なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

再提出

2006-05-15 23:29:17 | Weblog
1年ほど前に書いた子ども向けの中編小説を、書き直す必要が出てきた。期限は2週間。原稿用紙にして約90枚分。冒頭これを書いたのは、「実はちょっと忙しくなっちゃって……」「仕事寄こすの、調整してくれると嬉しいな……」という、言い訳含みのめめしいメッセージでもある。

さて、「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」の本格スタートとなった内山節氏の講演会が無事終了した。とはいえ、事後の処理やまとめ作業も片づかないうちに、次への準備と調整を同時進行で進めて行かなくてはならない。なかなか、頭の中はこんがらがった状態だ。
それに加え、先週末、S木くんと私には宿題が出ていた。
商品パッケージのデザインを考えてくる宿題である。
「ぼく、昔から火の用心のポスターとか書くの、ものすごく苦手だったんです」
「私もだよ。図工なんて、ずっと3だったもん」
山岳ガイドと文学少女のなれの果て。ビジュアルに関して素人ともいえる二人が書いてきた宿題を、S藤さんはどう見たか。

八つの案のうち、半分は「はっきり言って、デザインじゃない」と言われた。
「かろうじて、二つはデザインらしき、苦労のあとが忍ばれるけど、それだって、今までのパンフレットの範疇を越えていない」
途方に暮れる、というのはまさにこういう状態である。
「質のいいパンフレットを見たり、雑誌を見たり、K住さんはもっとビジュアルを鍛えなきゃだめだよ。活字ばかり読んでいてもだめ」
まったくもってその通りである。テレビも見ず、映画もほとんど見ず、雑誌も読まない私は、日々、新聞と本と資料のみで生きているといってもいい。読みたい本が次から次へとあるというのに、大して読みたくもない雑誌を読む時間も、その必要もないと今までは思ってきた。
でも、今は違う。……わかっちゃいるれど、ビジュアル系に弱いという意識がどうしても先に立ってしまう。
「絵から入るのがだめなら、言葉から入ればいいじゃん」
「言葉から……?」
「この商品に対して、あなたは何人もの人に会って、その場所にも行って、あなたなりにこの商品に対する思いや、関わっている人たちから学んだことがあるでしょう。そういうものを一度自分なりに咀嚼して、文章なり言葉なりコピーにして、それをビジュアルとして表現することを考えればいいんだよ。今のままじゃあ、今あるものをただ組み合わせただけでしょう」
「一度、自分の中で咀嚼する……」

これは小説を書くときも、まったく同じことがいえる。今ある原稿をそのまま書き直してもいいものは生まれない。一度、すべてを白紙に戻し、その上で自分の中に何が残っているか、何を書きたいのか、何を表現したいと思っているのか、ゼロから書き出してこそ、はじめて純度の高い、いいものが生まれる。
絵を文章に置き換えると、少し、わかるような気がした。

さて、宿題は再提出となった。
一度すべてのものを白紙に戻すのは、苦しく、恐い作業だ。咀嚼して何が出てくるか、まったく見えないから。120のものが生まれる可能性もあるけれど、ゼロかもしれない。
「何もかも初めてで、覚えること、勉強することばかりで楽しいです」
S木くんの言う「楽しい」は、「苦しい」と同意語でもある。
まさに「難行道」を行く。


絶妙なタイミングは必然なのかも

2006-05-13 22:01:49 | スローライフ

買い物に行った先で、掛川市立病院の出張健康診断コーナーがあるなあと思って見ていると、「K住さん」と声を掛けられた。「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」の受講生であるT川さんだった。
「いやあ、おとといの内山さんの話は面白かったねえ」
「あの後の交流会でのお話も素晴らしかったですよ」
「おっ、それじゃあ、またブログでそれが読めるわけだね」
「ううっ……」
「楽しみにしてるからね~」
「は、は、はい……」
T川さんは、私にとってなかなか絶妙な人である。今日はブログを休もうかなと思っているときや、書くのが苦しいなと思っているとき、なぜか絶妙なタイミングで現れて「ブログ楽しみにしているよ」と言って下さるのである。

なので、今日も頑張って書くことにします~~。

ということで、一昨日の内山節さんの講演会のあとの交流会。講演に来てくれた半分くらいの方が参加して下さり、会場の「milele」の2階はいっぱいだった。
内山さんの周りには人が集まり、それぞれに感じたことを直接お話している。内山さんはみんなの話をちゃんと聞いてくれ、それに対しての答えを、一つ一つちゃんと返してくれる。ますますファンになってしまう。御前崎市観光協会おいしいお茶やさんのN山さんとともに、私も話に加わった。内山さんの「これからの観光は人」という言葉が印象的だった。

さらに、交流会の最後に内山さんが語った言葉。

「村に住んで感じるのは、今、村の行事など、その地域にしかないものが子どもたちに伝えきれなくなっていること。『どの地域にいても、平等な教育を』という学校教育は、もしかしたら間違っていたのではないだろうか。その地域にしかない文化、その地域にしかない技術は、ローカルな場所でしか成り立たないから、過小評価されてきたが、それこそが『普遍』なのではないだろうか。グローバルを普遍とし、近代的な学問が浸透した結果、村は過疎化し、作法は忘れられ、循環型の社会は壊れた。
教育とは、学校とは何なのか、私たちはもう一度、考える必要があるのではないか。大学など、そのうちいらなくなるのではないかと私は思う。それよりも、地域をどう作っていくかの学校が大切なのではないだろうか」

「今、社会の矛盾が様々な形で現れてきている。そして、人々はそれに気づきはじめ、変えようとしている。人々が社会を変えようとしていくときというのは、実は、人間が今までのような生き方に飽きてきているということだ。人間の心理の方が、社会を変えたいと思いはじめている。そろそろ、面白い時代になってきた」

この文章を書きながら、このメッセージを直接聞くことのできた幸せをかみしめている。振り返り、まとめてよかった。絶妙なタイミングでT川さんが現れたのは、きっと必然なのだろう。

さて、次回のベーシックプログラム(フォーラム)の講師は、北海道開発局企画官・掛川市前助役の小松正明氏です。交流会も予定しています。
こんなに楽しい「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」、受講者はまだまだ募集中です!

「おのずから」と「みずから」

2006-05-12 23:06:42 | スローライフ

昨日行われた内山節氏の講演会「足るを知る心が生活を変える」をどうまとめるか、K住さんのブログが楽しみだね~、と何人もの方から言われているので、気合いを入れて書かねばなりません!

さて、内山さんの話は、明治以後、翻訳体系の影響で日本語の意味合いが変わってしまった言葉があるという話から始まった。例えば、「ネイチャー」を訳すために「自然(しぜん)」を当てたが、本来、日本には「じねん」はあっても「しぜん」はなかった。なぜ「しぜん」がなかったかといえば、そもそも日本人には、自然と人間を分ける発想がなかったからというのである。人間も自然の一部ということ思想である。

では、「じねん」とは何か。字のごとく、「自(おの)ずから、然(しか)り」。自然であろうと人間であろうと、「おのずから、そうあるべき」を指す形容詞だったのである。

ここで面白いのは、「自(おの)ずから」と「自(みずか)ら」の違いである。
今、この二つの言葉は正反対の意味として捉えられているが、もともとは同じ意味合いの、つながりのある言葉だった。
「自(おの)ずからの生き方を見つけたとき、私はこうする、それが自(みずか)らの生き方なのである」
この言葉には目から鱗だった。
「村にいると、自(おの)ずからの生き方がわかりやすい。朝起きて、外に出て、天気を見て、今日はこれをしなければならないなとわかるのです。それが『おのずから』であり、『みずから』やることなのです。だから、『おのずから』に逆らって、『みずから』やろうとしても、それはやっぱりうまくいかない。季節がその時期を迎えていないのに種を蒔いても、実がならないように」
内山さんは、このように語った。

では、現代社会において、村という暮らし、農という営みから離れた私たちは、どうやって「おのずから」を感じ取ればいいのだろうか。
自然から離れ、自然の作法から離れ、「おのずから」を無視して拡大し続けた社会の中で、どうすればいいのだろうか。
内山さんは、このようにおっしゃった。
その地域に暮らす者として、同じ価値観を持つ仲間が集まれば、その中で「おのずから」がしぜんと見えてくる。その中で、それぞれが「みずから」行動する。
地域とともに、その地域の歴史や文化とともに行動していくことこそ、大事なのであると。
そしてそれが「作法」をわきまえた、「足るを知る」生き方につながるのだと。

講演を聞いているときには「なるほど、なるほど」と唸りながら聞いていたのだが、こうしてまとめると、自分がぜんぜんわかっていないことがよくわかる。
買った本を、もう一度、じっくり読んでみよう。

一つだけ、「おのずから、みずから」の生き方を実践しているなあと感じたYちゃりのY崎さんのお話。Y崎さんは、内山さんの話を聞いてすぐ、内山さんの住む上野村に自転車で行こうと決めた。そして、内山さんに話し、すでに「どうぞ」の返事をいただいているという。
「だって、それが、おのずからの、みずからだからさ」
Y崎さんは、とても体育会系の強者には見えない、いつものほわほわとした笑顔で言った。

上野村自転車ツアーは、きっと同じ価値観を持つ仲間たちと連れだって行くことになるのだろう。もしかしたら、塩の道300㎞を走った「ロード・オブ・ザ・ソルト」のように、大がかりな仕立てになるかもしれない。そうして、地域と地域、人と人が、確実に繋がっていく。たしかにY崎さんのやろうとしていることは「おのずから」なのだと思った。

さて、今の私の「おのずから」は何なのだろう。

準備しておくと案外聞かれない「どう思う?」

2006-05-10 00:45:11 | スローライフ
内山節さんの書籍について、昨日のブログであれだけ「面白い!」と書いておいたので、今日は絶対「どこがそんなに面白かったの?」と聞かれると思い、朝のうちに復習しておいたのだが、そういうときは意外と聞かれないものである。

さて、朝からK造さんがやってきて、内山さんを紹介する文章が難しいという指摘をしてくれたので、自分の頭の中を整理する意味からも、私なりにまとめてみようと思う。

『「創造的である」ということ(上)~農の営みから』で内山さんが書いているのは、農の営みをとおして現代世界をとらえなおす思想である。

農民とは、田畑を耕して作物を作る人だと思われているが、同時に地域の山を活用した「山の民」でもあり、ときには農作物や自然の生産物を加工する「家内職人」であった。つまり、その地域の自然体系を上手に利用する技を持った「多職の民」だったということである。
なぜ「多職の民」であったか。
私が思うに、代々その土地に暮らすことで、その地域の自然体系と対立しない、あるいは共存できる、あるいは自然からのいただき物を最大限に活用できる「自然への作法」を知っていたからではないだろうか。その「作法」を守り、わきまえることで、来年も、そのまた次の年も、ずっとずっと自然との共存が持続していく(循環していく)ことを知っていたのだ。
そこには「分をわきまえる」「足る知る」思想が確実に存在する。

内山さんはこう語る。
「自然の力を承認し、自然の循環にさしさわりが生じないように配慮し、自然の循環と人間の循環が共存しうるような村落社会を作り上げることが、長い間大事なこととされてきたのです。」

その循環のサイクルを壊したのが、農業の近代化であり、村落社会からの人々の離脱であり、ローカルは格下とみる思想、変わること(発展・拡大すること)に価値があるとしてきた近代社会の仕組みであった。

「ところで今日とは、拡大系の社会がもたらした問題点が明らかになってきた時代だということができます。生産力の拡大をめざし、場所ごとに異なる自然の制約から自由になろうとした結果、自然環境はあっという間に悪化してしまいました。(中略)どうやら私たちは、循環的な社会にもう一度戻らざるをえなくなってきたのです」

その地域地域にある「作法」は、その地域だけのものであるから、普遍的なものでないとされ、だから人々は「普遍的」なものを求めて地域を出た。
では、どこにでも通じる思想こそが本当に「普遍的」なのであろうか、ローカルにこそ「普遍」があるのではないだろうか、という内山さんの言葉が印象的だった。

下巻の『「創造的である」ということ(下)~地域の作法から』が楽しみである。(今現在、0:35。明日、というか今日の講演会までに、ちょっと読めそうもないなあ……)

最後に、『「里」という思想』(内山節著・新潮社2005年刊)の中から引用させていただきます。

「思想の表現形式は、文章というかたちをとるとは限らず、その中には、かたちにならないものもある。
たとえば私の村に暮らす人々の中に、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の九六パーセントを森や川がしめるこの村で、自然に対する思想をもたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、〈自然について〉などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。
そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけでなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想を持っているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。
とすると、村人たちは、どんな方法で自分達の思想を表現しているのであろうか。私は、それは、〈作法〉をとおしてではないかという気がする」

本当はここまでが基礎の部分で、では、これから私たちはどう考えるべきか、どう生きるべきかという示唆に富んだお話があるのだが、とてもまとめられない~。
とりあえず、明日(いえ、今日)の講演会が楽しみである。

「どう思う?」を乗り越えて

2006-05-09 20:05:36 | ビジネスシーン

哲学者 内山節さんの講演会があさってに迫ってきた。当日販売する書籍が出版元から届き、さっそく第一番に購入する。
「今日はじっくり本を読もうっと。……ブログはお休みしようかな」
なにげなくつぶやいたつもりだったのに、S藤さんがしっかり聞いていた。
「あなたは表現者でしょ。内山さんの本を読むのも大事だけど、日々を表現することも大事!」
「うひゃーっ」

ということで、今日もたくさんの人がなだれ込んできた。朝一番に見えたS木建設のS木さんが、「今日は静かですね」と言ったのがまるで別の日みたいな入れ代わり立ち代わり(あるいは、バッティング)状態。

印象的だったのは、昨日、カレッジ案内文書の発送作業を手伝ってくれたサイクリストO澤くんとS藤さんの会話である。O澤くんは「とはなにか学舎」のS藤ゼミ生であり、話は仕事観からはじまって生き方論にまで及んだ。
「いやあ、こういう話ができるのは嬉しいですよ。これからも、いろいろ勉強させて下さい」
とO澤くんが言えば、
「いや、勉強じゃないんだよな」
とS藤さんは腕を組む。
「例えば、浜野さんの話を聞いたり、内山さんの話を聞くのは、勉強って感じじゃないんだよね……。K住さん、どう思う?」
ほら来た。この「どう思う?」が、実にくせ者なのである。

S木くんとも話しているのだが、S藤さんの「どう思う?」は、まるでその答えから、私たちの成長度合いや、どこまでわかっているかを推し量っている、あるいは試しているんじゃないかと思えるような感じがするのだ。もしかしたら、口べたな私たちに、質問に対してすぐ自分の意見が言えるよう訓練してくれているのかもしれない。

このときも、
「勉強というより、浜野さんとお話したときは、ただただ楽しかったです」
と答えると、S藤さんはきっぱり言った。
「楽しい、っていうのとも違うな。浜野さんや内山さんの話を聞くと、自分にこんな引き出しがあったんだと発見できる」
「気づきですね」
S藤ゼミで訓練されたO澤くんが即座に答える。
「そうだな。そういう引き出しが自分にあったのだと気づかされて、しかも、その引き出しの深さや奥行きのなさにさらに気づかされる」

家に帰ってじっくり考えた。
浜野さんや内山さんの話を聞くことは、あるいはその著作を読むことは、たしかに勉強という感じではない。
S藤さんの言う「そういう引き出しがあったことに気づかされる」のと同時に、その引き出しから出して、その話題について話をしたかった自分の存在に気づく、という感じでもある。
「そう。そのことについて、私は話がしたかったの」
「もやもやしていたのは、そういうことだったの」
と明確に、目の前に引き出してくれる感じなのである。

言葉を変えて言うなら、
当たり前すぎて見失っていたこと、
大きすぎて見えなかったこと、
漠然としすぎてつかめなかったこと、
それらを軽々と意識の上にのぼらせてくれ、
「さあ、あなたが話したかったのはこのことでしょ」
「議論し、考え、深めていきなさい」
と引っ張り上げてくれるようなイメージである。
今後、このカレッジを通じて自分からどんな引き出しが出てくるのか、楽しみである。

さあ、苦手な「どう思う?」の答えを自分なりに表現できたので、今から、じっくり本を読もう!

【2時間後の追伸】
『「創造的である」ということ(上)農の営みから』(内山節著・農文協2006年刊)の半分を読み進めた現段階で、面白すぎる~~! 付箋が冒頭画像のようにいっぱいです。『「創造的である」ということ(下)地域の作法から』もタイトルを見ただけでメロメロしそう。
取り急ぎ、ご報告まで。

代表、貼って分けてとめて入れて数えて走る!

2006-05-08 23:48:06 | スローライフ
昨日のブログでも書いたように、5/11(木)のフォーラムから「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」が本格的にスタートする。
今日一日、受講者への案内文書の発送作業に追われた。

きっと大忙しの一日になるだろうなと予想していたので、事前にできることはすべて準備万端整えた……つもりだったのに、やっぱりバタバタになってしまった。
宛名ラベルは、Y下事務局長が作成し、
カレッジ受講者証は、Y崎理事がGW中に内職し、
代表挨拶と校長挨拶は、お二人が忙しい合間を縫って書いてくれ、
案内文書は、S藤理事がまとめてくれた。

上記の中で、一番心配なのはS藤理事だった。
「S藤さんが『案内文書はオレがやる!』と言ったのを、私は忘れてませんよ。男に二言はないものと信じていますからねっ」
前の日、メールでプレッシャーを与えておいたのが効いたのか、期日厳守で文書を作成してきてくれた。

……なのに。
完成しているはずの文書にさらに磨きかけようとするS藤さん。その合間合間にお客さんが次から次へとなだれ込んでくれるものだから、発送作業は少しも進まない……。

でも、そのおかげでいい文章になりました!
しかも、なだれ込んでくれたお客様は、みんなカレッジの受講者に!
皆さん、ありがとうございました。

それにしても、「そこまでするか」というところまでしなければ、「面白いことが始まるよ!」という熱意や誠意が伝わらないということなのだ。「このくらいなら」で見切りをつけないことが品質管理であり、S藤さんらしさなのだろう。その間、スタッフがどんなにヤキモキしようとも。

ということで、今日もI村代表は大活躍であった。
ホッチキス止め作業もあったのだが、それだけは代表にやらせないよう、私が代表の目を盗み、こっそり自分の机のところでやった。
ホッチキス止めだけではない、I村代表の、今日の幅広いお仕事の数々をご紹介します!

・申込書を受付番号順に並べる。
・封筒に宛名ラベルとNPOのシールを貼る。
・中に入れる文書を一人分ずつ分ける。
・文書と会員証をクリップでとめる。
・それを封筒の中に入れる。
・封筒を糊で貼る。
・私が間違えて糊で貼った封筒をはがす。
・発送する数を数える。
・近いところは、送料がもったいないからと走って持って行く。
 (その数、5~6軒)
・宅配便を出しに行く。(それも近場と遠くと2ヶ所も!)

しかもその間のお客様との対応は、封筒詰めをしながらであった。
「いやあ、すみませんねえ。今日送らないと、間に合わないもんで」

受講料を払いに来てなぜか発送作業を手伝うはめになったサイクリストO澤くんも含め、ほんとお疲れ様でした。
カレッジ受講者の皆さま、その資料がもうじき届きますよ。
お楽しみに!


哲学とは

2006-05-07 17:42:57 | スローライフ
5月11日(木)、「足るを知る心が生活を変える」と題して哲学者 内山節(うちやま たかし)氏の講演会が行われる。「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のベーシックプログラム、講義型フォーラムの第2回である。

哲学、と聞いただけで「そんな難しいこと……」と手を顔の前で左右に振り、一歩も二歩も引いたあなた!
「哲学」という言葉に惑わされてはいけません。
昨年、スローライフ月間の説明会前のほんの一時間ほどであったが、お話を聞く機会があった。内山さんは、私の心に響く様々な言葉を発して下さった。
大学で哲学を専攻し、大学院を経て、大学教授から哲学者と呼ばれるようになったのではない、まさに現場主義の内山さんの言葉には、「生きること」を「自然の中で考え、実践すること」から何かを探し求めているような、机上の論理だけではない、ヤワでない、ウソッパチでない……、うまく表現できないのだが、本当の内山さんの言葉、思いが感じられたのだ。

内山さんのプロフィールを簡単に紹介すると、「行為者でなければ分からないものがある」と、群馬県上野村の山村と東京の両方に住まいを構え、立教大大学院教授の傍ら、畑づくりや森づくりをしている実践的哲学者である。

北日本新聞のインタビューの中で、内山さんはこのように発言している。
「もともと人間は、全員が同じ場所で一年中暮らしていたわけではなく、いろいろな生活形態があって良かった。企業社会化が進み、定住しないと悲惨であるような風潮になったが、一つだけの仕事から一歩も出ない生活はもしかすると異常かもしれない。都会に出て本当に生活が良くなったのか? 村の暮らし、里の暮らし、山の暮らしの技を失ったとも言える。その気持ちを持ちながら、できることからやるしかない」

村の暮らしを内山さんは、「技のある暮らし」と表現しているが、それは自然と共存する暮らしの中から生まれた「作法」にかなったものだ。
『ローカルな思想を創る』(農文協刊)の中の次の文章が私はたまらなく好きだ。少し長くなるけれど引用します。

自然はすべて同じようにつくられているわけではない。自然条件によっても、歴史的経過によっても、自然は異なった姿をみせる。そればかりか、豪雪地帯も乾燥地帯もあるように、あるいは氾濫を起こしやすい河川も、比較的安定した河川もあるように、人間の側からみれば自然は不平等にもつくられている。そのようなさまざまな自然と人間が関係をもち、ときに協力し合い、ときに矛盾を発生させながら存在しているのが、自然であり、人間である。とすれば自然と人間の関係というときの単位は、そのひろさにはいろいろあっても、地域でなければならず、それぞれの地域における自然と人間の関係をうまく調整していくことが不可決の課題になる。

結論だけを述べるなら、このような視点をもつとき私たちには、その地域のなかに蓄積されてきた自然と人間の関係を支えてきた「作法」とでもいうべきものを、視野におさめる必要性が生じるのである。それはときに自然に対する伝統的な人間の接し方であり、その地域の自然と人間の矛盾の克服の仕方であり、それを実現していく技術や技能であり、その地域の自然と対立しない生業の在り方である。そのような仕事や体系のなかに、ローカルであるがゆえに深い思想が表現されているのではなかったか。そして、もしそうだとするなら、思想に対するとらえ方自体も、私たちは変えていかなければならなくなる。

理論で勝負するのではなく、人間の生き方の「作法」で勝負する。そこに思想という言葉を伴って展開されていく。

この内山節さんが見えるのである!
講演のタイトルは「足るを知る心が生き方を変える」
この「なだれ込み研究所の一日」をご覧の方だけに、当日配布するレジメの一部をこっそりとご紹介します。

○「しぜん」と「じねん」
  ―自然とはなにか、あるいは「おのずから」ということについて
○「おのずから」と「みずから」
  ―「自から」のふたつの意味とその相互性

これを読んだだけで、わくわくしてくるではないか。今週、私の頭の中は「内山語録」でいっぱいかもしれません。
「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のベーシックプログラム、まだまだ受講者募集中です!


作為だらけにも関わらず

2006-05-05 23:41:37 | 読書日記
浅田次郎の『王妃の館(上・下)』(集英社文庫・2004年刊)を読んだ。久しぶりに笑って泣いて、大団円の人情物語。
作為を感じさせない無作為どころか、作為だらけなのにも関わらず、オトシどころでついついうるうる来てしまうのはさすが。
うまい、というだけでない何かがあるはずだ。小説を通じて感じられる浅田次郎の生きる姿勢や物事の捉え方に、共感できる部分が多いからだろうか。

以前読んだ『浅田次郎 絶対幸福主義』(徳間書店・2000年刊)の中で、浅田次郎は「幸福の定義」をこう書いている。今読み返すと、「足るを知る」という言葉が出てくることに驚く。

幸福に関するキーワードは「知力」、すなわち「足るを知る」ことである。まず自分の能力、今の自分が持っているものを知る。そして、その自分にできることを考え、ひとつひとつ実現させていく。それによって「まあ、ありがてえ。満足」という気持ちになれたら、幸せなのではないだろうか。
「あれが足りない。これが足りない」とばかり言っている人は、いつまでたっても幸せになれない。

『王妃の館』の中で、心に止まった言葉を覚え書きとして書いておく。

言うことはいちいちごもっともなのである。しかしこの「ごもっとも」のおかげで、ツアー一行のメシがどれだけまずくなっているかに、彼らは気づいていない。
岩波夫妻が何かにつけてケチをつけるたびに、人々は「うるせえぞ、バカヤロー!」と言いたいのだが、ごもっともにはちがいないのだから言えない。要するに、正論が必ずしも世界平和に寄与しないことを、あるいは世界平和を実現するためには「適当」が不可欠な要素であることを、二人は知らないのであった。

「いえ、あなたは苦労知らずのわがまま娘よ。少なくとも私は、大金を払ったからそれだけのことをしてもらおうなんて思ったことはない」

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 スペシャル・ツアーへようこそ」

安心して読めるエンターテイメント。
オススメです。

妖しく美しい日本語の響き

2006-05-02 22:01:48 | ビジネスシーン
印刷物の最終校正が3つも重なり、てんやわんやのなだれ込み研究所。そんなときに限ってS藤さんは出張へ。携帯メールで連絡を取り合って、疑問点などを確認する。クライアントさん、デザイナー、印刷会社の協力体制で、いいものに仕上がりそうだ。
みなさん、ありがとうございました。

さて、私が出かけているあいだに、K造さん(近々、改名する予定)と建築家のO澤さんがやって来て、建築論をぶちかましていたらしい。
「いやあ、深かったです」
S木くんが感慨深げに言った。
「思わず、聞き耳を立ててしまいました」
「いいなあ、私も聞きたかったなあ」
O澤さんは2004年に行われた「木の建築フォラム」で、パネラーとして掛川の路地の魅力を語った。私も区画整理前の路地の風景を覚えているので、O澤さんの「路地論」をつねづね聞きたいと思っていた。

O澤さんと言えば、K造さんが教えてくれたこの話を思い出す。
一昔前、掛川の路地を入ったところには、「待合」と呼ばれるそういうところがあったらしい(うう~、うまく書けない)。ほとんど顔見知りの人しか通らないその界隈の路に、あるとき、知らない男の人と女の人が歩いていた。子ども心に不思議に思ったO澤少年は、お母さんに聞いたという。
「あの人たちは誰なの」
お母さんはこう答えた。
「あれは、世間の人たちだよ」

なんと素晴らしい表現ではないか。その時の光景がモノクロの場面となって、鮮やかに浮かび上がってくる。
世間の人、と子どもに言って聞かせたお母さんの言葉には、決してさげすむような感じはなく、嘘もなく、そこで生活する者の、ありのままを表現した素直な言葉として伝わってくる。
この話を聞いてから、ときどき考えた。
「では、世間とは何なのだろう」
「世間の人たちではない、自分たちは、いったい何者なのだろう」と。
今度、O澤さんと会ったら、そのことを聞いてみたいと思っていたのだが、次回のお楽しみとなった。

それにしても「待合」にしても「遊郭」にしても「色街」にしても、日本語にはなんと妖しく美しい響きの言葉があるのだろう。


絶妙な間合い

2006-05-01 21:30:26 | ビジネスシーン
K造さんが来て、S藤さんとともに「ものが見えること」について議論する。
話は大いに盛り上がり、それぞれの意見を交わしていたのだが、なぜか一瞬、空白のようなタイミングで間があき、その瞬間、S藤さんも私もなぜか同じように自分のパソコンに向かってしまった。
絶妙なタイミングでK造さんがたった一人、取り残された。

「おおーいっ、オレ一人になっちゃったよぉー」
これまた絶妙なタイミングで言うものだから、話に加わっていなかったS木くんも含めて大爆笑となった。
「急に一人で置いてけぼりにされちゃったから、どっか、別の空間に飛んじゃったかと思ったよ」
間合いも絶妙、発言も絶妙、情けなそうな言い方までも絶妙だった。
クックと肩を震わせて笑っているS木くんに、K造さんが言う。
「おい、こら、S木。人のこと、笑いやがって」
「す、す、すみません」
S木くんが大まじめに言うのがさらにおかしく、なだれ込み研究所は爆笑のうずに包まれたのだった――。

さて、K造さんがよく言うのは、「間を読む」ことの大切さである。今日のこの「大爆笑事件」も、絶妙な間合いがポイントだった。

日本語には、「間を取る」「間がもてない」「間が伸びる」「間が抜ける」などの言葉があるように、「間」は日本文化と切っても切り離せないものがある。武道でも、鍛錬によって「間合いをとる」ことが養われていくように。

私のイメージとして「間」とは、「その場の雰囲気」「空気感」といった感じなのだが、この「間を読む」感覚は、天性のものだとK造さんは語る。
「どうしようもなく間の悪いやつっているだろう。それは本人のせいじゃないし、努力でどうにかなるものでもないし、まあ、しょうがないんだけど、間が悪いんだよなあ」
わからないようで、妙に納得してしまう論理である。

私など、どちらかと言えば間の悪い人間なので、なるたけ絶妙な間合いを要求されるような場面では、黙ってしまうことが多い。
この「間合い」はたしかに努力でどうにかできるものではないけれど、間を読むように心がけ、その場の雰囲気を壊さないよう努力することはできるような気がする。それがサービス精神であり、エンターテイメント性なのだと思う。

以前、S藤さんがこんなことを言った。
「うちの事務所は会社の事務所だけど、お店だと思って」
なだれ込み研究所になだれ込んで来る人たちは、みんなお客様なのである。だから、みんなで気持ちよく迎えたいし、なだれ込んでくる人たちも含め、なだれ込み研究所自体がエンターテイメント空間になるようにしていくことが大切なのである。……とかなんとか考えるまでもなく、来る人がみんな面白いものだから、あれこれ考える間もなく、自然に楽しくなってしまうのだが。
私のような頭デッカチの人間には、もってこいの修行の場である。
なんの修行かといえば、楽しいことを楽しめるようにするための、あるいは苦しいことを楽しめるようにするための修行である。これらは、相反するようで、どちらも同じことなのだと最近わかってきた。

努力しても「絶妙な間合い」は培われないかもしれないけれど、慣らされることで修得できるかもしれないと、最近、秘かに思っている。