覚書2018.1.23―イメージの同一化問題
=======================================
「イメージの同一化問題」を、わかりやすく具体性を伴って言ってみる。
たとえば、他人が通常より輝いて見える、という時に「他人の通常」と
「輝いて見える今」をイメージで結びつけてしまうこと。これがもっと
極端になると、物語の舞台ですばらしかった俳優Aが、舞台を降りた
普通人A'になってもAのイメージで普通人A'を見てしまうこと。
========================================
わたしには、はっきりとつかめないためにいろいろ考え続けていることがある。次のこともそのひとつである。一言で言えば、イメージの同一化問題である。村に回ってきた語りの者が一人称で語る小野小町の物語から、村人たちは語る者と小野小町を同一化したという柳田国男が書き留めた問題でもある。これを江戸期と見ても、背景には現在と全く異なる閉鎖的な地域社会とその文化状況がある。すなわち、地主層などは別にして村人たちは一般に中央の知識層の歌や知識上層のエピソードについてよく知らなかったという事情があったと思われる。
このイメージの同一化問題というのは、太古の神々やその後の歴史時代の貴人たち、そして現在の有名人と呼ばれる人々に対することで、現在にまで形を変えつつ連綿と続いてきている問題だという認識がわたしにはある。
「精霊の守人」が今週で最終回。本は以前読んでいたので、だいたい話はわかっている。昔テレビで物語の映像作品を作る途中の場面、舞台裏を少し見たことがある。俳優を吊って飛んでいるように見せたりもする。作品の観客としては、それは白ける体験である。しかし、アニメとかではない限り生身の俳優たちはそのような舞台裏を通してしか作品世界に登場することはない。
例えば、巫女さんが巫女的な身体に変身し巫女的な幻想との接続状態(トランス状態、変性意識状態)になる内的な過程についてはわたしはよくわからない。舞台裏を見るわたしたちの白ける状態の視線や感覚とは違って、俳優さんたちもいくらか巫女的なトランス状態を持たざるを得ないのではなかろうか。
このことは、それらのトランス状態がずいぶん薄められた形であるが、さらに普遍化すれば誰もが日常で経験していることである。学校や職場などで、みんなの前で挨拶したり、説明したりすることも、その例に当たる。そういった場に立つとき、当事者は「表現的な自己」に変身している。これを逆に言うと、そういう場に立ったり立って何か話さなければならないことに一般に誰もが緊張するが、その中でも極度に緊張し恐れのような感情を持つ者もいる。このことが意味することは、ここで人は「ある幻の舞台」に立ち「表現的な自己」に変身しているということである。これをなんどもくり返していけば、普通人も芸能人もだんだん場慣れしていく。けれども、何度くり返しても離れできずに緊張する人もいる。そういう人は、ふだんの自分から見て「ある幻の舞台」に立ち「表現的な自己」に変身していくことに、恐れや異和感を持っているということは言えるだろう。自分の普通の世界とは異質すぎるのだ。
俳優さんたちは部分的にも物語世界の要求する「表現的な自己」あるいは「表現的な身体」になりきらないと物語的な真に迫ったり、物語的な真を支えたりすることができないだろう。主人公の短槍使いの用心棒バルサ(綾瀬はるか)、その槍の師で父親代わりでもあったジグロ(吉川晃司)。わたしはいずれもカッコいいなと思う。
しかし、寡黙なジグロは俳優の吉川晃司そのものではない。もちろん、吉川晃司の固有の個性のようなものはジグロに付加されてくることは確かだろうが、本質として、バルサ≠綾瀬はるかであり、ジグロ≠吉川晃司である。
遠い昔から今もなお、バルサ≒綾瀬はるか、ジグロ≒吉川晃司という意識をわたしたちは持っている。例えば、韓流ドラマのロケ地を訪れたり、その登場人物役の俳優にワーワーキャーキャー言ったり、関連グッズを買ったりするのは、そういう意識に支えられていると思う。わたしは、俳優を見てその俳優が演じた物語のイメージがくっついてくることがあるとしても、物語作品と俳優は分離する。
わたしは、そういう役をやり遂げたという俳優としての評価は別にする。しかし、そういう俳優≒物語世界という同一化の意識が、その俳優のコマーシャル出演した時の宣伝効果やグッズの販売やロケ地観光などのいろんな産業に貢献して、現代社会を経済活動やイメージ力として支えているように思う。それは、俳優やスポーツ選手や歌手などあらゆる「有名人」と呼ばれるものに当てはまる。
このような遙か太古からの「イメージの同一化問題」をわたしは否定的にのみ考えているわけではない。もちろん、その現在的な有り様に異和感もある。しかし、これは人間の本性と深くつながっている問題であり、そう簡単に解きほぐせるような問題とは思わない。つまり、とっても根深い問題だと思っている。
最後に、子どもっぽい素朴な疑問に見えるかもしれない時折浮かんでくる疑問がある。物語や映像作品に限らず、美術や音楽やダンスや・・・、つまり芸術は、言葉や映像や色形や音などの物理的なものを素材としつつも、また、たんなる人が作る「作り物」に過ぎないのに、それを味わうわたしたちはなぜ真に迫った感じを受けたり、身を震わせたり、感動したりするのだろうか。
もちろん、理屈はなんとなくわかる。人類は、とても果てしない旅の中で、見慣れた現実の風景や人間以外に、言葉やイメージ力を獲得し、徐々にそれを練り上げて想像世界を築くようになってしまったからであろう。ここでのわたしの素朴な疑問は、吉本さんが『老いの超え方』(2006年)の「あとがき」で記した、ゲーテのあの問いと同質のものではないかと思い浮かべている。
註.数学記号。
「≠」、等しくない。
「≒」、ほぼ等しい。
(ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます