6月28日(土)
当日の行程:(車) → 【石清水八幡宮】 → 【淀城跡】 → 【與杼神社】 → 【天王山】…(宝積寺)…(自玉手祭来酒解神社)…(大山崎町歴史資料館) → 【勝竜寺城公園】 → 【長岡天満宮】 → 【光明寺】 → 【大原野神社】 → 【勝持寺】 → 【願徳寺】 → 【善峯寺】 → 【長岡宮跡】 → 【桜井駅跡(楠木正成伝説地)】
【淀城跡】
淀城跡公園入口
淀城跡は、京阪電鉄淀駅の西、淀城跡公園の中にある。
近くには、京都競馬場がある。
淀城跡を訪れた6月28日は、競馬があったようで、どの通りにも警官や警備員が出ていた。
本丸石垣と堀
お堀はごみが浮かんでいて、きれいではなかった。
公園の中も、暗い感じで、整備されているような印象は受けない。
淀城跡の石碑
淀城跡の石碑は、本丸跡に建っている。
石碑の「淀城址」の文字は、子爵・稲葉正凱の手による。
田邊治之助君記念碑
田邊治之助君記念碑は、本丸跡に建っている。
淀城の大手門守備隊長・田邊治之助は、鳥羽伏見の戦いで淀城の追手門を守り自刀している。
淀城の由来
天守台の前には、「淀城の由来」の案内板がある。
案内板には、次のように書かれている。
「徳川二代将軍秀忠は、元和(げんな)五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(一六二三)に着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿舎としている。
寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局(かすがのつぼね)の子孫である稲葉丹後守正知が下総(しもふさ)佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は延享五年(一七四八)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使(へいれいし)淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七五六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。 京都市」
天守台 立入禁止の札
天守台は立入禁止になっていたので、遠くから望む。
稲葉神社
淀城跡公園の片隅に、小さなお社がひとつ建っている。
これが稲葉神社。
お社の傍らの板には、次のように書かれている。
「御神祭
従五位下佐渡守
稲葉政成(正成)公
御室 春日局
稲葉神社」
御祭神の稲葉正成(1571~1628)は、淀藩・稲葉家の祖。
林姓を名乗っていたが、稲葉重通の婿となり、稲葉を称した。
妻の死去のあと、斎藤利三の娘の「福」を重通の養女として迎え、再婚したのが春日局。
【與杼神社】
淀城公園の隣に、與杼(よど)神社がある。
鳥居の前には、神社の境内より広い駐車場があって、美しさだとか、静けさだとかとは無縁の感じがする。
このあたりは風致地区に指定されているというけれど、本当かしらと首をかしげたくなってしまう。
拝殿(重要文化財)
本殿
本殿は、昭和50年に焼失したのち、昭和55年3月に建立されたもの。
中央に豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、向かって右側に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、向かって左側に速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀る。
当日の行程:(車) → 【石清水八幡宮】 → 【淀城跡】 → 【與杼神社】 → 【天王山】…(宝積寺)…(自玉手祭来酒解神社)…(大山崎町歴史資料館) → 【勝竜寺城公園】 → 【長岡天満宮】 → 【光明寺】 → 【大原野神社】 → 【勝持寺】 → 【願徳寺】 → 【善峯寺】 → 【長岡宮跡】 → 【桜井駅跡(楠木正成伝説地)】
【淀城跡】
淀城跡公園入口
淀城跡は、京阪電鉄淀駅の西、淀城跡公園の中にある。
近くには、京都競馬場がある。
淀城跡を訪れた6月28日は、競馬があったようで、どの通りにも警官や警備員が出ていた。
本丸石垣と堀
お堀はごみが浮かんでいて、きれいではなかった。
公園の中も、暗い感じで、整備されているような印象は受けない。
淀城跡の石碑
淀城跡の石碑は、本丸跡に建っている。
石碑の「淀城址」の文字は、子爵・稲葉正凱の手による。
田邊治之助君記念碑
田邊治之助君記念碑は、本丸跡に建っている。
淀城の大手門守備隊長・田邊治之助は、鳥羽伏見の戦いで淀城の追手門を守り自刀している。
淀城の由来
天守台の前には、「淀城の由来」の案内板がある。
案内板には、次のように書かれている。
「徳川二代将軍秀忠は、元和(げんな)五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(一六二三)に着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿舎としている。
寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局(かすがのつぼね)の子孫である稲葉丹後守正知が下総(しもふさ)佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。
淀城とその城下町の盛観は延享五年(一七四八)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使(へいれいし)淀城着来図」に詳しく描かれている。
昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七五六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。 京都市」
天守台 立入禁止の札
天守台は立入禁止になっていたので、遠くから望む。
稲葉神社
淀城跡公園の片隅に、小さなお社がひとつ建っている。
これが稲葉神社。
お社の傍らの板には、次のように書かれている。
「御神祭
従五位下佐渡守
稲葉政成(正成)公
御室 春日局
稲葉神社」
御祭神の稲葉正成(1571~1628)は、淀藩・稲葉家の祖。
林姓を名乗っていたが、稲葉重通の婿となり、稲葉を称した。
妻の死去のあと、斎藤利三の娘の「福」を重通の養女として迎え、再婚したのが春日局。
【與杼神社】
淀城公園の隣に、與杼(よど)神社がある。
鳥居の前には、神社の境内より広い駐車場があって、美しさだとか、静けさだとかとは無縁の感じがする。
このあたりは風致地区に指定されているというけれど、本当かしらと首をかしげたくなってしまう。
拝殿(重要文化財)
本殿
本殿は、昭和50年に焼失したのち、昭和55年3月に建立されたもの。
中央に豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、向かって右側に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、向かって左側に速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀る。