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古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

成都への道(蜀の南桟道)

2009-09-29 15:49:18 | 日記
その9 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月18日(金)

昨夜は酷かった。蚊との格闘で一夜が明けた感じだ。一時間単位で二三度うつらうつらしただけだ。血を吸った残骸が白いシーツに点々と残る。十五六匹との格闘の賜物だ。
沈黙の時間と時々蚊と戦うタオルの音がするだけの長い長い時間だ。そんなこんなで碌に眠れぬ夜だった。

成都行きのバスは8時30分定刻に発車する。ボロのボロで新品のときは本当に新しかったのだろうかと思わせる。造った最初から中古だったのではないかと思わせる風情だ。

昨日までの山岳道路の景観は実に素晴らしいものだが、それにも増して成都までのルートも更に十数倍も素晴らしい。蜀の桟道をまだ見ていないので何とも言えないが、蜀の南桟道とも言える南からの道路も素晴らしい。

昨日までの山岳道路は高度を強調した構造の道路だったが、いわゆる、山の中にある山岳道路だった。今日のコースは高度もあるが巾もあり、更にそのスケールが大きい。渓谷の大きさ一つ一つが大きいのだ。いわゆるより平野に近い所にあり川幅が断然広いのだ。

そんな地形の中を道路は縫って行く。14時間のバスの旅だ。交通事故で3度待ち停車し、故障で放置してあるトラックが20台以上、今まさに事故を起こして処置している現場が5台、惨憺たる交通事情だ。

あちこちで高速道路を急ピッチで建設している。二三年したらがらりと変わってしまうだろう。その時には、ここを十数時間懸けてやって来たとは夢の世界に思われるかもしれない。

成都には夜の10時過ぎに着いた。定刻なのか遅く着いたのかは解からない。
着いた羊石場バスステーションは成都のどの方向なのか何も解からない。白タクや旅館のおばちゃんの声も一段と激しい。
行こうと思う旅舎はあるのだが、住所や電話番号は解からない。とにかく五月蝿い客引きを離れるのが先決だ。南の方向から来たのだから常識的には都市の南の方に違いない。
人の流れていく方向に付いて行く。

中国移動通信の事務所があったのでそこでインターネットをさせてもらおうと行くが、全く通じない。路上でパソコンを持ち出しインターネットを始める。何処かのワイヤレスが反応してインターネットが通じた。すかさず目的の旅舎の電話番号と住所をメモする。
その間に周りに住民が集まりだして、中国移動通信の女性事務員も入れて20人位になってしまった。事務員に事情を説明(筆談で)し、電話をしてもらう。宿には通じたが、ピックアップも無理でタクシーで来てくれとの事。

タクシーで行こうと帰りかけると、事務員のおネーちゃんが警察を呼んでいる。「この日本人は言葉が解からず、これから一人で行こうとしている、、、」間もなくタクシーではなくパトカーがやって来た。おネーちゃんの曰く、私が送ってあげたいが、それは警察の仕事、だからパトカーに送ってもらいなさいとのこと。おいおい、余りにも大げさになったんではないのかい。とにかく、周りを囲んだ皆が警察に送って行けと言っている。その声に警察も無碍に拒否も出来ずパトカーに乗れとの仕草。後部座席に乗り込み、周りの皆様に有難う、有難うといって別れる。

パトカーで10分程送ってもらい、警官が流しのタクシーを捕まえて、この男を此処まで送っていけとの強制命令をだす。車のナンバーを記録するのでタクシーの運転手はモゴモゴ文句を言っていたが仕方なしに行き先を変更して乗せてくれる。正直に送ってもらう。

おネーちゃん、石羊場客車担当の警察の皆さん有難うございました。


2009年9月21日(月)

金沙遺跡博物館へ行く。入場料金の80元がパンダカードのお陰でタダだ。そうなんです。パンダカードを1元で購入して、登録するだけで、成都の主な観光地の入場料がタダになるんです。四川地震後の観光客減少に歯止めをかけるたの政策だ。

その儲けだと思いその金額以上に奮発してしまった。干し牛肉を900gr買い、夕食も奮発して火鍋屋に行く。デパートの食品売り場での仕入れも含めて、結局150元程消費する。

冷えたビールが美味い。冷たいのと断らない限り、中国の啤酒は常温が常識だ。高級なレストランに行って初めて冷たいビールにありつける。

博物館の展示も遺跡もタダだと思うと、感覚以上に良いものに思えてくる。金の仮面や太陽環、ひざまつく石像等々、それなりに見応えがある。何よりも発掘遺跡その物が大きな屋根に覆われてある。数千年前の世界があると思うだけでジーンとくる。

屋外に6500年前の発掘された樹が放ったらかしてある。幹周りが2,1m長さが数十mもある。此ちらの方が更にジーンとくる。6500年前の木を直接触る。削ればまだ香気が残っているかもしれない。木の更なる生命力を感じる。


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木里の階段

2009-09-29 00:05:35 | 日記
その8 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月15日(火)

朝に街をブラブラしていると、後から肩を叩く人が居る。木里に当然知り合いが居るべくも無いのだが、振り向くと、昨日のバスの車掌だ。同じ赤のシャツと黒のジーパン姿でニコニコと話しかけてきた。

木里の街をあっちこっち歩いてみる。木里からのバスは殆んど8時には出発してしまう。近距離の塩源には午後の便もある様だ。

小さなその街は階段と坂だけで平らな所がない。直線の道路がない。それで尚更迷ってしまう。階段は階段で一段ごとに高さが違う。渾身の注意をそそいで歩かないと危険だ。


2009年9月16日(水)

木里蔵族自冶県旅遊体育局へ行く。屋外に二面のバスケットコートが有る広場がそれとなく名を表しているようだ。二十坪くらいの事務所にはたった一人しか居ない。
たった一人の係員はこれまた大声で電話をしている。手でこっちに来て座れというような仕草をしている。応接セットらしき古びた椅子に座ってじっと待つ。

やっと電話が済んで、こっちに向き直った時にすかさずメモを見せる。
「明天、我想去茶布朗到稲城。我要木里県地図。」
明日、茶布朗を通って稲城まで行きたいので、木里県の地図が欲しい。
意味は通じたようだが、OKとは言わない。反対に質問が来た。
「你是什·公地方的、要到什公 地方去」と聞いてくる。
 「何処の地方の人で何処に行くのか」
「日本、去稲城」と答える。

「要到公安局(国安局)登記」「可以、座公交車到三区、毎天有一班車」
「但到稲城的没有車」
「公安局(国の安全局)への登録が必要です。公共の交通機関で三区までは行くことが出来ます。毎日一本の車が有ります。しかし、それより先の稲城までの車は有りません。」
という事のようだ。

やさしい言葉で少し話をして一寸待っていてくれみたいな仕草で席をはずす。何処かへ電話している。誰かがやって来たようだ。ひそひそ話をしている。時々日本という単語が聞こえる。公安の単語も聞こえる。拘わっているとやばいかも知れない。そそくさと礼を言って後にする。最初に見せてもらった行政区画図のコピーはしっかり確保させてもらう。

要するに公共のバスの有る所までは行っても良いがそれ以上は国家の機密なのか何なのか解からないが、登記が必要だとの事。単に公安局へ行って登記してくださいで、ハイどうぞと言われるのか、何か更なる手続きが必要なのかはわからない。本当に行く気が無いのなら余り拘わらない方が良いみたいだ。現にこの数日、木里県城に滞在しているがたった一人の外人も見かけない。ホテルの外人住宿登記簿にはフランス人の記帳が有ったが、一年以上も前のものだった。

好奇心と探究心と体力と気力を持って、木里の郷と稲城への自然のルート探検を行うのでなければ早々に退散したほうが良いかも知れない。

木里県城市へ来る道中の自然だけでも、決して日本では味わえない風景であり素晴らしいものだったのだから。


2009年9月17日(木)

木里ではバスに乗り遅れればその日一日何処へも出て行けない。8時25分までにほぼ全てのバスが出てしまうのだ。山の方へ行くバスは、7時40分発で各地へ5本、街の方へは8時25分までに7本の計12本、午後から2本だけで、合計で14本それで全てである。

今日は四川省の南部の主要都市である西昌まで一気に移動する。約273km。何時間の旅になるやら。今日は大きな峠を二つ越えるはずだ。

木里から塩源までは先日の移動で体験したが、もう一度あのスリルが楽しめるのかと思うと足が少しふらつく。

塩源から西昌までの道もまた素晴らしかった。山岳道路だけを褒めている訳ではない。その技術もたいした物だが、その前にそこに人が住んで居たという事のほうに感動する。何の咎があってこのような山里に閉じ込められたのか何で何でなのかと。常識的な判断基準では人間の住めるような環境ではないのだから。それなのに如何してこんな山の山奥でしかも急斜面の崖にへばりついて生活しなければならないのか。

しかし、現実に人間が生きている。ありとあらゆる悪条件下の元で。

西昌には夕方の17時に着いた。9時間の旅であった。
西昌に到着すると直ぐに西昌鉄道駅にタクシーで移動する。31元も掛かる。成都までの切符を購入しようと思うが、全て「没有」攻撃に合う。ここに更に二三日逗留する気も無い。今日か明日のバスで移動するしかない。バスセンターを出るときに確認するんだった。戻るしかない。今度は市内バスを利用して移動する。1元だ。

成都までは一日一本のバスしかない。明朝の8時30分発のバスを予約する。隣でおばちゃんが賓館のカードを出してしつこく付き舞とう。完全に読まれている。明日の切符を購入したのだからもう此処に泊まるしかないのだ。
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濾沽湖の祈り

2009-09-28 16:07:10 | 日記
その7 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月11日(金)

ドイツ娘は朝の7時30分には麗江を目指して愛用の自転車で出発していった。
ドイツの小さな鉄の女はさすがに強い。中国を旅して約3ヶ月になるという。何処にそんなエネルギーが有るのだろう。
麗江で夕方に時間があったら一緒に食事をしようと約束したが、本当に元気で麗江までいけるのだろうか?

ドイツ娘、恐るべし。

夕方、確かにドイツ娘は麗江の約束の場所に居た。
彼女の紹介で「K」氏なる人物と知り合う。明日から二泊三日で濾沽湖に行くという。初対面だが、渡りに船で一緒に行くことにする。ここら辺が一人旅の良い所で、自分でよいとなれば即決で行動が出来る。


2009年9月12日(土)

バス乗場まで送るというのでドイツ娘が宿に来た。
宿のロビーで僅か十数分話して、表に出てみると、入口の所に止めてあったドイツ娘の自転車のカバンからカメラと自転車のメカ一式が盗まれていた。悔しそうなドイツ娘の顔が気の強さの一面を見せていた。あたりを少し捜すが何の手がかりにもならない。警察に届けても手間隙掛かるだけでこれも何にもならない。諦めるしかない 。悔しそうな顔が自分を責めている。何かに当たりたいのを必死でこらえている。せっかく見送りにと来てくれたのにこちらまで気が滅入ってしまう。

9時40分に「K」氏とその仲間二人(フランスの50代の女性とニュージーランドの50代の男性)の計4人で寧浪行きのバスに乗る。ああそうラッシーという名の犬も連れてバスに乗る。運転手が何か言うがお構いなしに乗せてしまう。バスは19人乗りの満員だ。鶏も居るのだから犬もOKなんだろう。

曲がりくねった断崖絶壁の石畳の道を行く。人間の力は本当にすごい。こんな所にこれだけの道を作るのだから。道だけではない。こんな所に人間が住んでいる。こんな急斜面の断崖絶壁の地で生きている、生活している。人間が一番すごい。

改めて人間の営みの偉大さを考えさせられる。

人間、恐るべし。

濾沽湖は急に前面に開けた。峠の展望台からそのほぼ全貌が見渡せる。
3000mの高地に突然に現れたその湖は、何とも形容の仕方が無いほどに神秘的だ。遥か対岸は霞んでいる。

地元のモソ族の娘さん達が民族衣装に身を包んで迎えてくれる。
やはり観光地なのだ。いっぺんに現実に引き戻される。即、営業が始まる。
カタログでは、神秘の濾沽湖、母系家族を今に残す神秘のモソ族等々の文言が並んでいたが、現実はやはり観光で生活する為の一手段にしか過ぎない。他地区に比べれば、まあましな方かも知れないが、それでも一連の歓迎がもう既に世俗化している。


2009年9月13日(日)

6時頃から、近在のモソ族の人々が三々五々集まり連れ立って祭りの会場へ向かっている。着飾った子供を馬に乗せた親子連れもいる。手に飲み物や食べ物を提げて歩いていく。時々は相乗りした男女のバイクや、親子4人も乗ったバイクが追い越していく。

我々も9時頃に濾沽湖の湖畔の宿を出発する。歩いて、今日のお祭りのメイン会場へ向かう。広々とした草原や、ガレ場の峠道や、土埃の車道を歩いて行く。日差しが強い。遮る物が一切無い。夏の直射日光を浴びる。陽に焼けているだろうが如何することも出来ない。せめて帽子ぐらい持って来るんだったがそれこそ後の祭りだ。

遥か盆地の西の端に永寧を眺め、その南の獅子山の山裾斜面にその廟堂はあった。小さなその廟堂の周りは信者がお祈りを唱え五穀豊穣を祈る。三度廻るのが仕来たりだ。部外者の我々も三度廻れと言う。そして経典が幡めく。新しい経典の幡を奉納して夫々の祈りを捧げる。

廟の四方に烽火を上げるように松を焚く煙がすごい。遥かな高みに昇っていく。目に滲みる。

地元の人々がその廟の下の斜面のあちら此方で煮炊きをし飲食している。
見知らぬ我々にもバター茶の振る舞いがある。その輪の中の小さい子供と筆談で話をしているとその母親がこっちに来て一緒に食べなさいという仕草で誘われる。家族の大きな輪の中に入ってしまった。
その地方の名前を聞いたり家族構成などを筆談で話す。大人はやはり漢語を解せなく子供に通訳をさせる。

この子供達が大人に成った時が本当の中国の力になるに違いない。地方のこう言った子供が大人に成った時が本当の中国の基礎になり、共通の言葉で共通の理念を推進させるのかもしれない。全国的に見れば、今はまだ発展途上中なのかもしれない。


2009年9月14日(月)

「K」氏に268元の請求をされた。麗江から濾沽湖までの交通費60元、入場料60元、宿泊費60元/日 2日で120元、民族芸能舞踏会 20元、ミニバス8元、計268元。
しかし、入場料金は80元なはずだ。中途半端な60元が可笑しい。チケットを呉れと言ったら、数年前のボロボロの39元のチケットを出した。インチキをやっているという自覚がそもそも無いのだろうか、それとも、何と言われようが関係無いと言うのだろうか。呆れて物が言えない。とにかく、胡散臭い奴だと思っていたが、金のことになったら一度に化けの皮を脱いだようだ。もう一刻も一緒には居たくない。早く決着をつけて分かれよう。300元を渡したら、お釣りを出そうともしない。暫く様子を見ていてもどうもその気は無いらしい。「チェンジ」と催促すると、おもむろに財布から、21.5元をよこす。どういう計算でしょうか、自称アメリカ出身の英語の教師の計算ですか。馬鹿でないのかと思いながら、21.5元を返し、新たに70元を渡す。計算が出来ないのか知らん顔をするので100元返せと言ったら、渋々100元を返してよこす。本当に出鱈目野郎だ。気分が悪くなるだけだ。

ゲストハウスのオーナーに濾沽湖古鎮までミニバンで送ってもらう。約20分の距離だ。四川省に入った。丁度10時のバスが出たばかりで、次のバスは11時だ。

濾沽湖の雲南省側の街より街らしい。道路も街も四川省のほうが立派だ。濾沽湖は雲南省で重点的に宣伝しているが、どちらが本家なのか考えてしまう。

濾沽湖古鎮から塩源までは30元だ。山また山の断崖絶壁をヘツり約3時間のスリル満点のドライブだ。一番前の席でスリルを満喫する。塩源はそんなドライブの後の高原に姿を現した数万の都市だ。

直ぐに木里行きのバスチケットを購入すべく売場に行く。ドンピシャの2時40分発の木里行きの切符を手に入れる。一日3本の最終便だ。

塩源から木里行きの街道はことに素晴らしい。濾沽湖から塩源の道よりさらに素晴らしい景観の連続だ。
塩源からの最初の道は、なだらかな林間コースのゴルフ場を思わせる。特異な形状をした石灰岩が松林の中に点在し、グランドは放牧している牛、山羊の類が草類を程よくカットしている。標高2600mから3200mまで、そんな林の中のなだらかな道を1時間ほど登る。

峠を越えると眼下遥かに光る小金河へ道は一気に下る。左手の崖のすぐ足の下にその河は見える。約1400mを一気に下る。車一台がやっとと言うような箇所も有る。所々は落石で道が狭かったり、ある所は舗装が壊れ超強烈な凸凹道だったりする。いくら中国のドライバーといえ時速20kmが精一杯のスピードだ。約20分で1400mを下る。300/1000の勾配だ。

最低地点で対岸へ渡る。標高1800mだ。車一台しか通れないが、上下数百キロで唯一の橋に違いない。木里まではまた断崖絶壁を登る。標高差約500mを1時間で登る。東斜面にほんの少し開けた幅広の尾根上に木里はあった。本当に在ったと言っておこう。山また山、谷また谷のその奥に在った。如何してこんな奥の奥に人が住まなければならないんだろう。急な斜面に畑を開き、その昇り降りだけでもかなりの重労働なのに何故。人家を見て畑を見てその斜面を見て本当に不思議に思う。何百年、何千年前から人が住んでる。本当に人間の力はすごい。肌で感じる。その力を感じる。

木里の街は坂だらけ階段だらけの街だ。道と階段が複雑に絡み小さな町なのに迷ってしまう。



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虎跳峡の星

2009-09-26 19:55:04 | 日記
その6 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月9日(水)

昨夜のNOVA先生の話で、今日虎跳峡に行くことにした。何人で行くのか聞くと3人との事なので同行させてもらうことにしたのだ。しかし、宿で手配して呉れたのは、宿から虎跳峡入口までのミニバスだけで、NOVA先生とは別々のバスに乗って、その後何処ででも一緒にはならなかった。結局、最初から、一人旅であった。

出発地の橋頭からの登山道の取り付きが解かりづらい。林道をブラブラ行くが近道と思い直登すると、とんでもない方向に出てしまった。偶然通りかかった地元の人間に虎跳峡と聞くとずうっと下の道を指差す。結局関係の無い道を登っていた。仕方なくトラヴァースしてもと来た道へ戻る。四五十分のロスをする。最初はダラダラとの中を行く。牛の糞と羊の糞が友だ。柔らかそうなのは踏まないように注意して歩く。

前後には誰も居ない。真夏の太陽が直射する。

蓄積した疲労がジワジワと表われてくる。汗が吹き出る。日陰で息を整える。今、休憩すると動き出すのが嫌になるので、休まず、ゆっくりゆっくり登る。遅々として行程は進まない。それでも休まず、ゆっくりゆっくり登る。それこそ長年の経験で克服してやると思うが、さすが年と高度と暑さには勝てない。

やっぱり止めよう。前後に誰も居ないし、さっき二人連れの若い欧米人に追い抜かれただけで、行きかう人も地元の人も見かけない。少し離れた斜面で、鈴をつけた牛が草を食んで、時々カランコロンと音がするだけだ。

やっぱり止めよう。峠まではまだ標高差で300m以上はあるし、もう疲れてふらふらする。峠に着いてもそこから最初の宿まで更に3時間は必要だ。5時間はどうしても掛かる。誰も居ないし、野宿する訳にもいくまい。まあ、七時位までは明るいが、未知のルートでしかも標高2500m前後もあるし、右側は断崖絶壁で金沙江まで4~500mは落ち込んでいる。どう考えても止めた方が良さそうだ。

だけど、悲しい山屋の性なのか、ツイツイ何時もの癖で頑張ってしまう。あそこまでだったら行けるだろう、やってみなよ、男が泣くよ。騙し騙し、騙され騙されツイツイ頑張ってしまう。そして、リミットぎりぎりの14時には何とか2650mの峠に辿り着いた。本当に辿り着いたという表現以外の何物でもない。何十年ぶりの経験だ。

峠からの長い下りもきついが、惰性に任せて歩く。金沙江を挟んだ対岸の姿をやっと眺められる。今更にその大きさに言葉が出ない。日本の谷川岳一の倉沢の岩場の千倍、いや一万倍位の迫力と壮絶さで迫ってくる。標高差で優に3500mは有る。玉龍雪山の西斜面はまさに、大絶壁だ。今は足を止めじっくり見る余裕は無い。今日の予定の宿まではマダマダ有るのだから。

前に人影は無い。後から来るような気配も無い。とにかく、急がねばならない。中国の虎跳峡で日本人が一人遭難したとあっては申し訳ない。

とにかく、それからの道も苦しかったとだけ記しておこう。

宿で飲んだ啤酒の味は格別だ。そこからの、絶壁の眺めも最高だ。夕間暮れの絶壁も最高だ。満天の星が最高だ。

小生の30分位後に着いた一人旅のドイツ娘は25,6才位の可愛い子だ。後に人が居たのだ。

啤酒が一日の疲れを吹っ飛ばしてくれた。頑張ってよかった。本当に素晴らしい風景だ。

可愛いドイツ娘は上海からベトナムへ行き、また中国へ入国し、ここ虎跳峡へ来たのだ。驚くことにその行程の殆どは自転車で来たとのこと。そして更に驚くことに日本語が話せるのだ。実に十日ぶりの日本語が話せる。最高だ。

満天の星だ。流れ星が降るようだ。ロマンチック度2000%だ。
一人身が身に滲みる。


2009年9月10日(木)

8時に出発する。宿で一緒になった連中だ。ドイツ娘と韓国の青年、彼も日本語が少し出来ると、中国人の四人組、男二人女二人、それに小生を入れて7人だ。少し前にガイドを連れた英国人二人が出発していった。それでその宿の宿泊客全員だ。

中虎跳峡のハイライトだ。下り気味の道が山肌を縫って行く。右側は相変わらずの断崖絶壁だが、少しずつ下って金沙江に近づいている。そして対岸には相変わらず、数千mの岸壁が迫っている。見飽きるということが無いほどの迫力だ。何と言って表現すれば良いのか言葉が無い。見上げれば首が痛い。息を呑む。

中虎跳峡で更に20元の追加料金を払って、金沙江の水面まで断崖絶壁の道を下って虎跳石を見る。そして梯子を使って断崖絶壁の道を昇る。老体にはきつい。

爽やかな空気の中の5時間のトレッキングは実に快調だ。晴れ上がった空に岸壁が一段と映える。金沙江の水面高はわずか1800mだ。

中国人四人組みは、インターネット友達で、今回始めて会い、尚且つ四人での始めての旅行との事。出身地もバラバラなら、学歴、職業も全て違う。始めて会って、その後に二週間の旅を一緒にするとの事。今はこんな関係の旅人も居るのかとマジに思う。男男、女女の部屋なのか、男女の部屋なのか聞きそびれた。

四人組の次の目的地は香格里垃なので、彼らがチャーターした車をシェアーする事にして同乗する。昨日の入口のまで車で戻ることにした。本当は違う別のルートを歩いて、そう歩いて行きたかったのだが、体力が無い。断念する。

そうです。我々が二日間歩いた虎跳峡の断崖絶壁の四五百メーター下には、川岸にへばり付いた様に曲りくねった車道があるのです。常に落石の危険にさらされたその道は、やっと車が一台通れる狭さなのだが。

入口のそのには日が暮れようとする頃に着いた。
内容の濃い、かつ長い二日間だった。

数十年ぶりの山歩きだ。爽快!
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麗江の灯

2009-09-24 23:45:43 | 日記
その5 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年9月3日(木)

今朝、久しぶりに鏡に向かう。何やら見たことも無い現地の人が鏡の中から小生を見ている。暫く見つめてヤットそれが自分自身だと気付く。時間差攻撃を受けて、初めて自分だと気付くほどに、真っ黒な色をした現地人が居る。見事というか、たった数日でこんなにも真っ黒に焼けるとは思いもしなかった。香格里拉は、高度に加えて日差しの強い正午から15時頃に出歩いていたので特に酷かったようだ。

それに髪の毛もかなり白くなっている。
中国に上陸してから40日。
やはり、色々なストレスが有るのだろう。そうでなければこんな短期間でこれほどに白くはなるはずが無い。ああ、食べ物も多少は関係有るかも知れない。

顔の色と、髪の毛の白髪度がこれほど急激に変わるものなんだろうか?何か病気なのかもしれない。そんなことも考えさせられる顔の色と、髪の色だ。


2009年9月4日(金)

束河古鎮へ行く。商場の隣の駐車場みたいな所から束河行きの乗合タクシーが出ている。7人乗りの7人目になり乗るとすぐに発車した。年の頃23,4才位の女性の運転手だ。男女平等の良い所で、公共交通機関の運転手などに良く女性を見かける。大型バスを運転している若い女性も結構見かける。様になっているのが又良い。

タクシーは片側3車線の道を北へ走る。束河古鎮は丽江の北4,5kmの所に在り、丽江と共に世界遺産に登録された古鎮だ。タクシーは古鎮入口の料金徴収所のある門の右側の小さな門を通って古鎮入口広場へ入ってしまった。入口までは2,30m戻らねばならない。タクシーの乗客は皆地元の人間のようだ、入場料を払わずそのまま古鎮の中に消えて行った。
小生も完全に入場料を払うタイミングを逸してしまったようだ。そのまま、地元民と一緒に古鎮の中にに入る。ゴメンナサイ。

丽江を縮小しただけの古鎮だ。四方街では地元納西族のおばちゃん2,30人位が、単調な繰り返しの音楽に合わせて踊っている。役所の人間らしい人が参加者をチェックしている。後日民族観光奨励金でも出るのだろうか?

茶馬古道博物館なるものを見学する。街には結構人が多いがこのような所は人が少なく静かでノンビリできる。外人が2,3人と中国人が5,6人だけだ。外の喧騒と人息れが嘘のように静かだ。
重要文化財の仏教壁画があるが、余りにも簡単にそこにあるという状態なので有難味を感じない。本当はもっと貴重な文化財に違いないのだが。撮影禁止の看板が有るが,それも古びて役に立っていない。

入場料金の高いのにうんざりしていたが、この博物館は免費(フリー)だ。


2009年9月5日(土)

黒龍譚公園に行く。
古城から川沿いを散策しながら黒龍譚公園へ登って行く。相変わらず日差しは強い。
日陰を選んで進む。
直射日光の下は真夏で、日陰は初秋の爽やかさだ。

黒龍譚公園の入場料金は80元だ。地元の人間は当然払っていない。外人らしき観光客もフリーで入場している。検票所の担当者は一向に検票の仕事していない。当然、小生も紛れる。ゴメンナサイ。

トンパ文化博物館の見学に行く。入場券売場を捜しているうちに2組の団体客が入口に殺到し、小生もその一員に紛れて中に入ってしまった。完全に悪意を持った、不可抗力に名を借りた不法入場者だ。本当にゴメンナサイ。

北門出口近くに登山記帳所なる小さな小屋が有り、おばさんが暇そうに座っている。特に料金を取る訳でもなく、ただ記帳するようにと案内がしてある。余り良く意味がつかめないまま、登山することにする。自然保護の為に記帳せよとの事らしいが、記帳とどんな意味があるのだろうか?風景とかが良ければ帰りに記帳しようと早速登山に掛かる。

初っ端から急な階段が現れる。かなりきつい。やっぱり止めよう。登山口は2350mだ。
やっぱりきつい。やっぱり止めよう。どれ位あるのか、何が有るのかも解からないのだから、ただ高い所に登るというだけなら何の意味も無いのだから。

しかし、ここが悲しい習性で、ついつい意地になってしまう。最初から止めれば良いものを、一度始めるとどうしても途中で止める事が出来なくなってしまう。途中棄権するのが許せなくなってしまうのだ。

少しだけ頑張ろうと自分を励ます。あそこまでだったら行けるだろう、頑張れよと。長い登山の経験から、良い意味にも悪い意味にもそんな習性が備わったようだ。

そんなこんなで、結局標高差320mを50分かけて頂上まで登ってしまった。
さすがに山頂の眺めは素晴らしい。麗江の旧市街から新市街の全てと、数々の湖沼と、はるか彼方の山並みが一望に望める。唯一つ北方の玉龍雪山の頂上付近だけが雲の中だ。

汗が吹き出る。満足感が染み渡る。


2009年9月6日(日)

夕方に餃子を食べに1時間位外出したのみ。一日篭る。何をする訳でもなくただ篭る。ブラブラする。
全てにうるさい。YHだからだろうか?中国だから、麗江だから、やっぱりこのホステルだからだろうか?うるさい。雑音だらけだ。
ママの声が又一段とうるさい。強烈な雑音だ。元気で良いという輩も居る様だがとんでもない。気違いじみた騒音と言っておこう。
あっちこっちから雑音が飛び交う。中国人の男女の会話も、パリジェンヌも、アメリカ人もとにかくうるさい。もう少し静に、穏やかに話したり行動したり出来ないものだろうか。電話の呼出音や、会話のやり取りも喧嘩腰で、生きるか死ぬかの抗争をしているようだ。

夕方に面白い人が現れる。
「私、茨木で英語のNOVA先生ね、だけど今リストラ、日本人の生徒ベリーグッド、バット私のオヤビン、ボスね、ダメね、馬鹿ね。焼き鳥、パチンコ、ベリーグッドね。」
日本語を思い出しながら、日本の英語教育や、NOVAの管理体制、高い税金の事などを30分ほど話してくれる。若干日本の法律に反する行為も話してくれるが此処では公表できない。兎に角、聞いていて面白い。興味深々だ。
「中国でも英語の先生をと思っているがなかなか上手くいかないので旅をしている。」のが今の状況らし。

ゲストハウスのママが滅茶苦茶なブロークン、チャイニーズ、イングリシュのような言葉で外国人を捌いている。

在心裏從永遠有個你 我也 爱上你  美麗 難忘 记  亲爱的姑娘
我也願意  和你在一起  为你付出一切
(街中のレコード屋で流していた中国流行歌の歌詞の一部です。何となく意味が通じるから面白い。)

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