古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

ルアンプラバーンの観光客

2010-01-30 11:41:03 | 日記
その34 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年12月28日(火)

ルアンプラバーンは世界遺産の街だ。さすがと言うか、やはりと言うか観光客の数が半端でない。

朝の托鉢は一大観光イベントだ。朝のまだ暗い6時頃から観光客が旅行会社のバンや、ソンテク、トクトク等に乗って集まってくる。主な托鉢コースのサッカリン通りにそんな観光客が実に五百人を越えて集まる。旅行会社で用意した席に座り、カオニャや寄進するものを抱えて俄か信者になる。
そして東の空が白む頃に僧が托鉢にやってくる。その数は百人を超えるだろうか。オレンジ色の衣をまとい、ゾロゾロと歩いてくる。七八歳の小僧から結構な年齢の僧まで色々だ。地元の信者は器用にカオニャを丸めて僧の容器に入れるが、俄か仕込みの外国人観光客はカオニャの取り方とその入れ方のタイミングが解からず、僧を立ち止まらせている。
同伴の観光客がその様子を盛んに写真に撮る。

毎日、夕方から歩行者天国になるメイン通りのシーサワンウォン通りは外人観光客だらけだ。

そう言えば地元の人間は何処で如何な生活をしているのだろうか、裏通りに行っても、そんな地元の人間は見当たらない。お土産売り場の店員とレストランの従業員とゲストハウスの従業員だけが辛うじてラオス人に違いない。間違いなく観光客の方が遥かに多い。

ルアンプラバーンは顕著な歴史的文化的遺跡なので世界遺産に登録されたのではなくて、観光客のその多さ故に世界遺産に登録されたのに違いない。そんな風に思えてくる。

観光地だから物価も高いし、人間も何となく世知辛い気がする。確かに、中国と違ってあの喧騒も汚さも無いが何となく落ち着かない。観光地を観光するのも旅なのだが、ルアンプラバーンは観光客を観察するしか能が無いような観光地だ。観光客の余りの多さに辟易する。

市内の主だった寺院や名所を見学するが小さな街なので二日も有れば十分だ。
王宮博物館の敷地内に在る劇場で民族舞踊を鑑賞する。

還暦背包族の長居する所では無いようだ。


2009年12月29日(水)

10時30分に宿へやって来たエアポートリムジンタクシーは今までの旅の最高の乗り物だった。本当にこのようなタクシーでルアンプラバーン国際空港へ乗り付けても良いものか如何か暫し考えてしまうような代物だった。

旅行会社でアレンジした50万kipのリムジンタクシーは本当のボロボロのトクトクであった。しかし、アーダのコーダの言って居れない。ラオス第一の旅行会社の手配なのだから、正々堂々乗り込めば良いのだ。
そして尚更に納得した。トクトクとルアンプラバーン国際空港は最高にマッチしているのだ。
小さな小さなその空港の建物とその設備がトクトクその物なのだ。

ルアンプラバーン国際空港には国際線として、タイのチェンマイにLao AirlineがバンコックにBangkok Air が一日一便乗り入れているのだ。れっきとした国際空港なのだ。国内線は、ビエンチャンへ一日5便もある

イミグレも実にラオス的と言おうか、開放的といおうか実に素晴らしい。出国した筈なのにまた入口のカウンターまで戻ってきて外にも出れる。一寸したスナックを売っている屋台で食事も出来る。到着ロビーに在るトイレにも行ける。実に開放的と言おうか何の制約も無いようにアッケラカンとしている。

ルアンプラバーンからAirに乗って、ヒトッ飛びにタイへやって来ました。

2009年12月30日(木)

朝から宿探しだ。十二月の末だというのに結構暑い。

ホテルにチェックインするような感じで月契約のレジデンスに移る。物の数十分で全てが終わる。契約書を渡されるだけがチョッと違う。

冷蔵庫, TV、Wifi 込みを頼む。部屋代は月契約と使用した電気代、水道代となる。
ガスは無いのでIHヒーターと携帯ガスコンロを借用する。IH用の鍋はステンレスで無いと駄目みたいでこれも借用する。食器類、コップ等を購入する。

完全な沈没体制だ。


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世界遺産ルアンプラバーンへ

2010-01-24 11:30:28 | 日記
その33 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年12月23日(水)

初めての寝台バスに乗る。靴を脱いで乗るタイプだった。三列の8列プラス3の席数だ。合計で27寝台の造りだ。乗り込んだときに強烈な匂いがする。そうなんです、足の匂いが強烈なんです。ムワアッと、脳天を突く。

大理客運汽車站(南站)を出た寝台バスは暫らくは幅広の国道を走っていたが、30分もしない内にごく普通の曲がりくねった田舎の道を走る始めた。田舎道といっても、四川の山奥の様に数キロに渡って家一軒無い田舎道ではないが、二車線も無いごく普通の田舎道である。大観光地大理から南の大観光地景洪へ行く幹線道路とは思えない。
寂れた幹線国道の趣だ。

団体客が居るからだろうかほぼ満席だ。前の空いている場所に汽車站を出たところで乗り込んできた四人が座っている。何時もの客に違いない。

本当に寂びた田舎道を寝台夜行バスは走る。夜中の一時過ぎに本当に寂れた山の中の峠に着いてトイレ休憩になったが、その30分の間に一台の車も通過しなかった。そんな田舎の道を走る。真夜中なので何処をどう走って居るのか皆目見当もつかない。
運転手に休憩の度に何処を走っているのか地図を見せて説明を求めるがトンと要領を得ない。地図が読めないのだ。現在地を地図の上にトレース出来ないのだ。途中の主だった街の名前を言うが、発音が怪しいのか殆んど通じない。本当に何処に連れて行かれるのだろうかと思う。目が覚めたら、異国の知らない街で人買いに売られていたと言っても不思議は無い。

2009年12月24日(木)

中国マジック その2 (緊急)の事件が起こる。12月26日のブログ参照

その後
夕方にモンラーへ移動する。物の本には景洪からモンラーへの道は山道の凸凹で未舗装で、かなりの中国を感じられるとの事だが、今は残念ながらそういった状況ではない。高速道路が完成し、ほんの数時間で着いてしまう。余りにあっけなくて、先の旅行者には申し訳ない。景洪発13時20分、モンラー着16時20分、40元也。

モンラーの客運汽車站で翌日のルアンプラバン行きの国際バスの乗車券を求める。7時50分発 98元。実に簡単にラオスに抜けられてしまうようだ。
宿は昨夜の事も有り、初めて大酒店と名の着く汽車站近くの天奕大酒店にするが失敗だった。表通りの入口しか注意しなかったが、ホテルの裏はモンラー口岸市場だった。
チェックインした時は夕方だったので余り五月蝿くはなかったが、深夜近くなってからの方が却って五月蝿くなった。市場で若者が集まり歌い踊っている。それでも、2時頃には静かになった。しかしその2,3時間後には、本来の市場への荷物の運び込みでトラックや人々の話し声で騒々しくなった。

2009年12月25日(金)

モンラー0800 モーハン 0920-1000 国境 1000-1020 ボーデン 南塔とウドンムサイの別れ 1040-1110 カスタムチェック 1100-1140 ウドンムサイ 1405-1420 パクモン 1625 ルアンプラバン 1830頃 現地時間午後5時30分頃着、約10時間の旅だ。
何をしているのか解からない停車が多くあり、実質の走行時間は6時間も無い位かと思われる。

モンラーから乗車したルアンプラバン行きの国際バスは、前日に昆明を出発し、朝にモンラーで多少の人間を入れ替えして行く寝台バスだ。バスは既に午前7時には汽車站の所定の場所に駐車していた。縦3列の寝台大型バスの座席はは30席位か。

あっさりと国境を越えてしまった。中国の国際バスに乗ってアット思う間にボーダーを越えてしまった。中国側の立派なイミグレとラオス側のプレハブ小屋のイミグレとが余りにもかけ離れている。
何処がボーダーなのかが解からない様な感じで、気が付いたらラオスに入国していましたと言う雰囲気だった。

ラオスに入って変わった事は、急に貧しくなった事だ。住宅の壁が、竹で編んだいわゆる蔀の様な物に変わった。道路が悪くなった。人々の服装が乞食に近い。道路の両側にわずかに開けた土地にバラックが建っている。子供や鶏や豚が遊んでいる。

それでも少数民族の正月行事なのだろうか、小さな広場や一寸した場所で、民族衣装で綺麗に着飾った女性達が鞠のようなものを投げ合っている。十人位の娘たちがはしゃいでいる。
悲しいかな、路線バスはこんな時にも止まってくれない。こんな貧しい中に如何してあんなに綺麗な衣装が揃えられるのか不思議に思う。写真を撮りたいが、カメラは盗まれて無いし、バスも止まらない。バスはバスの都合だけで止まる。給油や、荷物の積み下ろしや、人の乗降や、提携している食堂とかの前にしか止らない。

夕方のまだ明るいうちにルアンプラバーンに着いた。


2009年12月26日(土)

昨夜は市内の主だった数件のGHを廻るが何処も満員だった。年末の今頃に、国際観光都市ルアンプラバーンに簡単に泊まろうとするなんて少し甘く見ては居ませんかとでも言っている様だ。仕方が無いので、バスの到着した汽車站(南站)の敷地に会った中国系のGHに泊まった。

6時頃に起きて、朝の托鉢を見ようとトクトクで行こうとするが、いちいち値段の交渉が面倒くさい。幾らだと聞くと一人30000kipだと言う。相場はもう知っているのにいつも此処からスタートする。最終的には一人5000kipで収まるのだがそれまでに十数分以上が掛る。俺はもう何度も交渉済みなのだからもういい加減にして欲しいと思う。。乗るたびにこの繰り返しだ。

朝の托鉢を見ながらGHを探す。
可愛い子がGHのデスクに座っている。即決だ。しかし空きは無いと言う。主人が出てくる。一週間ぐらい泊まりたいと言うと、やっと部屋を見せてくれた。
部屋などはもう如何でも良い。値段なども如何でも良い。あんな可愛い子がいるのなら決定だ。
宿の娘だと言う。何かの美人コンテストで準優勝したときの写真がデカデカト飾ってある。両親の小さい写真と息子の写真がその下に在る。主人の自慢の娘の晴れ姿だ。
今年二十歳でビエンチャンの大学でフランス語を学んでいると言う。正月休みで二日ばかり前に帰ってきて手伝っているようだ。
街の北外れのそんなGHに替える。
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再び大理古城そして青空

2010-01-13 06:04:21 | 日記
その32 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年12月16日(水)

快晴の青空に桜が咲いていました。

今日も抜けるような青空だ。まぶしすぎて目を開けていられない。冬の太陽なのにその輝きは眩しすぎる。真っ青な空に蒼山が一段と映える。
久しぶりの大理を散歩する。複興路と人民路の交差点からを洱海 门まで行き左折して南に行き、又左折して广武路を歩く。

新しい宿を探す。インターネットで探した一寸したGHを見つける。部屋を見せてもらうが二階の南向きで大変綺麗だ。ツインの広い部屋が何とたったの25元だ。暫らく居ようかと思う。南側には広い廊下があり日当たりは最高だ。廊下での日向ぼっこはこれまた最高だ。
これで食事が付いて居れば言う事なしだ。皆と同じ普通の食事がしたい。ごくごく普通の食事がしたいんだが如何したら良いだろうか。


2009年12月22日(火)

出かける準備をしなければならない。荷物は軽くは為らない。出来るだけ減らす様にするが、何時もと同じになってしまう。どこかで徹底的に減量する必要がある。一人で簡単に移動する事の出来る軽量バックパッカーにならないといけない。もう歳なんだからせめて荷物ぐらいは軽くしないと歩けない。

ここ雲南の大理の四方街超市スーパーマーケットでも、クリスマス商戦が始まった様だ。四方街超市のユニホームはそれでなくとも白族の白と紅のコンストラストも派手な衣装で、まるでサンタクロースその物の様だ。それにあのサンタの帽子を被って如何見ても白族サンタの出来上がりだ。

店内にもジングルベルの歌が流れる。
「ジングルベル、ジングルベル鈴が鳴る。今日は楽しい橇遊び。雪をけり、、、」

何、何、、なんとなんと日本語で歌っている。ジングルベルの歌が日本語で流れている。カタカナ英語なのは解かったが、その後も日本語の歌なのだ。
間違いなく此処は中国雲南省大理市大理古城複興路に在る四方街超市なのだが、この忙しいクリスマス商戦の真っ只中に日本語のクリスマスソングのジングルベルが流れている。
如何の様に理解していいのか解からない。
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再び大理古城そして桜

2010-01-12 12:15:42 | 日記
その31 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年12月12日(土)

昆明の駅前の大理客運南站から大理行きのバスが出ている筈だ。しかし、駅前では、大理へのバスやタクシーの呼び込みが激しい。彼らは一様に大理行き没有だと言う。それらを無視して汽車站の窓口に並び切符を購入しようとするがやはり没有と言われる。それ見た事かという感じでまた呼び込む。

まだ15時を少し過ぎただけなのに没有はオカシイ。八月の時はこの汽車站からバスに乗ったはずなのに、没有とはオカシイ。しかし、没有ではどうしようもない。
客引きの150元の声に着いて行く。駅前から少し離れた中北汽車站の近くでミニバスが待っていた。値段を確認すると140元との事。少し高い気がするし、オンボロの9人乗りのミニバスだ。やっぱりまずい。

再度駅前の汽車站へ戻り、明日の切符を購入しようと窓口に並ぶが、やはり没有の答え。

おかしい。隣の案内へ行き聞いてみると、オネーチャンは窓口の張り紙を指差す仕草をする。そこには、発車汽車站の変更通知が書いてある。大理行きは西部汽車站に変更になったようだ。

再度オネーチャンに行き方を聞くと、駅前より80路と紙に書いてくれる。
没有ではなく発車汽車站の変更だと言って呉れれば、もう少し早く事が運んだのにと思うが言葉の解からない身の辛さだ。

また駅前に戻り市内バスの80路へ乗る。1元だ。最近、新しく出来た西部汽車站はやはり、街の西の方にあった。
何だかんだで、此処まで1時間30分も掛かってしまった。時間は16時10分だ。しかし、直ぐの高速バスの切符が買えた。16時20分発だ。134元だ。
所要時間は4時間と出ている。あれ、こんなに早く着くんだったっけ。たった四ヶ月前の事なのにあやふやな記憶の背包族なのです。

しかしどっこい、問屋は簡単には卸してくれません。
案の定、あと30分位で大理に着くと思われる高速道路上で、同じ会社のバスが停車しているではないですか。運転手と車掌が降りて行って話し込んでいたが、暫らくすると、そのバスの乗客が荷物を持って全員乗り込んできた。一気に超満員の状態になってしまった。小さな子供がぐずっている。赤ん坊が泣いている。
先程までは静かな、ほど良い混雑の車内だったのが、一気にラッシュアワーの様相を呈してきた。あちこちで席の取り合いをしている。
そして30分後に何事も無かったかのようにバスはまた走り出した。

結局30分遅れで大理の興盛路汽車站に着いた。前回は汽車站が街のどの場所か解からずに苦労したけれども、二度目の今回は何の迷いも無く大理古城行きの8路の停留所に向かう。21時近い。バスは結構来るが肝心の8路のバスは来ない。

同じ停留所でバスを待っていた若いカップルに片言の英語と中国語で聞くと、オネーチャンが解かりやすい英語で教えてくれた。大理古城行きの8路のバスの最終は20時30分ですと。残念、大理古城までのタクシー代を払うなら大理(下関)に泊まろうか。

再度、オネーチャンに明日の朝に如何しても古城に居なければならないんだと言うと、ミニバスが有ると言う。場所はと聞くと、相棒の彼と何やら話し込んでいる。そして案内して呉れると言う。フォローミーと言う。彼女だけが歩き始める。そうなんです。彼氏とは別れて私を案内して呉れると言うんです。もう感謝感激雨霰です。

バス乗り場まで連れて行ってくれて、尚且つ運転手に日本人で言葉が解からないけれど大理古城まで乗せて行ってと言っているのです。多分100%そう言っているのです。間違いありません。料金も3元と教えてくれました。可愛い彼女には何度もお礼を言いました。中国語と英語と日本語で有難うと何度も言いました。感謝感激雨霰です。
おかげで、夜の10時を少し過ぎた時間に大理古城に着くことが出来ました。

2009年12月13日(日)

快晴の青空に桜が咲いていました。
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