はがきのおくりもの

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沈黙と祈り

2008年06月12日 | 柿の木高校物語 2001

 学校にも会社にも、とにかく日本という国には祈りがない。核心を突く指摘に思わずマザー・テレサの本を探していた。

  沈黙の果実は祈りである
  祈りの果実は信仰である
  信仰の果実は愛である
  愛の果実は奉仕である
  奉仕の果実は平和である

 沈黙が始まりとは!間違っていた。新聞、テレビ、インターネット…、喧噪の中に棲む私たちには沈黙と黙想が必要。それと知らず、何と多弁であったことか。
 毎朝、今日も一日、丸く、豊かに、明るく、元気に、感謝して生きられますようにと太陽に手を合わせる。しかし、単なる癖に終わって、祈りの気持ちが自分の中に育っていない。
 教育は実践である。実践が痩せてくると、口ばかりで心が貧しくなる。生徒を心豊かな人間に育てる役目を担う教師は、沈黙と祈りを身につけ、心豊かな人間になる責任がある。
 「熟慮断行では足りない。熟慮、祈念、放下、断行が必要だ」と言ったのは伊庭貞剛。徹底的に考えたあと、心を込めて祈る。祈ったあとは天に任せ、やるべき時に断行する。極限まで考える凄まじさ、人間の限界を知る謙虚さ、使命を生きる強さに圧倒される。
 祈念、放下という心の世界を経てこそ、本物の判断なのか。心の教育を進めながら、あまりにも心の世界を知らな過ぎた。本物は沈黙と祈りから生まれる。
 祈りの真似事を始めて気づいた。祈りの言葉が見つからない。生徒が幸せでありますように、生徒にとって充実した一日でありますように…。祈りが自分のものになっていない。
 祈りは本気である。本気にならなければ、祈りは偽物でしかない。本気で生徒のために何をするのか。私自身の祈りの言葉をつかみ取らねばならない。
 ゴミ箱を拭く。生徒と先生が気持ちよく勉強できますように。教卓を拭く。実りある授業となりますように。雑巾がけをしながら祈ると、少しだけ祈りに近づいた気がする。
 真剣な勉強、心を込めた掃除を厳しく求めるには祈りが不可欠。祈ることのできる人でありたい。<2001.10.1>



 「雑巾って溶けてなくなるんだぜ」
 奥井が驚いたように言っていたことを思い出しました。汚れたゴミ箱を拭いて汚れた雑巾を洗っていると、数週間で雑巾が溶けていくんだそうです。

 ところで昨日、ある研修会で講話をしたと奥井が言っていました。教師を離れて17年目、すっかり授業下手になったと落ちこんでいました。
 つまらなそうにして時々寝ていた研修生がいて、自分の話がつまらなかったんだろうと言うのです。
 詳しいことはわかりませんが、こんなふうに奥井を励ましてやりました。

 「時間をかけてレジュメや資料を作ったのだから、学ぼうという気持ちのある人には参考になったはずだよ。
 場と時を共にしても、出会う人もいれば、出会わない人もいる。人生なんてそんなもんだよ。
 出会うことのなかった人には、「幸あれ」と祈ってあげればいいじゃないか。」

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