大倉草紙

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【京都】 山國護国神社

2010年01月25日 21時00分00秒 | 旅 - 京都府
12月28日(月)
当日の行程:(車) → 【峰定寺あたり】【常照皇寺】【光厳天皇山國陵・後花園天皇後山國陵・後土御門天皇分骨所】【山國護国神社】【山國神社】【周山城址】【福徳寺】【志明院】【上賀茂神社】


山國護国神社には、山国隊隊士と戦没者が祀られている。


神社の入り口には、次のよう由緒が書かれている。
「王政復古の政変に際し、勤王隊の総司令官、西園寺公望公の要請に呼應して、山國庄の名主等が農民兵を組織して、勤王隊に加はり、鳥羽、伏見の戦いはもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基づいても明らかな所であります。
其の山國隊が、山國庄に明治二年二月二十一日凱旋した日に伍長会を開いて、辻村薬師山に、この度の戦いで、戦病死をした戦士の招魂場を設けることを議した後、二月二十四日全隊員が先づ五社明神に参拝して報告祭を催し、その足で先日議決した、薬師山に戦病死をした、七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。」
明治8年に、京都府の監督官臨席のもと、招魂祭が催され、以後、恒例となったそうだ。
また、昭和42年より、「日清、日露、大東亜戦の戦病者」を合祀するようになった、と記されている。


七隊士の墓標
仲西市太郎(江戸)、高室重藏(江戸)、田中浅太郎(安塚)、高室治兵衛(安塚)、田中伍右衛門(上野)、北小路萬之助(京都)、新井兼吉(安塚)


社殿


右から、山国隊司令・原六郎[進藤俊三郎](1842-1933)、山国隊隊長・河田左久馬(1828-1897)、水口市之進の墓標。


山国隊隊士の墓標


池田慶徳の鎮魂碑
「天保八年(一八三七)~明治十年(一八七七) 四十歳没
徳川斉昭の五男として生まれる。代[ママ]十一代因幡藩主池田慶栄の死により藩を継ぐ。安政二年(一八五五)より藩政の改革に着手する。
弟徳川慶喜が幕府の中心として座り、尊攘派と旧守派の対立に苦慮したが、戊辰の役では薩長軍に参加し倒幕の立場を明らかにした。因幡藩は官軍として、山国隊と共に出兵しめざましい進撃をつづけた。
明治二年 版籍奉還後、鳥取藩知事となる
明治十八年 鳥取藩主 池田輝知の碑文を寄贈する。

 碑文
大きみの 御たてとなりし ますらをの
   いそしを 世々に たつる石ふみ」(案内板より)


原六郎の鎮魂碑
「天保十三年(一八四二)~昭和八年(一九三三) 九十二歳没
但馬国朝来郡の生まれ、維新後鳥取藩士となる。文久二年(一八六二)農兵を組織し生野の挙兵に参加するも敗れ、因幡藩に保護され原六郎と改名長州遊撃隊へ入隊し山国隊隊長(河田左久馬)の推挙で同隊司令長となり山国隊と共に各地を転戦した。
維新後、米国英国に留学し帰国後、実情会に入り各地に銀行を創設、鉄道事業の設立(総武・東武鉄道)等経済界に大いに貢献した。
又、明治二十三年 帝国ホテルの開業をはじめ電力会社や紡績会社などを創立させ日本の金融産業界に大きな足跡を残し明治実業界の大立役者と呼ばれた。
晩年は社会奉仕に尽力し生涯を終わる。」(案内板より)


昭和42年に合祀された戦没者の墓標


一の鳥居の手前には、招魂橋が架かっている。


橋には、山国隊の意匠が施されている。


山国隊軍楽保存館
近くに、「山国隊軍楽保存館」があるというので探してみた。
何か資料が展示されているのかと思ったがそうではなく、10月に行われる維新勤皇山国隊行進のための楽器や衣装を保管している場所のようだ。

こちらは、平成20年(2008)の時代祭での維新勤王隊列。