いいもの見ぃ~つけた!

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< 郷土料理 > 茨城 かぼちゃのいとこ煮

2024-06-03 08:04:49 | 郷土料理

 「かぼちゃのいとこ煮」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 かぼちゃ、小豆、醤油

 歴史・由来・関連行事
 茨城県は、市場でも評価の高い「江戸崎かぼちゃ」をはじめ、「那珂かぼちゃ」や「みやこかぼちゃ」などの品質の高いかぼちゃを育てるかぼちゃの生産地である。かぼちゃの生産量も国内トップクラスを誇り、冬至の時期になると、かぼちゃ料理がよく食べられていた。そうしたかぼちゃ料理のなかでよく食べられていたのが「かぼちゃの煮物」である。小豆と一緒に煮る「かぼちゃのいとこ煮」は冬至の定番料理として根づいてきた。
 ”いとこ煮”とは、主に野菜や豆類でつくる煮物のことである。正月やお盆、その他祝いの席でお供えした野菜や豆を、行事の後に煮て食べたことがはじまりだといわれている。その名の由来は諸説あり、“野菜別にめいめいに煮る”から”姪々”とかけ、姪同士はいとこであるからという説。また、“野菜を追々煮る”から“甥々”で甥同士はいとこであるからという説。そして、野菜や豆は畑でとれるもので、いとこのようなものだからという説がある。
 かぼちゃは保存がきくため、あまり食糧がとれない時代の貴重な栄養源となっていた。冬至の日にかぼちゃを食べるのは諸説あるが、野菜の収穫が少なくなる厳寒期を健康に乗り越えられるように願いを込めて、保存していた栄養価の高いかぼちゃを食べる習慣がいまに伝わるといわれている。また、小豆も保存がきき栄養価が高いことから、「かぼちゃのいとこ煮」は、風邪をひかずに冬を乗りきるための郷土料理として親しまれてきた。さらに小豆の赤は邪気を払うといわれ、縁起の良いかぼちゃと小豆でつくる「かぼちゃのいとこ煮」が食べられるようになったと考えられる。

 食習の機会や時季
 かぼちゃの収穫時期は夏だが、長期保存ができるため収穫後は保存し、寒さの厳しい冬に栄養不足を補うために食べていた。なかでも日照時間が最も短い冬至は、体が弱まる時期となるため、栄養価の高いかぼちゃと小豆を煮た「かぼちゃのいとこ煮」を食べる習慣が根づいた。

 飲食方法
 小豆を一晩水につけておき、柔らかくなるまで煮る。また、かぼちゃも5cm角くらいの大きさに切り、醤油、砂糖、塩などの合わせ調味料で煮ていく。途中で小豆を加えて馴染ませてからいただく。手軽なアレンジとして、小豆の甘納豆を使うと調理時間を短縮できる。この場合は、砂糖をひかえると良い。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 現在でも、冬の時期に各家庭でつくられている。冬至の時期になると、学校給食でも提供される地域がある。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/kabochanoitokoni_ibaraki.html より

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<B級ご当地グルメ> 福島 なみえ焼そば

2024-06-03 08:01:24 | B級ご当地グルメ

 「なみえ焼そば」

 なみえ焼そばとは



 極太麺、モヤシ、豚肉、極まる馬さ、ここにあり。
 福島県双葉郡浪江町の安くておいしい、昔から親しまれる極太麺の『なみえ焼そば』。約50年前、労働者のために食べ応えと腹持ちをよくするために考案されたとされています。通常の約3倍のもある太い麺と、うまみたっぷり濃厚ソース、豚肉とモヤシだけのシンプルな具が特徴です。一味唐辛子を振りかけて食べるのが通な食べ方とされる。
 なみえ焼そばの定義
 その1  中華麺の太麺を使う
 その2  具材はモヤシと豚肉を基本とする
 その3  ソース味であること
 なみえ焼そば年表
 1950年頃 なみえ焼きそば発祥
 1979年頃 家庭調理用太麺発売
 2010年4月 なみえ焼そば提供店舗21店舗

*http://namieyakisoba.com/namieyakisoba.html より

 

 なみえ焼きそば(なみえやきそば)は、福島県双葉郡浪江町で生まれた焼きそばで、ご当地グルメの一つである。太めの麺が特徴で、具はモヤシと豚肉。ラードで炒め、濃厚なソースで味付けされる。一味唐辛子を振りかけて食べるのが通な食べ方とされる。

 歴史
 国鉄(当時)常磐線浪江駅近くの居酒屋「浪江名物元祖焼そば 縄のれん」が1955年(昭和30年)に極太の麺を使用した焼きそばを提供し始め、それが浪江名物となった。

 2008年(平成20年)に浪江町商工会青年部が中心となって町興しのため「浪江焼麺太国」(なみえやきそばたいこく)という団体を設立。ナポレオンを意識していて、頭の上にやきそばが乗っている特徴的なファッションの「やきそば太王」を中心に広報活動している。2009年の春より愛Bリーグの北海道東北支部に加盟した。2010年に開催された「B-1グランプリ厚木大会」への参加を果たす。厚木大会では中間発表で12位の好位置につけるが、惜しくも10位までのランクインを逃す。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の影響で、浪江町全体が避難指示区域となり、「浪江焼麺太国」のメンバーも避難でバラバラになってしまった。そんな中で参加した2011年に開催されたB-1グランプリ姫路大会では4位入賞を果たし、2012年に開催された北九州大会でも4位入賞となっている。2013年11月9日・10日に愛知県豊川市で開かれた第8回B-1グランプリでは1位を獲得した。

 一時は偽物が横行したため、地域団体商標に登録した。浪江町を含む福島県浜通りで避難指示が解除された区域が広がるにつれ、浪江町内の仮設商店街や2020年10月に開所した双葉町産業交流センターなど発祥地やその周辺でも提供されるようになっている。

 提供・商品化
 2011年10月24日に、日清食品からカップ焼きそばとしても販売。売り上げの一部は「浪江焼麺太国」のまちおこし活動の支援に使われる。東北自動車道・常磐自動車道のサービスエリアで箱入りの商品が販売されているほか、南相馬鹿島サービスエリア(セデッテかしま)では軽食として提供されている。

 PR
 地元女子高校生がプロデュースしたNYTS(ナイツ)というアイドルユニットが『恋する焼きそば』を歌い、キャンペーンソングとして、地元の浪江となみえ焼きそばをPRしている。B-1グランプリin厚木からNYTS(ナイツ)も参加し、Yahoo!のトップニュースに写真付きで取り上げられるなど、大きくメディアに報道された。このときに日本で初めて「ご当地アイドル」という呼ばれ方をされたアイドルユニットでもある。

*Wikipedia より

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うまいッ! NHK「とろ~り濃厚 うまみたっぷりキャビア~宮崎県~」

2024-06-03 07:52:45 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「とろ~り濃厚 うまみたっぷりキャビア~宮崎県~」 2016年04月10日

 番組内容
 シェフたちもおいしさを認める宮崎県産のキャビア。美しい水で丁寧に養殖されたチョウザメの卵を、とっておきの熟成法で加工し、うまみを引き出している。おいしさの秘密と、開発の秘話をご紹介。さらに、チョウザメの肉もさまざまな料理に使えると今、注目を集めている。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201604100615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「宮崎のキャビア」

 世界で競う本格熟成”純国産”キャビア、宮崎から MIYAZAKI CAVIAR 1983

 30年の歳月をかけて開発された国内唯一の本格複製キャビア、MIYAZAKI CAVIAR 1983が、平成25年11月22日に販売開始。

 「宮崎から世界に通用するジャパンキャビアを」をテーマに、キャビア先進国、ヨーロッパを目標に開発、誕生したMIYAZAKI CAVIAR 1983は、早くも全国のシェフたちの注目を集めている。

 シロチョウザメ。2004年に宮崎県水産試験場小林分場が日本で初めてシロチョウザメの完全養殖に成功した。

 霧島山麓で生まれた宮崎のキャビア
 霧島山麓の澄んだ湧き水に恵まれた、宮崎水産試験場小林分場(毛良明夫分場長)で、キャビアの親となるチョウザメの養殖研究が始まったのは、昭和58年(1983年)。それから長年の念願であった天然魚に依存しない完全養殖が成功したのは、平成16年(2004年)のことだった。

 2006年、ワシントン条約によりキャビアの国際取引が禁止され、養殖技術の確立への期待が高まる中、平成23年(2011年)に種苗の大量生産に成功して、事業としてのシロチョウザメ養殖とキャビア生産への道が確立。平成25年(2013年)には宮崎キャビア事業協同組合(濱中章輔代表理事)が設立され、キャビアの販売に向けての本格的な取り組みが始まることに。

 その間、3年間で2000回以上という分析試験を経て、改良を繰り返し、MIYAZAKI CAVIAR 1983は誕生した。

 稚魚から早くて8年後にようやく採卵されるキャビア。その普及に向けての、産官学一体となっての息の長い取り組みの成果が、MIYAZAKI CAVIAR1983だ。

 塩分3%。濃厚でクリーミーな味わい
 通常、市場に出回るキャビアの多くは保存性を香料して、塩分5%から8%と、やや強めの味付けとなっているが、MIYAZAKI CAVIAR1983は原産国の国内流通と同じ3%程度。

 「苦みがなくフレッシュ感があって、塩気もちょうど良い」(山本益博氏)、「ほどよりサシの入った牛肉のよう。バランスのとれた脂、うまみ、塩味」(川越達也氏)といった専門家の評価は宮崎独自の熟成技術と、国内産ならではのフレッシュさから生まれている。

 また、シロチョウザメの肉質の良さも高く評価されており、フグのような食感と癖のないきれいな白身は、料理のジャンルを問わない高級食材として、今後、幅広い展開が期待されている。

MIYAZAKI CAVIAR 1983

平成25年11月22日に販売が開始された。シロチョウザメの養殖研究がスタートした年、「1983年」をモチーフとしたデザイン

*https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/shoko/appeal/jaja/Jaja28_2/28_22.html より

 

 日本のクラフト・キャビア
 1983 J.CAVIAR は、日本の感性から生まれたクラフト・キャビアのブランドです。
 私たちは、日本で初めてクラフトキャビアという言葉を使い始めました。
 クラフトキャビアとは、キャビアマイスターが丁寧な手作業と技術で手間を惜しまずこだわりを持って作った純国産熟成フレッシュキャビアと定義しました。

 私たちは、豊かな自然と農村が広がる九州地方・宮崎県の、清廉な伏流水と健康的な飼料で、我が子を慈しむようにチョウザメを育てています。

 その素晴らしいファームのチョウザメから丁寧に採卵された魚卵は、極限まで控えた少量の岩塩のみを加えた後、特別なベッドで心地よい眠りにつきます。
 そして、魔法のようにその眠りを覚ますことなくテイスティングを行い、熟成した旨味が十分に引き出された理想的なタイミングで、お客様のもとへお届けしています。
 しかも、それを保存料や添加物を一切使用せず実現しています。
 私たちは、この厳しい条件を年間を通じて満たすために、先端技術を駆使した、この上なくクリーンな環境を維持できる加工場を設計し建設することから始めました。

 私たちの創造への情熱はそれだけではありません。
 キャビアを「魚の卵を熟成させたもの」と捉えることで、日本食に受け継がれてきた伝統文化と、マッシュアップすることにもチャレンジしています。
 例えば、京料理の基本となる昆布の繊細なミネラルを浸透させ、新たな魚卵の旨味を引き出したキャビア。
 さらに、岩塩だけではなく、日本古来の大豆発酵調味料である醤油だけで熟成したキャビア。
 今まで世界に存在しなかった、まったく新しいキャビアを、日本を代表する卓越した料理人と共創しています。

 私たちの原点に遡ると、1983年キャビアの本場ロシアから友好の証として、日本政府へ寄贈された200匹のベステルを、宮崎県水産試験場が導入したことに起因します。
 私たちは、この1983年を日本のキャビア元年として捉え、感謝と誇りを持ってブランド名に冠しました。
 2013年に初となる商品「宮崎キャビア1983」を世に送り出し、その3年後には、G7伊勢志摩サミットにおいて訪日されたVIPをもてなす晩餐会で採用される栄誉をいただきました。
 今では、日本を代表するキャビア・ブランドとして、国内の3つ星レストランを初め、ニューヨーク、ラスベガス、香港など海外でも採用の輪が広がっています。

 私たち、「1983 J.CAVIAR」はキャビアを通じて、世界中の文化とハーモニーを生む存在でありたい。
 そして、キャビアをごく限られた人だけでなく、さらに多くの人のテーブルへと届けたい。
 そう願いながら、この美しい輝きを放つ一粒のキャビアの宇宙と真摯に向き合い続けます。
 挑戦と創造の結晶であるこのクラフト・キャビアは、あなたの幸福な一皿のためにあるのだから。

 ジャパンキャビア株式会社 宮崎県宮崎市瓜生野6388-7

 

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<料理用語-和食> 麹

2024-06-03 07:40:10 | 料理用語

 「麹-こうじ」

 穀物などに含まれる麹菌を培養したもの。
 様々な発酵食品の原料として使われる。

 主な特徴は、多量に含むジアスターゼの作用によって、澱粉を糖分に変えるというもの。味噌、醤油、酒の醸造に欠かせない原料であり、漬け物などにも使用されている。

 代表的なものが「米麹」であり、精米を蒸して黄麹菌等を得る。麹菌の酵素(アミラーゼやプロテアーゼなど)により培養条件を変えたりして目的にあう米麹を生産する。

 「甘酒」は、粥に米麹を加えて作ったものである。

*https://temaeita.net/top/t2/kj/9_G/09.html より

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<異名-食べ物> 海の米

2024-06-03 07:22:33 | 異名

 「海の米 イワシ」

 イワシ(鰯・鰛・鰮)は、狭義には魚類ニシン目ニシン亜目の複数種の小魚の総称。

 日本でイワシといえば、ニシン科のマイワシとウルメイワシ、カタクチイワシ科のカタクチイワシ計3種を指し、世界的な話題ではこれらの近縁種を指します。

 ただし、他にも名前に「イワシ」とついた魚は数多く、古くは女房語で「むらさき」とも呼ばれました。

 そんなイワシが「海の米」と呼ばる由来ですが、日本を含む世界各地で漁獲され、食用や飼料・肥料などに利用されます。

 そのため、イワシはたくさん獲れ、他の魚にとっても一番エサになる魚であるため、魚の主食になると言う意味で「海の米」と呼ばれるようになりました。

*https://www.alias-food.com/seafood/sea-of-rice より

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<難読漢字-鳥類> 善知鳥

2024-06-03 07:17:11 | 難読漢字

 「善知鳥 うとう」

 ウトウ(善知鳥) Cerorhinca monocerata は、チドリ目・ウミスズメ科に分類される海鳥の一種。 分類上は1種だけでウトウ属 Cerorhincaを形成する。

 アイヌ語で「突起」という意味がある。 またウ(鵜)とは無関係で、「ウト・ウ」ではなく「ウトー」と発音する。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 手が無い など

2024-06-03 07:10:18 | 慣用句・諺

 「手が無い」

 1 人手が足りない。

 2 施すべき手段・方法がない。

 

 「手が長い」

 盗み癖がある。手癖が悪い。

 

 「手が伸びる」

 1 手がその対象に届くようにする。

 2 勢力などが、その範囲におよぶ。

 

 「手が入る」

 1 逮捕や取り締まりのために警察などが介入する。

 2 製作の過程などで、他人が補ったり直したりする。

 

 「手が入れば足も入る」

 一度気を許すと次々につけ込まれることのたとえ。また、だんだん深入りすることのたとえ。

 

*goo辞書 より 

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<日本酒メーカー> 山形 古澤酒造

2024-06-03 07:01:49 | 日本酒

 「古澤酒造」

 古澤酒造株式会社(ふるさわしゅぞう)は、山形県の清酒製造業を行う酒蔵である。

 沿革
 天保7年(1836年)古澤四郎治が楯北村(現・寒河江市)にて酒造業創業。 昭和3年(1928年)2代目古澤徳治、1年おきに開催された仙台国税局管内清酒品評会において、3回連続優等賞を受賞し名誉賞に輝く。昭和23年(1948年)古澤酒造株式会社に改組。昭和45年(1970年)輸出貢献企業として通産大臣賞を受賞。平成15年(2003年)そば打ち処「紅葉庵」完成。

 古澤酒造株式会社 山形県寒河江市丸内三丁目5-7

*Wikipedia より

 古澤酒造(株)
 磨きぬかれた伝統の技と近代設備により、自主管理で嘘のない酒造りをしています。
 当社の創業は天保7年(1836年)現在地、寒河江にて紅花商いと酒造業を始めたといわれています。長年に亘って受け継がれ、磨きぬかれた伝統の技と近代設備により、自主管理で造る嘘のない酒造りを続けてきました。昭和5年には全国酒類鑑評会で名誉を受け、近年も平成元年、3年、7年と金賞に輝くことが出来ました。

 代表銘柄

澤正宗 芳醇

酒 別 大吟醸
アルコール度 16
原料米 山田錦
精米歩合 35%
日本酒度 +5
酸 度 1.2

*https://yamagata-sake.or.jp/pages/45/ より

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<四国八十八箇所> 第64番札所 前神寺

2024-06-03 06:54:55 | 巡礼

 「前神寺」

 前神寺(まえがみじ)は、愛媛県西条市洲之内にある真言宗石鈇派総本山の寺院。石鈇山(いしづちさん)、金色院(こんじきいん)と号する。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所第六十四番札所。日本七霊山の1つ、霊峰石鎚山 (1982m) の麓に位置する。

 ご本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
 ご詠歌:前は神後(うしろ)は仏(ほとけ)極楽の よろずの罪をくだくいしづち
 納経印:当寺本尊、奥前神寺石鈇山蔵王大権現、四国(東予)七福神・寿老人
 概要

 西日本最高峰石鎚山の7合目標高1,400 mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田(標高50 m付近)に本拠を移すも、その後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭あったが苦難の末再興し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は節分・お山開き開闢・閉闢の年三回あり、さらにお山開き開闢時には石鎚登山ロープウェイ下谷駅前でも行なわれる。

 歴史
 役の行者(役小角)が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「為せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇蔵王権現となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。

 後に石仙(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして、弟子の寂仙[注釈 2]が山頂への登山道を整備した。桓武天皇(782年〜805年)が病気を患った時、常住舎で平癒の祈願をし成就したことによって当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに空海(弘法大師)が19歳(793年頃)の時に石峯(石鎚山)に跨りてと『三教指帰』に自ら記しているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られ、当寺(常住)に1591年伊予の領主となった福島正則が参籠した。徳川家にも崇敬され1610年豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則がその普請奉行となる。そして、西条藩主・小松藩主も厚く遇した。なお、当寺は山頂の弥山に存在する石鈇蔵王権現社(現在の石鎚神社奥宮頂上社)の別当寺で、東の遥拝所でもあった。

 江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓の橘郷に出張所として里寺納経所で通称里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶようになった。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』には、奥前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍であったことを表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった。1657年西条藩主一柳直興が里前神寺に仏殿を建立し、西条藩主になった松平家の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり、高三石を寄附し、三葉葵の寺紋を許した。1752年には徳川家重が1778年には徳川家治が、里前神寺に厄除け祈祷を命じたと記録がある。

 明治初年の神仏分離令により神仏混淆を禁止し権現号菩薩号が廃止、廃寺となり明治22年(1889年)前神寺の旧称に復した。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに石鎚登山ロープウェイの開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。 昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。 その後、本堂は本尊とともに火災で焼失、昭和47年(1972年)本堂は再建され、本尊も新造された。その本尊は古来より秘仏。

 境内
 本堂:入母屋造で屋根は青い銅板葺き。本尊は蔵王権現の本地仏である阿弥陀如来立像で秘仏。四国(東予)七福神の寿老人を合祀。
 石鈇権現堂:石鈇山蔵王大権現を祀る。三体の権現像が毎月一度開帳され、加持される。12月と1月以外は本堂に祀っており権現堂には蔵王権現は不在。
 薬師堂:本尊薬師如来は秘仏、向かって左脇陣には賓頭盧像。
 護摩堂:毎月20日護摩が焚かれる。
 お滝不動:大師堂右の石段を登った場所にあり、滝打修行が行われていた。現在は水量も乏しく、1円玉を投げて滝下の岩肌に張り付くとご利益があるといわれる。
 弁財天祠
 稲荷社祠
 浄土橋

 十三仏像(舟形石仏)
 水子地蔵菩薩像(鋳造像)
 修行大師像(レリーフ石像)
 金毘羅堂(小堂)
 穴薬師(側面に掘られた祠)
 大師堂:全身真っ黒い大師像。玉眼。不定期で拝観できる。
 鐘楼堂
 庫裡・納経所
 極楽橋

 句碑:白象(高野山元管長森寛紹)「石鎚の麓の寺の秋遍路」が山側にあり、小林一茶「御百度や花より出て花尓入」が向かいにある。
 駐車場:30台、大型5台、無料。
 山門(惣門)
 惣門をくぐって参道を進み左に折れて薬師谷川をわたると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏・納経所がある。そして 右に折れると左に大師堂、穴薬師が右には金毘羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちるお滝不動明王像、弁財天祠、稲荷社祠がある。石段を上がるとすぐに護摩堂、薬師堂があって、最も奥に本堂が建つ。本堂右の丘に石鉄権現堂がある。参道の鬱蒼とした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立ち並ぶ境内には、老樹が生い茂り、深山幽谷の佇まいを見せている。

 新四国八十八:明治25辰年3月21日開設。64番は石鈇権現堂への石段下。本堂背後の薬師谷川の砂防ダムの石段を上がった右斜面に88番その先に1番から順に上がって行きぐるっと回って不動堂右奥に63番へと下りてくる。65番以降は大師堂左背後の境内進入口から山の上へ上がって行くと順打ちである。
 宿坊:無し

 文化財
 西条市指定書跡

 石鎚修験道に関する古文書 今から約二百年余前の文書 昭和51年3月10日指定
 横峯寺出入(御室御所ご裁許後道後先達中の披露の節定書):巻物一巻
 修験道に関する綴:一冊
 行事
 毎月20日 権現様縁日
 石鉄権現堂で、20時00分から開帳される3体の蔵王権現に体の悪い部分をこすりつけて病気平癒を祈願する。
 御開帳後は護摩堂にて護摩祈祷で御縁日を締めくくる。
 7月1日からの10日間 山開き
 6月30日午前7時に前神寺本堂前で柴灯護摩を催行後、開創以来脈々と受け継がれた三体の権現様と一緒に信者達はバスで石鎚山ロープウェイ下谷駅に向かう。
 午前9時ごろ下谷駅の後方広場で柴灯護摩を行い、ロープウェイで山上駅へ上がり奥前神寺に到着後、権現様の御開帳が行われ午前10時頃には本日の行事は終了。
 7月1日から10日は、奥前神寺で朝5時より護摩が焚かれ参拝者を迎え入れる。この期間は志料で権現様の開帳を受けることができ、特別護摩も随時催行される。
 7月11日午前6時に奥前神寺を出発した権現様と信者達はロープウェイで下山。一方、前神寺を午前6時にバスで山に向かった信者達と下谷駅で合流後、3つの唐櫃(からびつ)に入れられた権現像を担ぎ黒瀬峠を越え前神寺へ列をなし約22 kmを歩いて帰る。途中、御旅所で待ち構えた一般信徒は拝戴を受ける。帰寺後、待ち構えた信徒たちと昼頃本堂前で柴燈護摩が行われる。

 前神寺  愛媛県西条市洲之内甲1426番地

*Wikipedia より

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