大倉草紙

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【兵庫】 三木城跡

2009年02月04日 20時00分00秒 | 旅 - 兵庫県
8月26日(火)
当日の行程:(車) → 【明石魚の棚】【明石城】【第53回全国高校野球軟式野球選手権大会(明石公園野球場)】【三木城跡】 → (大垣泊)


三木城は、15世紀後半に別所則冶によって築かれた。
天正6年(1576)、5代目当主・別所長冶のとき、羽柴(豊臣)秀吉の軍に包囲され、20ヶ月もの間、兵糧攻めに遭う。
天正8年(1580)年1月17日、別所長冶は、領民の命を救うことを条件に、自刃したという。
このとき、別所長冶は23歳であったそうだ。
この「三木の干殺し」の話を知ってから、いつかは三木城跡を訪れたいと思っていた。
写真は、三木城跡にある「別所長冶公像」。
長冶公の武者姿をイメージして製作されたもので、史実に基づいた姿ではないようだ。


三木城本丸跡に残る唯一の井戸。
石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから、その名が付いたそうだ。






城跡にある「三木城合戦図」


天守跡


天守跡には、「三木城主別所長冶公辞世之碑」がある。
「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代わるわが身とおもへば」


別所家一族の辞世の碑


雲龍寺は、かつては三木城内にあったそうだ。
別所長治が自刃の席に招かれた住職は、後事を託され、「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見に贈られたという。
寺には、別所長冶夫妻の首塚がある。
兵糧攻めに遭い、城内の藁をも食べたとの言い伝えから、雲龍寺では、毎年1月17日の別所長治の命日に、藁に見立てた「うどん」が振舞われるそうだ。

さて、三木市内を車で走っていて、面白いものを見つけた。

「みっきいバス」、強烈な印象を受ける。


2008年3月末の運行を最後に廃止された三木鉄道。
偶然見つけた三木駅に感動。