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ツイート集3月2~3日(私と公ということ)

2017年03月04日 | ツイート集

ツイート集3月2~3日
 
 
覚書2017.3.02
「都市と農村」とか「知識人と大衆」とかいう言葉は、、現在ではそれらの現実的な根拠(基盤)の払底によって死語になってきている。それらの言葉が対立的な様相を含んで生きていた時代の渦中ではその先を見通すことは困難だったに違いない。現在は、その未来にいるわけである。
 
覚書2017.3.02
そして現在もまた、過去の「都市と農村」とか「知識人と大衆」とかの対立的な様相を、また違った形でくり返しているのは確かなことであろう。ここには、考察すべき歴史の大きな主流の振る舞い方がある。
 
覚書2017.3.03 
例えば、ナマハゲが近づいたり、追いかけられたりすると小さい子は泣き叫ぶ。物心つくとなあんだ違うじゃないかとわかるから恐怖心は減る。小さい子同様の太古の人々にとって大いなる自然も「ナマハゲ」も恐いものだったろう。その感覚がわかりたい。人間の現在を知るためにも
 
覚書2017.3.03
花咲かじいさんという説話がある。今話題の森友学園のおじいさんは、「いじわるじいさん」なのだろうか?それとも、木から転げ落ちそうな「花咲かじいさん」で、物事にはちゃんと裏があるんだよという世間智の張り付いた真性の「花咲かじいさん」の物語なんだろうか。
 
覚書2017.3.03
オウムと同じく、あらゆる宗教思想や組織は悩める人や失意の人を漁(すなど)りこの社会をかき回し、社会にくさびを打とうとする。もちろん、それ自体は悪ではない。わたしもまた、この社会の渦中の「ひとり」としてこの社会を超えたいと思うし、日々構想することをやめない。
 
覚書2017.3.03
オウムのように間違った人間認識や社会像からとんでもない悪行にはずれないためには、「人間」というものに対するどれほどの柔らかく包み込むような見識を持っているかが問題である。中にはまれにも、「イエスの方舟」の、千石剛賢のような優れた人もいた。
 
覚書2017.3.03
現在の政権とそれを取り巻く宗派の人間認識や社会像は、ふしぎなことに現在のグローバリズムの経済社会としっかりと親和しているが、現在の民主制の社会より遙か以前の段階のものである。そのイデオロギーの核には、身内だけはなあなあの親族的なつながりの意識や組織性が見られる。
 
2017/03/03
今『文字講話Ⅱ』の終わりがけ「戦争」のところを読んでいる。白川静さんは、たぶん本場中国の学者よりも抜きんでた考察を展開してきていると思う。漢字の元々の形や構成から例えば「戦」の意味とそこに込めた当時の考え方を読み取っていく。すごいとしか言い様がない。「精神の考古学」。
 
1.「森友学園」(籠池泰典理事長)の名誉校長
2.鈴蘭会の名誉会長
これらは、強制されて就任したのではなく同意の上ということ。就任している以上、該当組織の問題に対する責任を負う。特に前者は、「内閣総理大臣夫人」という羽衣(公人)をひけらかされ受け入れている点で公人としての責任がある。
 
土生内閣審議官、答弁が見苦しい。あやしいけど万一「昭恵夫人の私的な出費」としても、現場で紹介されているとおりの公人・「内閣総理大臣夫人」・安倍昭恵に決まっているではないか。役人も同行しているし。
 
1.「森友学園」(籠池泰典理事長)の名誉校長
2.鈴蘭会の名誉会長
これらは、強制されて就任したのではなく同意の上ということ。就任している以上、該当組織の問題に対する責任を負う。特に前者は、「内閣総理大臣夫人」という羽衣(公人)をひけらかされ受け入れている点で公人としての責任がある。
 
(学校法人森友学園、塚本幼稚園副園長 籠池諄子の文章)の末尾の「この小学校建設により国がかわる、社会がかわる、子供がかわる。私もかわる。」。やっぱり、宗教団体やイデオロギー組織と同じく国や社会にくさびを打つことを考えているんだ。普通であれば、社会内存在の・・・社会に貢献できるような子供を育てる、というのが一般的学校。
 
↓ 日本会議のようにこの民主制の社会以前の感性や思想やイデオロギーにイカレタ人々は、私と公ということの区別がよくわかっていない。つまり、公私混同を平気でやる。総理大臣夫人・安倍昭恵もこの菅官房長官も同類で、苦し紛れの言い訳に過ぎない。
 
↓ 例えば、会社という組織に入れば「私」は潜在化し、その一員の「公人」として応対したり仕事をする。同一人物でも、会社を出て自宅に帰り着けば私人に戻る。会社の外であっても、・・・係長・山田太郎として仕事する場合は、会社の中の一員としての「公」人としての行動になる。
 
↓ 総理大臣夫人・安倍昭恵として、森友学園で講演したり、名誉校長になったり、HPの挨拶の肩書きとして付いていたりするのだから、交通費がたとえ自費であろうと「公」人としての行動になる。だいたい総理夫人として出歩けば、他人からそのように遇されるわけだから、存在自体が「公」人である。
 
↓ もし私人・安倍昭恵として存分に行動したければ、「総理大臣夫人」という公的な「羽衣」を脱ぎ捨てるしかない。(おわり)


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