大倉草紙

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【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その6

2011年03月19日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その5の続き


(14:21)
材木町通りを進み、119号線と交わったら右に折れる。
その先すぐに、日光街道と奥州街道の追分がある。
日光街道はここで左に折れるのだが、ここからJR宇都宮駅付近の地帯を散策してみた。


(14:23)
追分のすぐそばに、宇都宮宿本陣跡がある。
宇都宮宿には本陣が二か所あったが、こちらは上野本陣跡。


(14:28)
その先左手の第一生命の辺りが、高札場跡


(14:31)
左手にみずほ銀行が見えてくる。
この辺りも宇都宮宿本陣跡
こちらは石塚本陣跡。


(14:40)
この先を右に折れ、左手奥まった場所にある向明児童公園に、史跡行在所向明館の碑が建っている。
「向明館」は、明治天皇が宇都宮に巡幸された時の行在所となった場所。
建物は、昭和20年の宇都宮空襲で焼失してしまった。

公園の先、アーケードを左手に進み、突き当たりを左折、そのあとすぐに右折する。
しばらく行くと、右手に「史跡おしどり塚」と書かれた碑が建っていたので、奥に入ってみる。

(14:40)
おしどり塚
「おしどり塚は鎌倉時代に無住法師の『沙石集』によって紹介された旧跡地であり、次のような話が伝えられている。
 鎌倉時代のころ、この付近を流れていた求食川で猟師が一羽の雄のおしどりを射とめ、その首を切り、身体だけを持ち帰った。
 翌日同じ場所でうずくまっている雌のおしどりを射ると、その翼の下には昨日のおしどりの首がしっかりと抱きかかえられていた。
 猟師は鳥のもつ愛情に深く心を打たれ、今までの殺生を悔い、石塔を建てて供養したという。


(14:51)
おしどり塚と同じ公園内に建つ勤皇志士 兒島強介誕生地の碑。


(15:02)
JR宇都宮駅へ。


(15:06)
駅の中にある宇都宮餃子小町。
餃子のお店がたくさん並んでいる。


(15:18)
やっぱり宇都宮に来たなら餃子を食べなくっちゃ、というわけで。


(15:32)
この日、夫は都内で用事があったので、宇都宮駅から戻る。
私は、宇都宮近郊に宿泊。
餃子を食べたあと電車の待ち時間があったので探してみたのがコレ、餃子像

つづく

【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その5

2011年03月18日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その4の続き


(12:52)
台陽寺
ここには戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓があるそうだが、場所が分からなかった。


(12:56)
台陽寺の隣の熱木(ねぎ)不動尊
初代宇都宮宗円が戦勝祈願のために造った不動尊のうちのひとつ。

この先、街道を離れて右に折れ、平成通りを進む。
歩いている人に宇都宮城跡の場所を尋ねると、市役所の方面だということだったので、市役所を目指す。


(13:17)
宇都宮城跡公園


(13:39)
富士見櫓はその名の通り、高い建物のなかった江戸時代には富士山を望むことができたそうだ。


(13:42)
清明台
清明台のあった部分の土塁は、他の部分と比べて高いことから、天守閣の役割を果たしていたのだと考えられている。


(14:02)
宇都宮市役所の前のもみじ通りを西に向かって歩き、光琳寺へ行く。
ここには、「戊辰の役官軍 因幡藩士 山国隊士之墓」がある。
山国隊には興味があるので(山國護国神社山國神社)お参りする。


(14:03)
戊辰の役官軍 因幡藩士 山国隊士之墓

つづく

【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その4

2011年03月17日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その3の続き


(12:26)
だんだん近くなってきた。


(12:28)
富士重工株式会社の前を通り、しばらく行くと、「不動前」交差点に至る。


(12:34)
「不動前」交差点の不動尊
「江戸時代の初めころ、宇都宮城主本多正純は、日光街道と奥州街道をつけかえました。そのとき、旧奥州街道と奥州街道の分かれ目にあったのが、不動明王を祀った不動堂です。江戸方面から来る旅人にとっては、宇都宮に入る目印となっていました。
 不動堂は初め、この場所より東方(旭陵通りを少し入った辺り)にありましたが、後にここに移されました。今でも不動前という地名があるのは、この不動堂に由来するものです。」(案内板より)


(12:35)
不動堂の脇に、「右奥州・日光街道、左裁判所、正面東京に至る」と刻まれた道標がある。
これは、昭和3年(1928)に建てられたもの。


(12:40)
「不動前」交差点を左に進み、すぐ右手に蒲生君平勅旌碑が建っている。
「明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして『君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように』との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に『この地が蒲生君平の里である』という碑を建てました。
 蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに『寛政の三奇人』といわれた人で、明治5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、祖先は宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。
 歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して『山陵志』を著し修復の必要性を説きました。
 また、朝廷の官職についてまとめた『職官志』や国防についてまとめた『不恤緯』などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。」(案内板より)


(12:40)
蒲生君平勅旌碑が建っている公園に隣接している居酒屋。
「君ちゃん」は「きみちゃん」ではなく、君平の「くんちゃん」と読むのか?


(12:48)
その先左手奥に、大きなケヤキが見える。
これが新町のケヤキで、樹齢約800年。
江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っていて、旅人の目印になっていたのだそうだ。

つづく

【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その3

2011年03月16日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その2の続き


(11:09)
ようやく東京から100㎞歩いた。
あ、100㎞の地点からは、東京「から」100㎞ではなく、東京「まで」100㎞と表記されている。


(11:47)
陸上自衛隊北宇都宮駐屯地


(11:53)
寿鶴薬師堂


(12:09)
江曽崎に一里塚跡はこの辺りか?
現在には何も残っていないが、次のように、「一里」の文字をあちこちで見かける。


(12:10)
「ICHIRI」、「らーめんと餃子 一里」というお店。


(12:10)
「一里」の交差点。


(12:10)
一里踏切。


(12:11)
「ichiriya」というお店。


(12:11)
「一里」という名のバス停。


(12:20)
遠くに山が見える。
山のある風景はいいなあ。

つづく

【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その2

2011年03月15日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

8日目(石橋~宇都宮)その1の続き


(10:26)
ようやく宇都宮に入った。


(10:28)
(有)三協自動車の建物は、自動車型。
この辺りは、一風変わった建物が多い。


(10:38)
陸上自衛隊宇都宮駐屯地


(10:40)
懐かしい看板。


(10:54)
雀の宮交番の付近に雀宮の一里塚があったそうだ。


(10:54)
とすると、この道の両端あたりか?


(11:00)
その先の左手、雀宮宿本陣跡には碑が建っている。


(11:01)
本陣跡の向かい側が、雀宮宿脇本陣跡
立派な門構えの家が建っている。


(11:08)
雀宮神社
藤原実方ゆかりの神社。
陸奥守に任命された実方を追ってきた妻の綾女はここで死去した。
実方も落馬して任地で命を落とすが、「雀」になって妻の埋葬しているこの場所まで飛んできたと伝わる。

つづく

【日光街道】 8日目(石橋~宇都宮) その1

2011年03月14日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月8日(土)

7日目(古河~小山)その4の続き


(09:11)
古河駅を9時過ぎに出発。
寒い日だ。
朝早くに家を出てきたので、朝ごはんを食べているのにもかかわらず、すぐにお腹がすいて、マクドナルドに入る。食べ過ぎ。


(09:22)
開雲寺


開雲寺の山門脇に建つ明治天皇御駐輦之處の碑。


開雲寺境内。


(09:56)
「ジャンジャン」「バンバン」「ドンドン」えらく威勢のよい名前だが、お店は開いているのかなあ?
国道4号線のこの辺りは、閉店してしまった店舗を多く見かける。


(10:00)
前田製菓(株)宇都宮工場
「あたりまえだのクラッカー」だから写真を撮らなきゃ、と夫は言うが、私は何のことやら分からない。
調べると、前田製菓提供の「てなもんや三度笠」という番組(放送は1962~68)の中で言われていた台詞なのだそうだ。
夫が生まれる10年ほど前の番組なのに、なぜ知っているのだろう?


(10:06)
これにはびっくり!
スゴイ趣味だなあ。
「家康本陣」という名の飲食店だったようだが、現在は閉店。
遠くからだとコンクリートでできているように見えるが、コンコンと叩いてみると張りぼて。


(10:11)
鞘堂地蔵
天授6年(1380)、小山・宇都宮合戦のとき、戦死者の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建てて地蔵を安置したことから「鞘堂地蔵」といわれるのだそうだ。


(10:15)
星宮神社は、このあたりの鞘堂新田の総鎮守。

つづく

【日光街道】 7日目(小山~石橋) その4

2011年03月13日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月6日(木)

7日目(古河~小山)その3の続き


(12:55)
小金井一里塚は、国指定史跡。
指定されているのは、日光街道のなかではここだけなのだそうだ。


(13:02)
小金井一里塚からほどなく、左手に慈眼寺がある。


葵の御紋が使われている慈眼寺の瓦。


慈眼寺では、あちこちに葵の御紋が使われている。
歴代将軍の御休処だったからなのだそうだ。


(13:06)
さらにその先、左手に、金井神社がある。


(13:11)
金井神社を過ぎると、大きな門が目に入る。
ここが、小金井宿本陣跡である。


(13:16)
小金井宿本陣跡の先、右手にあるのが蓮行寺
徳川将軍が日光社参の際、宇都宮城主はここ連行寺で将軍を出迎えたのだという。


(13:33)
この先は、国道4号の1本左の旧日光街道を歩く。
周囲の風景はこんな感じ。
風が強く、歩き辛い。


(14:07)
再び国道4号線。
ようやく「東京から90㎞、宇都宮まで18㎞」。


(14:10)
この辺りに下石橋の一里塚があったようだが、どこにあったのか分からない。


(14:17)
突然見えてきた慈母観音。
ここは、丸大食品(株)・関東工場


(14:30)
「下石橋北」の交差点付近に、石仏が並んでいる。
これが、夕顔の橋の石仏群である。


(14:48)
右手に見える「井沢写真館」が、石橋宿脇本陣跡


(14:50)
その先、やはり右手にある「伊澤茶舗」。
こちらは、石橋宿本陣跡


(14:53)
石橋駅には、こんな時計台が。
石橋は、グリムの町。
石橋町(現・下野市)は、ドイツのヘッセン州ディーツヘルツタール・シュタインブリュッケンと姉妹都市提携をしている(シュタインブリュッケンは、「Schtein=石」、「Blucken=橋」)。
グリムが生まれたのは、シュタインブリュッケンと同じヘッセン州にあるハーナウであることから、「グリムの町」となったそうだ。
でもこれ、ちょっとやりすぎではないか?

この日は石橋から電車で帰宅。
つづく

大地震

2011年03月12日 21時00分00秒 | 雑記
この度の地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

あ、地震。
いつもより大きな揺れだけれどすぐにおさまるかな。
しかし窓はガタガタ鳴り出し、揺れはどんどん大きくなる。
ほんとうに、驚いた。

幸いにも、夫の職場はすぐに帰ってこれる距離。
帰宅時、道路は人だらけ、車は渋滞。


わが家の被害は今のところこの程度で済んでいるが、余震が続いているので安心はできない。

テレビで被災地の様子が映る。
洪水の映像は、何度見ても衝撃的だ。
ただただ、状況やお気持ちを察することしかできないのがもどかしい。
これ以上、被害が広がらないよう、祈っている。

【日光街道】 7日目(小山~石橋) その3

2011年03月11日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月6日(木)

7日目(古河~小山)その2の続き


(10:44)
日枝神社の拝殿の裏には、小山城の支城跡の土塁が残っている。


日枝神社の拝殿の右手には、「男體山」と記された石碑がある。


石碑の下の方には、「右奥州 左日光」と刻まれている。
かつては喜沢の追分に置かれていた道標なのだそうだ。


(10:56)
喜沢の追分の石仏


(11:07)
国道4号の右脇の細い道を進む。
しばらく行くと、喜沢の一里塚跡がある。
江戸から21番目の一里塚である。
進行方向に向かって左手の塚は、すぐにわかるほど大きなもの。


(11:37)
一里塚を過ぎてからの道が分かり辛い。
間違えて、少し手前で国道に出てしまったが、なんとか場所を把握することができた。
ほどなく左手に新田宿本陣跡がある。
写真のような立派な門が残っている。


(11:43)
右手に橿原神社が見える。


お昼が近くなった。
普段はおにぎりを持って行って、適当な場所を見つけて食べているのだが、佐野ラーメンのお店があったので入ってみた。


(12:11)
国道4号線沿いの銅市金属の辺りを、国道より1本左手の道に入る。
道に入ってすぐに、新田宿出口の道しるべである石仏群がある。
ひたすらまっすぐ歩く。
途中突き当ったら、一旦国道に戻り、左に折れる道があればまた入る。
やがて、小金井の一里塚に辿り着く。

つづく

【日光街道】 7日目(小山~石橋) その2

2011年03月10日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月6日(木)

7日目(古河~小山)その1の続き


(09:30)
常光寺


(09:31)
境内はとても美しい。
阿弥陀如来像の台座には、戊辰戦争のときに大鳥軍の流れ弾が当たったとされる痕がある。


(09:42)
天翁院
境内は広く、公園のようだ。


(09:45)
天翁院の境内には、小山で戦死した彦根藩新組頭青木貞兵衛戦死の碑がある。


(10:25)
国道4号線に出て、しばらく歩くと左手に観音堂がある。
残念なことに、ここはあまり手入れされていない様子だ。


(10:26)
観音堂に向かって右手にある地蔵菩薩


地蔵菩薩の台座には、「右へ奥州海道 左へ日光海道」と刻まれている。
この地蔵菩薩は、かつては喜沢の追分にあったものなのだそうだ。


(10:34)
地図によれば、このすぐ近くに「小山ゆうえんち」があるはずだ。
街道を少し外れるが、どんなところなのか興味があったので寄ってみることにした。
が、いくら探しても見つからない。
この場所にあるはずなのだが……おかしいと思って携帯で調べると、「小山ゆうえんち」は2005年に閉園したのだそうだ。
現在は、大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」になっている。

つづく