作者と作品世界
大塚英志は、吉本さんとの対談『だいたいで、いいじゃない。』の対談相手として知っている程度であった。最近ツィターで見かけた。そこで戦争期の太宰治の作品について否定的に触れているツイートに二、三度出会ったことがある。最初は、太宰治の「女生徒」についてだった。以下の引用文にも同様のことが述べてある。青空文庫にある「女生徒」を読んでみて、大塚英志は作品の舞台中でのある場面における女生徒の発した言葉を作者の言葉と同一化しているのではないかという印象を持った。
わたしの太宰治の作品に対する印象では、あからさまな戦争讃美や戦争協力的な作品は書いていないという思いがある。柳田国男とともに、太宰治も、割りといい戦争の潜り抜け方をしてきたようにわたしは捉えてきた。
また、最近、大塚英志の、「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち (http://www.webchikuma.jp/articles/-/2041 2020年5月22日更新、とある。)という文章に出会った。この文章は、「ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。」というモチーフから、戦時下の表現が現在のそれと照応しているのではないかという思いから追究されている文章である。ここで太宰治については、以下のように述べている。
この地に足のつかぬ都会の少女なり女性たちが、新体制下、豹変していく様は、城が描き留めた例に留まらない。ぼくは、城の文体から太宰治の「女生徒」を連想する。そこではいうまでもなく、一人称の「私」のふわふわと漂う自意識が冗舌に語られる。それは現在形としても読み得る、自我のあり方だ。
しかし注意して読むと、それは、ファシズムを待つ小説であることもぼくはくり返し書いてきた。またくり返すのは気が引けるが、やはり以下のくだりを引用せざるを得ない。これも考えてみれば、男による女文字だ。太宰の危うさもそこにある。
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威を以て指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。(中略)こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
(太宰治「女生徒」)
ぼくはこの十年近く、ずっと今はファシズムを待つ戦時下だと語っては失笑されてきた。しかし、この世界が待っていたのは此のような「強い力」であったことは、やっと実感してもらえるだろう。
言うまでもなく「女生徒」は日中戦争開戦後の1939年に書かれ、同名の単行本に収録されるが、1942年、つまり日米開戦の翌年、短編集『女性』に再録される。ぼくはこの短編集が「女生徒」の読まれる文脈を正確に示しているとずっと言ってきた。そこには「十二月八日」と題された短編が収録される。それが女生徒ではなく主婦のモノローグとして語られ、日米開戦当時の「わたし」の変容がこう描写される。
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。
(太宰治「十二月八日」、太字筆者)
ふわふわと地に足のつかない「わたし」が着地したのはどこであったかは明らかである。そこで主婦となった「わたし」は「昭和十六年の十二月八日」の「生活」を「ていねいに」書こうと決意するのだ。「ていねいな暮らし」の「ていねい」がここから始まったと強弁する気はないが、彼女が新体制下に「ていねいな」「生活」を発見した事だけは確かである。その彼女たちが担う「新体制生活」のフィクサーの一人が、女文字の花森安治であったのは既に見た。
わたしたちは、他者に対していくつもの異なるイメージを持ち、描写することができる。ということは、自分も他者たちからいくつもの異なるイメージを抱かれているということになる。わたしたちは、割りと均質な社会に生きていて、その均質なイメージの影響下にあっても、わたしたち一人一人が異なる生い立ちを持っているから、他者に対してそれぞれの抱き放つイメージの根っこやイメージの織り上げ方が違ってきて、そういう事情になるのだと思われる。こうした事情は、ある作品を読んだ場合の印象が人それぞれだという事情と同型である。他者も作品も、さらに言えばあらゆる対象も、その人の固有の向きから眺められ、イメージを持つと言えそうである。
大塚英志の作品の読みも、そのような彼固有の向きから眺められ、感じ取られたものである。ここで、わたしは、大塚英志の作品の読みがそれでいいのかというモチーフのみからこれを取り上げている。したがって、作者と作品世界の関わりが問題となる。
まず、一般的に見て、ひとりの人間が(よおし作品を書くぞ)と「作者」に変身して、ある大雑把なモチーフを持って「作品世界」を作ろうとする。「作者」は現在を生きて呼吸しているから、もちろんそのモチーフには現在に対する作者の位置や判断が織り込まれている。作品の言葉を書き記していくのは「作者」であるが、「作者」が直接「作品世界」に登場するのではなく、「語り手」や「登場人物」を「作品世界」の内に派遣する。「作者」は「作品世界」のそでの部分、背後にいて「作品世界」の流れを眺めながら書き記していく。もちろん、書き進めながらモチーフの具体化で最初に抱いていたイメージに追加したり、修正したりしていく。そのことを具体的に実践するのは、「作品世界」の「語り手」や「登場人物」である。だからこの場合、作者のモチーフと任意の登場人物の言動を直ちに同一であると見なすことはできない。
この短編「十二月八日」という「作品世界」に登場する主な者は、主人、主婦(妻)、園子(今年六月生れの女児)、主人のお友だちの伊馬さん、である。伊馬さんは、太宰治の知り合いの伊馬春部のようである。また、太宰治の長女は園子と言う名前で、年譜によると昭和十六年の六月生まれである。つまり、この作品中の設定は、作者太宰治の家族や知り合いが登場する場面であり、その家族などの実像を借りている私小説的な作品になっている。もちろん、場面の選択や作品としての構成には作者の表現的な配慮がなされている。具体的には、上の引用部にあるように主婦が日記をつける場面から作品世界は始まっている。
作者の作品に込めたモチーフは、作品に登場するすべての人々の言動が関わっているが、一般に主人公がその多くを担っている。したがって、表現としても主人公の言動に意識のアクセントが置かれることになる。
この作品では、作家太宰治の奥さんと思しき主婦が、主人公であり、同時に語り手になっているように見える。表舞台に立っているのは、確かにこの主婦である。作家である主人の言動は、その主婦によって語られるのみで、主婦の背後に陰の存在となっているからである。そうして、現実的にはどうだったかはわからないが、この主婦は、戦時下の戦争推進や戦争協力的な主婦として描かれている。たぶん、当時の大部分の大衆は、表向きとしては特にそうした意識を持っていたと思われる。作者太宰治は、そうした普通の人々の像を奥さんと思しき主婦や近隣の人々に見ていたと思う。
語り手の主婦によって語られる主人の像は、戦争に対する非難がましいことを言うわけではないし、主婦のように積極的に戦争推進や協力の言動をするわけでもない。主婦から見たら、主人は少し変わったところのあるダメな人として描かれている。ここで、主婦= 語り手が、この作品の主人公であると断定すると、作者太宰治の意識のアクセントやモチーフが主婦の上に置かれていることになり、大塚英志が引用部で述べたような戦時下のそれを肯定するような作品になるだろう。わたしは、それは違うのではないかと思っている。太宰治は、そんな単純な構成の作品を書く人ではない。本文からいくつか抜き出して考察してみる。(以下の引用は、青空文庫、太宰治「十二月八日」より)
1.この百年後からの視線を意識した日記という想定には、作者の現在への微かな批評精神が働いている。また、表現の表舞台に立ち今から語っていく「主婦」は、背後の主人の批評によって相対化されている。また逆に、以下の2.や3.に見られるように主人も主婦の語りによって相対化されている。これらのことは作者のモチーフの実現のために、ずいぶん意識されたものだと思われる。
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。でも、あんまり固くならない事にしよう。主人の批評に依れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。
2.このような「どうだっていいような事」を主人が考えたり、話したりしているのは、主婦の視線からは「馬鹿らしい」と否定されている。しかし、社会の中でも戦争色が強まる中で、それに心からは馴染めない、自分の抱えている人間の本質問題へのモチーフとは交差しないという思いが作者の中にはあったのだろう。わたしは実感としてわかるが、そういうときには、このようなどうでもいいように見えることを語るほかないのである。例えば現在で言えば、オリンピックに興味関心がゼロであるわたしが、もしオリンピックを語る、語らざるを得ない場面に遭遇したとしたら、以下のような主人と伊馬さんのような語りになるほかないのである。主人は、舞台の背後の存在として語られているが、これはまさしく主人、すなわち作者のこの社会の中で一段落ち込んだ場所を精神的にも生存の有り様としても生きているということと対応するような構成になっている。また、主人の有り様は以下の引用末尾あたりの主婦の言葉によって相対化されている。
紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いて噴き出した。
「どうも、この、紀元二千七百年(しちひゃくねん)のお祭りの時には、二千七百年(ななひゃくねん)と言うか、あるいは二千七百年(しちひゃくねん)と言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。僕は煩悶しているのだ。君は、気にならんかね。」
と伊馬さん。
「ううむ。」と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。」
「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。なんだか、そんな気がするんだ。だけど僕の希望をいうなら、しちひゃくねん、と言ってもらいたいんだね。どうも、ななひゃく、では困る。いやらしいじゃないか。電話の番号じゃあるまいし、ちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。何とかして、その時は、しちひゃく、と言ってもらいたいのだがねえ。」
と伊馬さんは本当に、心配そうな口調である。
「しかしまた、」主人は、ひどくもったい振って意見を述べる。「もう百年あとには、しちひゃくでもないし、ななひゃくでもないし、全く別な読みかたも出来ているかも知れない。たとえば、ぬぬひゃく、とでもいう――。」
私は噴き出した。本当に馬鹿らしい。主人は、いつでも、こんな、どうだっていいような事を、まじめにお客さまと話合っているのです。センチメントのあるおかたは、ちがったものだ。私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。どんなものを書いているのか、私は、主人の書いた小説は読まない事にしているので、想像もつきません。あまり上手でないようです。
3.主人の戦争に関する言葉が語られてはいるが、「よそゆきの言葉でお答えになった」という付帯条項がある。夫婦の会話なのによそゆきの言葉とは解せないという思いとともに、主婦が敏感に「よそゆきの言葉」と察知したのはわかるとして、そのことを語らざるを得なかったということが心にかかる。「よそゆきの言葉」は、以下の「主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならない」ということと対応している。つまり、主人の内心の有り様は、別様であるということを作者としては指示したかったのだろうと思われる。
主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、
「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」
と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」
と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。
4.主婦の内心の地形図ともいうべきものが作者によって描写されている。社会の上層から下りてくる戦争の気配に感激を持って敏感に反応しつつ、一方では、社会の片隅の生活の小さな場面に喜びや安らぎを感じている。これはこの主婦に限らず戦時下の大衆の一般的な内心の地形図だったはずである。
夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。
作者太宰治には、作品を構成する上で戦前の検閲ということもいくらか考慮されているのかもしれないが、それ以上に、太宰治は精神的にも生存としてもこの社会の落ち込んだ場所を生きる者であったということから、この「十二月八日」のような、百年後の世界からの視線や主人は舞台の背後に位置するというような表現の構成になったのではないか。だから、ほんとうの舞台、ほんとうの主人公は、表舞台に立つ主婦ではなく、舞台の背後にいる主人だと思う。
主婦は、日々の生活を生きながらも、意識の一方では戦争にのめり込んでいる。主人はそうでもない。主人が、どうでもいいようなことにこだわっているのは、主題(戦時下)とはある程度無縁を生きているからではないか。そうして、主婦と主人、近隣の人々、それらの登場人物を眺める作者太宰治の心の有り様もまた、ほんとうの主人公である主人のそれと同様のものであったと言えるだろう。
大塚英志は、吉本さんとの対談『だいたいで、いいじゃない。』の対談相手として知っている程度であった。最近ツィターで見かけた。そこで戦争期の太宰治の作品について否定的に触れているツイートに二、三度出会ったことがある。最初は、太宰治の「女生徒」についてだった。以下の引用文にも同様のことが述べてある。青空文庫にある「女生徒」を読んでみて、大塚英志は作品の舞台中でのある場面における女生徒の発した言葉を作者の言葉と同一化しているのではないかという印象を持った。
わたしの太宰治の作品に対する印象では、あからさまな戦争讃美や戦争協力的な作品は書いていないという思いがある。柳田国男とともに、太宰治も、割りといい戦争の潜り抜け方をしてきたようにわたしは捉えてきた。
また、最近、大塚英志の、「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち (http://www.webchikuma.jp/articles/-/2041 2020年5月22日更新、とある。)という文章に出会った。この文章は、「ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。」というモチーフから、戦時下の表現が現在のそれと照応しているのではないかという思いから追究されている文章である。ここで太宰治については、以下のように述べている。
この地に足のつかぬ都会の少女なり女性たちが、新体制下、豹変していく様は、城が描き留めた例に留まらない。ぼくは、城の文体から太宰治の「女生徒」を連想する。そこではいうまでもなく、一人称の「私」のふわふわと漂う自意識が冗舌に語られる。それは現在形としても読み得る、自我のあり方だ。
しかし注意して読むと、それは、ファシズムを待つ小説であることもぼくはくり返し書いてきた。またくり返すのは気が引けるが、やはり以下のくだりを引用せざるを得ない。これも考えてみれば、男による女文字だ。太宰の危うさもそこにある。
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威を以て指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。(中略)こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
(太宰治「女生徒」)
ぼくはこの十年近く、ずっと今はファシズムを待つ戦時下だと語っては失笑されてきた。しかし、この世界が待っていたのは此のような「強い力」であったことは、やっと実感してもらえるだろう。
言うまでもなく「女生徒」は日中戦争開戦後の1939年に書かれ、同名の単行本に収録されるが、1942年、つまり日米開戦の翌年、短編集『女性』に再録される。ぼくはこの短編集が「女生徒」の読まれる文脈を正確に示しているとずっと言ってきた。そこには「十二月八日」と題された短編が収録される。それが女生徒ではなく主婦のモノローグとして語られ、日米開戦当時の「わたし」の変容がこう描写される。
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。
(太宰治「十二月八日」、太字筆者)
ふわふわと地に足のつかない「わたし」が着地したのはどこであったかは明らかである。そこで主婦となった「わたし」は「昭和十六年の十二月八日」の「生活」を「ていねいに」書こうと決意するのだ。「ていねいな暮らし」の「ていねい」がここから始まったと強弁する気はないが、彼女が新体制下に「ていねいな」「生活」を発見した事だけは確かである。その彼女たちが担う「新体制生活」のフィクサーの一人が、女文字の花森安治であったのは既に見た。
わたしたちは、他者に対していくつもの異なるイメージを持ち、描写することができる。ということは、自分も他者たちからいくつもの異なるイメージを抱かれているということになる。わたしたちは、割りと均質な社会に生きていて、その均質なイメージの影響下にあっても、わたしたち一人一人が異なる生い立ちを持っているから、他者に対してそれぞれの抱き放つイメージの根っこやイメージの織り上げ方が違ってきて、そういう事情になるのだと思われる。こうした事情は、ある作品を読んだ場合の印象が人それぞれだという事情と同型である。他者も作品も、さらに言えばあらゆる対象も、その人の固有の向きから眺められ、イメージを持つと言えそうである。
大塚英志の作品の読みも、そのような彼固有の向きから眺められ、感じ取られたものである。ここで、わたしは、大塚英志の作品の読みがそれでいいのかというモチーフのみからこれを取り上げている。したがって、作者と作品世界の関わりが問題となる。
まず、一般的に見て、ひとりの人間が(よおし作品を書くぞ)と「作者」に変身して、ある大雑把なモチーフを持って「作品世界」を作ろうとする。「作者」は現在を生きて呼吸しているから、もちろんそのモチーフには現在に対する作者の位置や判断が織り込まれている。作品の言葉を書き記していくのは「作者」であるが、「作者」が直接「作品世界」に登場するのではなく、「語り手」や「登場人物」を「作品世界」の内に派遣する。「作者」は「作品世界」のそでの部分、背後にいて「作品世界」の流れを眺めながら書き記していく。もちろん、書き進めながらモチーフの具体化で最初に抱いていたイメージに追加したり、修正したりしていく。そのことを具体的に実践するのは、「作品世界」の「語り手」や「登場人物」である。だからこの場合、作者のモチーフと任意の登場人物の言動を直ちに同一であると見なすことはできない。
この短編「十二月八日」という「作品世界」に登場する主な者は、主人、主婦(妻)、園子(今年六月生れの女児)、主人のお友だちの伊馬さん、である。伊馬さんは、太宰治の知り合いの伊馬春部のようである。また、太宰治の長女は園子と言う名前で、年譜によると昭和十六年の六月生まれである。つまり、この作品中の設定は、作者太宰治の家族や知り合いが登場する場面であり、その家族などの実像を借りている私小説的な作品になっている。もちろん、場面の選択や作品としての構成には作者の表現的な配慮がなされている。具体的には、上の引用部にあるように主婦が日記をつける場面から作品世界は始まっている。
作者の作品に込めたモチーフは、作品に登場するすべての人々の言動が関わっているが、一般に主人公がその多くを担っている。したがって、表現としても主人公の言動に意識のアクセントが置かれることになる。
この作品では、作家太宰治の奥さんと思しき主婦が、主人公であり、同時に語り手になっているように見える。表舞台に立っているのは、確かにこの主婦である。作家である主人の言動は、その主婦によって語られるのみで、主婦の背後に陰の存在となっているからである。そうして、現実的にはどうだったかはわからないが、この主婦は、戦時下の戦争推進や戦争協力的な主婦として描かれている。たぶん、当時の大部分の大衆は、表向きとしては特にそうした意識を持っていたと思われる。作者太宰治は、そうした普通の人々の像を奥さんと思しき主婦や近隣の人々に見ていたと思う。
語り手の主婦によって語られる主人の像は、戦争に対する非難がましいことを言うわけではないし、主婦のように積極的に戦争推進や協力の言動をするわけでもない。主婦から見たら、主人は少し変わったところのあるダメな人として描かれている。ここで、主婦= 語り手が、この作品の主人公であると断定すると、作者太宰治の意識のアクセントやモチーフが主婦の上に置かれていることになり、大塚英志が引用部で述べたような戦時下のそれを肯定するような作品になるだろう。わたしは、それは違うのではないかと思っている。太宰治は、そんな単純な構成の作品を書く人ではない。本文からいくつか抜き出して考察してみる。(以下の引用は、青空文庫、太宰治「十二月八日」より)
1.この百年後からの視線を意識した日記という想定には、作者の現在への微かな批評精神が働いている。また、表現の表舞台に立ち今から語っていく「主婦」は、背後の主人の批評によって相対化されている。また逆に、以下の2.や3.に見られるように主人も主婦の語りによって相対化されている。これらのことは作者のモチーフの実現のために、ずいぶん意識されたものだと思われる。
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。でも、あんまり固くならない事にしよう。主人の批評に依れば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目なばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。
2.このような「どうだっていいような事」を主人が考えたり、話したりしているのは、主婦の視線からは「馬鹿らしい」と否定されている。しかし、社会の中でも戦争色が強まる中で、それに心からは馴染めない、自分の抱えている人間の本質問題へのモチーフとは交差しないという思いが作者の中にはあったのだろう。わたしは実感としてわかるが、そういうときには、このようなどうでもいいように見えることを語るほかないのである。例えば現在で言えば、オリンピックに興味関心がゼロであるわたしが、もしオリンピックを語る、語らざるを得ない場面に遭遇したとしたら、以下のような主人と伊馬さんのような語りになるほかないのである。主人は、舞台の背後の存在として語られているが、これはまさしく主人、すなわち作者のこの社会の中で一段落ち込んだ場所を精神的にも生存の有り様としても生きているということと対応するような構成になっている。また、主人の有り様は以下の引用末尾あたりの主婦の言葉によって相対化されている。
紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いて噴き出した。
「どうも、この、紀元二千七百年(しちひゃくねん)のお祭りの時には、二千七百年(ななひゃくねん)と言うか、あるいは二千七百年(しちひゃくねん)と言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。僕は煩悶しているのだ。君は、気にならんかね。」
と伊馬さん。
「ううむ。」と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。」
「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。なんだか、そんな気がするんだ。だけど僕の希望をいうなら、しちひゃくねん、と言ってもらいたいんだね。どうも、ななひゃく、では困る。いやらしいじゃないか。電話の番号じゃあるまいし、ちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。何とかして、その時は、しちひゃく、と言ってもらいたいのだがねえ。」
と伊馬さんは本当に、心配そうな口調である。
「しかしまた、」主人は、ひどくもったい振って意見を述べる。「もう百年あとには、しちひゃくでもないし、ななひゃくでもないし、全く別な読みかたも出来ているかも知れない。たとえば、ぬぬひゃく、とでもいう――。」
私は噴き出した。本当に馬鹿らしい。主人は、いつでも、こんな、どうだっていいような事を、まじめにお客さまと話合っているのです。センチメントのあるおかたは、ちがったものだ。私の主人は、小説を書いて生活しているのです。なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。どんなものを書いているのか、私は、主人の書いた小説は読まない事にしているので、想像もつきません。あまり上手でないようです。
3.主人の戦争に関する言葉が語られてはいるが、「よそゆきの言葉でお答えになった」という付帯条項がある。夫婦の会話なのによそゆきの言葉とは解せないという思いとともに、主婦が敏感に「よそゆきの言葉」と察知したのはわかるとして、そのことを語らざるを得なかったということが心にかかる。「よそゆきの言葉」は、以下の「主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならない」ということと対応している。つまり、主人の内心の有り様は、別様であるということを作者としては指示したかったのだろうと思われる。
主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、
「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」
と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」
と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。
4.主婦の内心の地形図ともいうべきものが作者によって描写されている。社会の上層から下りてくる戦争の気配に感激を持って敏感に反応しつつ、一方では、社会の片隅の生活の小さな場面に喜びや安らぎを感じている。これはこの主婦に限らず戦時下の大衆の一般的な内心の地形図だったはずである。
夕刊が来る。珍しく四ペエジだった。「帝国・米英に宣戦を布告す」という活字の大きいこと。だいたい、きょう聞いたラジオニュウスのとおりの事が書かれていた。でも、また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。
作者太宰治には、作品を構成する上で戦前の検閲ということもいくらか考慮されているのかもしれないが、それ以上に、太宰治は精神的にも生存としてもこの社会の落ち込んだ場所を生きる者であったということから、この「十二月八日」のような、百年後の世界からの視線や主人は舞台の背後に位置するというような表現の構成になったのではないか。だから、ほんとうの舞台、ほんとうの主人公は、表舞台に立つ主婦ではなく、舞台の背後にいる主人だと思う。
主婦は、日々の生活を生きながらも、意識の一方では戦争にのめり込んでいる。主人はそうでもない。主人が、どうでもいいようなことにこだわっているのは、主題(戦時下)とはある程度無縁を生きているからではないか。そうして、主婦と主人、近隣の人々、それらの登場人物を眺める作者太宰治の心の有り様もまた、ほんとうの主人公である主人のそれと同様のものであったと言えるだろう。
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