「朝の習慣」を続けていると、生徒に「なぜやっているのか」と聞かれることがある。卯高四年間では一度だけ質問された。
答えは「習慣だから」「決めたことだから」と言うことに決めていた。習慣に理由はない。しかし、始めたときには理由があった。
朝の習慣を始めたのは、教頭一年目の秋のこと。夏が過ぎ、少し余裕ができてきて、私にできることは何かと考えることができるようになった頃、森信三先生の「荒れた学校を立て直す定石」に出会った。森信三先生は神戸大学教授をされていた方で、哲学者・教育者として有名な方である。
森信三先生の「荒れた学校を立て直す定石」とは、「先に挨拶をする」「ゴミを一つ残らず拾う」「下足箱の生徒の履物をばーっとそろえる」「自転車をぴしっとそろえる」「日に3回、校内を回る」の五つを管理職が黙々とやれば、必ず再建できるというものであった。荒れた学校というわけではなかったが、先生方の手助けになればと、履物そろえ以外の四つを実践することにした。一年分のチェック表を作って、毎日○と×を記入し、やり続けた。森信三先生の「決断することはたやすいことである」「例外をつくったらもうやれん。決然として起つんだ」という言葉が胸に刺さり、決然としてやり続けるんだ、と気を張ってやり始めたと記憶している。
しかし、習慣としてからは、「朝の習慣」に意味があるかどうかについて考えるのはよそうと決心し、ただの習慣とした。続けていくうちに見返りを期待する気持ちもあまりなくなり、やったかやらなかったかの毎日のチェックもやめた。
意味や見返りを考えないと、いくつかいいことがある。
一つは、気持ちが楽になることである。楽しくなるといってもいいかもしれない。
若い頃、「生きる意味」について時々考えた。しかし、いまだに「生きる意味」についてはよくわからない。わかったことは、意味があってもなくても私たちは生きている、ということである。ならば、生きる意味があるかどうかを考えるのをやめて、生きることに集中してみよう、と思うようになった。どうやら意味を考えないときの方が気楽に全力を出し切れるようである。
もう一つ、いいことがある。それは、長く続けることができることである。
意味を考えていると、つい、こんなことをしていて意味があるんだろうか。費用対効果の観点から見ると効果があまり期待できないからやめてしまおうか、と考えてしまう。見返りがなければやめるという判断は合理的なようだが、意味について考えるときは大抵落ち込んだとき。つまり、落ち込んだときにやめたくなる。ところが、意味について考えなければ、やめようと考えないので、続けることができる。そうやって続けてきた。
意味を考えて目的や目標を立て、その目標を達成するための方策を考える。そして、その方策を一歩ずつ実行していく。うまくいかなかったら方策を改善してまた実行する。そういう積みかさねで、目的や目標を達成し、人は成長していく。そういう点で、意味を考えることはとても重要なことである。しかし、意味を考えないという選択肢もある。「意味があるほうが正しくて、意味がないことは正しくない」という常識も疑ってみる必要性が高まってきているように感じている。
もう少し付け加えると、「朝の習慣」は生徒たちや教員たちへの贈与だと思っている。たくさんのものを贈与された人は幸せである。後から来る人へ贈与できるものを沢山持っているのであるから。
さらに付け加えると、校長は運が強くなければならない。その運を強める効果が「朝の習慣」にはあると考えてきた。「朝の習慣」が卯高を包む環境を温かいものにしていくと信じた。それが卯高に運を呼び寄せる。そんな見えない世界のことにまで気を配ってしまうことも、校長の道楽の一種、あるいは変種なのかもしれない。
Pay Fowardの考え方が素敵です。
そして、運の強さもその通りだと思います。
私は、こう考えて、仕事をしています。
周囲に運が強い人がいれば、自分の運も強くなる。
周囲の運を強くするには、自分が相手に尽くす。
すると相手の運が強くなり、自分の運も強くなる。
運の強い人の側にいると、どういうわけか影響されて、こちらまで運が強くなってきますね。
おそらく運の強い人と同じような行動をするようになってしまうからでしょう。何しろ運の強い人は、強烈な魅力や影響力を持った人が多いですから。