮って良いですかと声を掛けて、二組の男女の写真を取る。礼を言って帰ろうとすると「スーシークワイ」と言っている。要するに金をよこせと言うことらしい。
道端の風景をちょっと撮ろうとしただけで、はじめから金を払っても撮ろうという訳ではないのでしらばっくれる。しかし、腰に本物の刀を指しているし、先程は抜いて見せてもくれた。本物は多分武器だ。2元出すと「シークワイシークワイ」と言う。身振り、指文字も40元と言っている。多分4人なので一人10元で40元と言っているに違いない。
先程の公園といいチベッタンといい頭に来る。

しらばっくれて4元を出して早々に立ち去る。追っては来ないようだ。


2009年10月17日(土)

街灯の光を頼りにぶらぶら歩いて康定汽車站に行く。5時10分、まだ開いていない。
オレンジ色のチョッキを着た清掃のおばちゃんがもう仕事をしている。幾ら貰えるのか解からないが、こんな時間から仕事をしているとは知らなかった。すごい。

座席番号一番なのだが又おばちゃんに席を取られてしまった。一番が窓側だと言っても席を替わろうとしない。根負けしてしまう。

標高4290m(腕時計の標高は4235m)の折多山峠を越えると景色が一変した。高原の大草原が目の届くとこまで続いている。ぽつんとチベッタンの家がある。耗牛が羊が牛が草を食んでいる。青い空が眩しい。
遠くにはギザギザの頂上を持った海子山(5820m)が見える。

そんな大草原の中の道なのだが、未舗装で砂埃が濛々と上がる。精々時速20kmがいい所かも知れない。至る所で工事中だ。「康定」から「甘孜」までの間でも数十箇所で工事をしている。いや、全線に渡ってと言ったほうが良いかもしれない。二車線の道路の常に一車線は工事をしていると言った方がいい。数千人を超える人間が道路脇にビニールやトタンで作ったプレハブ小屋に住宿して生活し、工事を行っている。飯場が至る所にあり、午前7時には既に仕事を始めている。
もう数年すれば高原を爽やかな気分でドライブする事が出来るに違いない。

最長不倒時間の樹立をした。「康定」から「甘孜」まで朝の6時から夜の8時30分まで実に14時間30分掛かった。途中の昼食やトイレ休憩やバスの冷却水補充等で2時間ほど停車したので実働12時間30分で385kmだから平均時速で約30km/hだ。


2009年10月18日(日)

街の裏山はもう雪を被っている。「甘孜」の標高は3400mなので4500m位のところまでは雪で白くなっている。

ほの明るくなった早朝の7時15分市内全域にわたって完全停電した。「ウルムチ」を思い出させる。停電後の二三時間で銃撃戦が有ったとの事。
静かだ。トラックの音だけが聞こえる。
昨夜も一度停電が有ったが一二分で回復した。今日の予行演習だったのか。
8時、未だ回復せず。何事も無いようだ。

そう言えば「康定」の電気屋には冷蔵庫と一緒に洗濯機が並んでいたが、チベッタンの多いこの地方で本当に売れるのだろうかと他人事ながら心配になった。

生まれた時の産湯と死に水を取るだけで一生身体を洗わないと言われるチベッタンだからだ。しかし、街を歩いていると、何種類かに分けることが出来るようだ。その1は身体を洗わない、手も足も顔も真っ黒で着る物も真っ黒な本来のチベッタン、その2は身体も着る物も綺麗に洗いきちんとした民族衣装を着ているチベッタン、同じくその3は前者と同じで洋服を着ているチベッタン、その4は洋服を着ているが本来のチベッタン風に手足を洗わないチベッタン。

しかしこれは街の通りを歩いているチベッタンで、他に家に居る人たちや仕事をしている人たち大勢のその他が居るので何とも言えない。因みに同じ宿に泊まっているチベッタンの家族は朝に歯を磨き顔を洗っていた。しかし服装は真っ黒に近い。洗って年に一度位の感じだ。

朝から各地を廻る。
「デンゴンパ」は街の中心にあり、早朝からお参りしている人、五体投地している人、「コルラ」(ゴンパや聖地の周りを廻る事)している人が大勢いる。
ゴンパの本堂の中は真っ暗でよく見えないが人が居るのがわかる。あちこちに座ってマニ車を回してお経を唱えている。目が慣れて少し見えてくるとその人の多さに改めて驚かされる。他人の後ろに付いて一回だけ廻ってみた。宗教の「力」を始めて感じた。ヤハリ「スゴイ」としか言いようが無い。圧倒的な「信仰心」「迫力」が違う。

宗教というものを真面目に考える必要がある。宗教に基ずく哲学的な洞察力や宗教観、更には人生そのものに対する考え方、生き方、それらが不完全なものであろうと、簡単に言えば「ただ仏門に入った」といった程度の人間ですら信仰から受ける「力」を感ずる。
宗教を「洞察する」「感じる」「経験する」必要がある。

ガンゼゴンパは山の斜面に建っている。街から見上げるとその金色に輝く社殿が一段と青空に映える。しかし、かなり急な斜面に建っているので登るのに苦労する。
斜面の下半分はチベッタンの住居で上半分が社殿、僧坊、学院等だ。併せて標高差200mといった感じだ。
頂上の本殿前では今まさに祈りの護摩が焚かれている所だ。モウモウと煙が立ち込める中、太鼓、鉦、大笛等と30人位の僧の読経が流れる。

朝からの停電は夕方に5分位通電して又停電だ。
今20時、ローソクの灯だけだ。
雷鳴が近づいてきた。
窓から外を見る。一閃の雷が辺りを浮かび上がらせる。遠くの山々まではっきりと見える。すざまじい稲妻だ。大地に響き渡る雷鳴が轟く。大自然の怒りにも似た営みだ。
数度にわたる稲妻、雷鳴の規模は今までの経験のはるか上をいく。


2009年10月19日(月)

朝から冷たい雨だ。もう雨雪になったようだ。道理で寒いはずだ。行く所も無い。外気温5.5℃

少し小降りになった11時過ぎに汽車站に切符を買いがてら散歩に出かける。さすがに人通りは少なめだ。
汽車站の事務所にはおばちゃんが一人しか居ない。例によって恒例のメモ「明天 徳格 1張」を見せる。おばちゃんメモに「早上8:30」と書いてよこす。金を出すと「没有、明天」と言う。明朝、時間前に来て切符を購入しなさいと言う事らしい。発車しないと言う事も有りなのか、通常状態なのかわからない。とにかく明朝に買うしかないようだ。
甘孜の中心街は殆んど歩いた。東西が1km、南北が2km位の小さい街だ。ほぼ平らな3400mの高原の街だ。南の外れを雅龍江(揚子江の支流の支流)が東へ流れてる。周りが開けて気持ちのいい街だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蜀の犬

2009-10-14 19:29:27 | 日記
その11 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月2日(金)

先日から目を付けていた屋上の一画に移る。

この宿に宿泊してから宿のあちこちを見て廻った時に、屋上の一角にバンガロー風の三部屋続きの小屋が物置として使われているのを見付けた。
昨日の夕方にオーナーに直接交渉し使用の許可を頂く。早速清掃に掛かる。西の端の部屋を清掃する。

3m×3mのまあ日本でいえば四畳半一間にベットを入れたような感じだ。壁フロアー全て清掃する。素足で歩けるように雑巾掛けをする。土足厳禁にしたほうが部屋を有効に使えるので、数度雑巾で拭く。
4時間で何とか仕上げる。急ごしらえのベット、物置から持ってきた机、椅子等も奇麗に拭いて配置する。窓にはピンク色の小綺麗なカーテンを付けた。宿泊費は破格の値段だ。

多分、中国に着てから今迄で一番好い部屋かもしれない。隣の二部屋は物置になっているので、他には誰も居ない。本当に天国だ。
ただ、ずうっと使用していなかったので、かび臭いのと、木造で乾燥しているのか埃りっぽい臭いがする。どこか近くの煙突から出ているなんかの焼けた臭いもする。


2009年10月3日(土)

余りにも期待しすぎたようだ。
その一。五階の上の屋上なのだが、表通りの車の騒音が結構うるさい。木造のプレハブだから当然壁も薄く防音の設計などしてない。直接道路に接しているのかと思うほどうるさい。向かいの建物と反響しあい屋上まで音が上がって来るのだろうか。ドンピシャで共鳴している気がする。
その二。この時期なのに蚊が結構多い。足の裏や額を五六ヶ所刺されたようだ。足の裏がとても不愉快だ。歩くにも支障をきたす。
その三。夜中にトイレに行こうとし、ドアのロックを外そうとしたが、そのつまみが取れてしまった。ロックされたまま外からも中からも開けられなくなってしまった。仕方なしに窓から出入りして用を足す。

国慶節三日目。
昨夜来の雨が朝には小降りになったが、急に涼しくなった。二三日前には28から30度位はあったのに急に涼しくなった。今朝の気温は16度くらいしかない。めっきり秋らしくなったようだ。
そう言えば日本の節季も中国に倣っているので、まあ華北だろうが、成都も標高の高い分だけ華北に近いかもしれない。
中秋の月餅が本当のお中元のようだ。街の到る所で売られている。

国慶節の後の旅程を決めようと市内のバスステーションに行き、切符を購入しようとするが全て「没有」攻撃される。
四川省の北部、西部は全て外国人の立ち入り禁止区域に指定されたので国慶節の間は切符は売れないとの事。一週間後に再度来て確認してくださいとの返事。では、10月の何日から解禁になるのですかと問えば、「I don’t know.」を繰り返すばかり。
四川省も、、チベットの状態に近づいているのだろうか?

ズボンの裾のほころびを修理してもらっている間に、仕立て屋の隣のマッサージ店で一時間20元のマッサージを受ける。よくTV で見かける罰ゲームみたいな痛さだ。脂汗が出る。じっと我慢する。


2009年10月4日(日)

蜀の「犬」は太陽に吼えると、何かの本に書いてあったのを思い出す。「三国志」か何かだったと思う。
蜀の都、成都滞在十数日にして始めて太陽を見る。
毎日、霧に覆われたような感じで、街全体が霞んでいた。昨夜来の風と雨で、それらが一掃された。
東の空から太陽が昇り青空が望める。犬も吼えるのも当然だ。太陽はめったにその姿を見せないのだから、犬もきっと訝っているに違いない。それが実感できる今日の青空だ。


2009年10月5日(月)

「S」に会う。
後ろから見ても横から見ても前から見ても「S」そのものだ。
息が止まった。正に、息が止まった。気が付かないようなので、肩を叩こうと手を伸ばした瞬間、バスは急停止した。
目が合った。しかし、気が付かない。もう一度良く見るが「S」その人だ。
だけどおかしい。何の反応もない。「おい、俺だよ」と声を掛けようとしたが、彼女は携帯でメールを打っている。しかも中国語だ。
おかしい。「S」は中国語を知っているはずもないし、今は、タイに住んでいると聞いているのに、中国の四川の成都に居るはずがない。
しかし、間違いなく「S」だ。記憶でもなくし、タイから中国に売り払われてきたのかもしれない。
似ている人間はこの世の中に何人かは居ると言うが、如何見ても「S」その人だ。二十数年一緒に生活した人だから間違うはずがない。
しかしおかしい。何の反応もない。何度か目が合うがやはり何の反応もない。
顔つき、身体つき、着ている物も全て「S」そのものだが、目が会っても何の反応も無い。
おかしい。いや、人違いのはずが無い。しかし、おかしい。
携帯のメールを打ち終わって、バックの中に入れた。そして、立っている小生の目の前を後の降口に歩いて行った。「俺だよ」と小さい声で言う。やはり何の反応も無い。
人違いのはずが無い。しかし、彼女は何の反応も示さない。

おかしい。自分の頭がおかしいのだろうか。「S」はバスを降りて行ってしまった。完全に記憶が無い人間のごとく目の前から消えた。
「S」だけど、「S」でない。
息が止まった。本当に息が止まった。


2009年10月6日(火)

杜甫草堂に行く。パンダカードで免費。
相変わらずに人が多い。国慶節の休みだからではなく、何時でも何処でも中国の城市は人が多いのだ。
人口600万のこの成都市も例外ではない。市内のあちこちでマンション建設が盛んだ。なおかつ、郊外の建設ラッシュは更にすごい。商業街、住宅街ともにその勢いは留まる所を知らない。ただ、数年前からまだ工事中の様なビルも見られるし、完成したのに既に中古の建築物になっている様なビルも見られる。どの様な経済状態なのか解からない。
只間違い無いのは郊外へ向かって街が膨張しているという事だ。


2009年10月9日(金)

今日も朝から雨だ。日曜以来、太陽を見ていない。
屋頂花園は雨が降るとジメジメしてとても居心地が悪い。ベットも吊るしてある衣類も湿っ気たっぷりとなる。天井などは少し気温が下がると結露したりもする。

屋頂花園は今住んでいる部屋のルームナンバーなのだ。

急に寒くなったので、衣類の買い物をする。長袖の上下の下着と定価249元のオープンシャツを買う。これで当分は大丈夫だろう。


2009年10月10日(土)

今日も朝から雨だ。
完全に沈没してしまった。旅ではなく、生活として滞在している状態になった。
旅と生活と何が違うのだろうか?滞在の日数でないことは確かだが。
では、旅とはそもそも何なのだろうか?
芭蕉の「奥の細道」紀行や英国女性のイザベラバードの「日本奥地紀行」は典型的な旅だと思うが、芭蕉などは同じ場所に確か二週間ぐらい滞在していたようにも思う。旅の中の長期滞在。
生活の糧を得る為の移動は旅とは言わない。富山の薬売り、今はもう居ないのかなあ子供の頃に紙風船をもらった記憶がある。毎年同じ人が来て薬を補充していった。そんな箱が家に二個有った気がする。彼らの移動は旅ではなく、単なる移動であり仕事として旅をしているので本来の旅ではない。
その昔人間は生活の糧を得るために移動し、気候の変化や獲物の多寡によってその土地から新しい土地へ移って行ったにに違いない。いわゆる、物見遊山が目的の移動はつい最近のことと思われる。この物見遊山の移動を旅と言うのだろう。「生活の為」と言う括りをはずした移動、「物見遊山」の移動が旅と言うものだと思う。
物見遊山が無い長期滞在は果たして旅と言えるのか?

沈没が長くなると、くだらない事を考えてしまう。


2009年10月11日(日)

今日も雨だ。


2009年10月12日(月)

そろそろ移動しよう。

四川省の西部「カム東部地方」と北部「アムド地方」のチベット地域に行こう。
城北汽車站で15日の切符を購入した。

最初に並んだ窓口で、日時と行き先を書いたメモを見せると「没有、オールソルドアウト」と言う。三日も先の切符が全て売り切れと言うのもおかしい。それではその前の「7時発」のと聞くとまた「没有」と言う。そして隣の窓口に行けとの仕草をする。隣の窓口は案内の窓口だ。そこで同じくメモを見せると先ほどの窓口の女性となにやら言葉を交わして英語で「切符は売り切れなので、新南門汽車站に行ってそこ出発の切符を買いなさい。55路のバスに乗っていきなさい。乗り場は道路の反対側です。」と言う。納得いかないがそこまで言われては仕方が無い。
しかし諦めきれず、城北汽車站の目的の方向へのホームを見てみようと待合室に入ってみる。何番かと見ると、一番端の17番がそうだ。辺りを見回すと、待合室の中にも切符売り場がある。窓口が三つ有り何れも二三人しか並んでいない。空いた窓口の所で先程のメモを見せる。窓口の女性がパソコンのキーをパタパタと打ち、メモに121と書いてよこす。200元を窓口の中に入れると、79元のおつりと切符をよこした。

おい、如何なっているんですか?しかも、座席番号が1番ではないですか。一番早く予約したと言うことなんですよ。如何いう仕組みか理解できないし、最初の窓口と案内窓口の対応はどお言う意味なんでしょう。理解不能だ。それが中国と言えばそれまでだ。
結局、当初求めていた15日の切符が城北汽車站で買えたのだ。


2009年10月13日(火)

パンダその物にはあまり興味は無いが、成都市と今までお世話になったパンダカードの義理でパンダ繁殖基地の見学に行く。

何頭のパンダが居るのだろうか。10cm位の大きさの赤ちゃんパンダや、手の上に乗りそうな大きさや、丁度小脇に抱えて歩けるような大きさや、5~60kgの成獣までそろっている。数十頭のパンダが、広い敷地のあちらこちらのパンダ舎に飼われている。パンダファンだったら一日中見ているだろう。
人間がぬいぐるみを被って、観光客を楽しませる為に滑稽な仕草をしながら動いているのではないだろうかと思わせる。その仕草、その動作はそれ位面白い。いや、やっぱり優秀なコメデアンが中に入って動いているに違いない。そんな動作をしていたのではこの弱肉強食の自然淘汰の世界で生き残れるはずが無い。そんな気がしてならない。

国慶節も終わり、それぞれ目的の方向へ旅立っていった。日本人の中で滞在日数ベストスリーに入ったようだ。やっぱり移動しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成都のスモッグ

2009-10-03 23:27:28 | 日記
その10 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月22日(火)

成都に着いて暫くなるが、成都の街は何時も霧で覆われたように霞んでいる。夜も星空が見えない。これがあのスモッグなのだろうか。街全体がなんか霞んでいる。

羊石場客運站へ行く。
客運站の近くの中国移動通信のおネーちゃん達に、先日のお礼にチョコレート10ケを持って行く。(10ケ買ったら一個おまけに呉れたので11ケ持って行く。)


2009年9月23日(水)

近くの中国銀行へ行く。
その最初の中国銀行はここでは両替できないので、錦江支店へ行ってくださいとの事。
64路のバスに乗って行く。聞いた支店のその近くらしき所で降りるが、中国銀行は見当たらない。

目に付いた中国民生銀行に入って今日のレートを聞く。7.25とのこと。100円が7.25元とのようだ。次にその向かいの中国商工銀行へ行く。そこでは、7.53とのこと。即決。案内されて席に着くが何分待っても誰も来ない。いかにもという態度で騒ぐ。

銀行によって両替の利率が違う。中国は何処でも同じだと聞いていたが、中国銀行が7.26 中国民生銀行が 7.25 中国商工銀行が 7.53だ。しかし、商工で両替しようとしたら、担当者が居ないので隣の銀行に行ってくれとの事。成都の繁華街の大支店の担当者が3人も替わって4人目の大堂主任の女性が言った。「隣の中国銀行に行ってください。」丁寧に言われた。どおいうことですか?しかもなんだかんだでもう30分も待っていたのに何なんですか?

結局、中国銀行で両替する。JPY 10,000が726元になる。7月23日、上海で両替したときは、確かJPY 10,000が707元だったので円がかなり高くなった様で好ましい。ドルが安くなったということだ。

突然に「K」のことを思い出す。何であの時にプロポーズしなかったんだろうと。今、ふっと思い出す。そうです。彼女もY銀行の銀行員だったんです。今、本当に突然思い出す。
何十年も前のことなのに、なんか鮮明に思い出す。一度か二度、銀行員のその姿を見た記憶があるがもう遥か昔のことだ。だから今でも二十代の「K」の姿しか想い浮かばない。もうお婆さんだ。心の奥にしまってあの世まで持っていこう。「K」ありがとう、今でも貴女のことが好きです。初恋ですから。十五の春から貴女の事が好きだったんです。


2009年9月24日(木)

茶店子バスターミナルまで移動して、都江堰行きのバスに乗る。保険込みで17元だ。高速道路を使用して約一時間の旅だ。更に市内バスの4路に乗って10分程で都江堰入口に着く。4路のバスはこれ以上ボロッチクすることが出来ないという代物のバスだ。エンジンが動いて、ブレーキが利いて止まることが出来る。それだけの機能で全てという、金属らしき物で造られた動く箱、そんな表現がぴったり来るバスだった。

都江堰の入場料は90元だがパンダカードでタダなのだ。

都江堰の景観は素晴らしい。名前から、中国の堰と言うのだからまあ、一寸大きな堰かと思っていたらとんでもない。大河だ。次々に分流した堰からの水量は堂々とした大河だ。一つ一つが日本の一級河川そのものだ。それくらい大きい。どうやって工事をしたのか考えが及ばない。脱帽する。
堰の周辺を散策する。観光のメインストリートから外れると、静かな茶馬古道の道になる。眠江の流れを見ながら断崖をへつる。所々に昨年の四川大地震の爪跡を見ることが出来る。修復中の建造物が、古道が彼方此方に有る。


2009年9月25日(金)

市内散歩に行く。10時から16時まで約6時間の小旅行だ。バス代はわずか2元だ。

夕食に北門バスターミナルの食堂街に行く。丁度一週間前の成都最初の日の夜中の12時頃に行った店のおばちゃんが待ち構えていた。此処だ此処だという仕草で迎えてくれた。二三度来ていたのだがおばちゃんの店までは来ないで食べていたのをチェックしていたようだ。回鍋肉と豆土炒と啤酒で夕食だ。


2009年9月26日(土)

小雨振る中、洛帯古鎮へ行く。路線バスを乗り継いで行く。五桂橋客車站から約20kmで3元だ。45分ほど掛かる。成都大学からの十数キロのその道は山際へ向かって一直線に伸びている。畝ってはいるものの、山際目指して道は伸びている。新興工業都市を目指しているのかそれとも単なる物草なのか解からない。道路の両側は工業団地風の建物があちこちに建っており、建設中の物がかなりある。

洛帯古鎮は麗江の外孫みたいな古鎮だ。その100分の1にも満たないかもしれない。相変わらず観光客は多い。特に客家の出身地とあってその関連の建物が目立つ。
民族衣装やウェデイングドレスの貸衣装屋が多い。何をするのかと言えば、貸衣装を着て、古鎮の建物風景を背景に写真を撮るのだ。結構人気がある。


2009年9月27日(日)

今日の目玉は伊勢丹とイトーヨーカ堂に行ったことだろう。

色々な日本の商品があったが、何と言って日本酒が有ったことだ。思わず手が出たが、ラヴェルの価格を見て手が引っ込んだ。日本の価格の三倍はする。日本では普通の日本酒の値段が1000円とすれば、約3500円もするようだ。日本酒一本でビールが70本飲める。どうも計算が合わない。ビール党の小生にはうれしい誤算だが。

醤油も味噌もあった。ただし、価格は日本での価格の五六倍はする。握り寿司もどきも有る。一個が約百円で、現地食の一食分だ。まあ食う気もしない代物ではあるが、有ることは有った。その他にも20g納豆三個が約700円相当、その他にも色々あるが結構いい値段する。

日本食にはそれ程の愛着は無いが日本酒が飲みたい。しかし、一升が3500円では考えてしまう。多分同宿の人間にも振る舞い一晩で終わるはずだ。
日本を離れ日本の何も解からずに生活している今に、何の未練も無いが、日本を思い出させるそれらの品々は余りにも高すぎる。

それが、還暦の背包族の悲しみなのかも知れない。


2009年10月1日(木)

国慶節なのだが街の様子はそれ程変わりはない。バスで中心街まで行くが、道路が混雑しているのと、多少人出が多いくらいだ。
只、極端に違うのは、小銃を持った警官が異常に多いことだ。二人一組になって歩行者の間を巡回している。要所要所に配置されて何時でも実戦体制にあるようだ。

そう言えば、四川省の西部と北部の一部が昨日から外国人は立ち入り禁止になった。今までは、チベット地区だけだったのがチベット族の多い四川省の西部、北部地区まで規制が強化されたようだ。

国慶節の後に行こうと思っていた地域だ。どうなることか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする