さてが続いてます。
ユダの福音書を目にしたので買ってきた。
失われた部分が多く、断片的な福音書である。
発見当初は、然程(さほど)、損傷はひどくなかったらしい。
将来、失われた部分が明らかにされることを願うのみである。
さて、ユダを強調した聖書であるが、所謂(いわゆる)新訳聖書をよく読んでみると、12使徒といわれる人々がイエスをよくわかっていないことは明らかである。
しかも、新約聖書にはイエスが語った真実は何も知らされていないのである。
新約聖書には、こうある。
「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(マルコ 16-14)
イエスは弟子達に、生前に語っていたのではないか!
ここで、十一弟子というところに注目してほしい。
ユダは既に、イエスを売り渡すことにより死んでいる。
隠しようもなく、十一弟子はイエスの神聖を理解しておらず、ユダがイエスの死をサポートする役割をおこなったことは、新約聖書をよくよく読むと理解可能なのである。
聖書をどう読むか。
それは、頭から信じるのではなく、その奥に隠された真実を引き出す”知性”が必要となるのだ。
ユダの福音書は、その一端にすぎない。
聖書を読んだことのない方がいるでしょうから、ユダの福音書に関係する部分を新約聖書から引用してみよう。
イエスは12使徒の無知について、充分知っていたのである。
まず、マタイから。
「イエスは答えて言われた、『あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。・・・それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。』
だが、新約聖書には、使徒に語ったことは記されていないのである。
あれ、ならば何で聖書は“聖書”なの?
実は、イエスの語ったことの真実は口述されたのである。
つまり、書かれていないのである。
さて、12使徒、或いは11使徒かも知れないが、まったくイエスの言葉を理解していなかったことは確かである。
そのことは、前述した引用で分かるであろう。
イエスは何度も、自分が磔にされることを弟子達に語っていた。
引用してみよう。
「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。』と言った。
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
「イエスは『人の子が死人の中からよみがえるまで、いま見たことをだれにも話してはならない』と、彼ら(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)に命じられた。」(マタイ)
マタイ伝ではあと2ケ所あり、マルコでも、ルカでもヨハネでもでてくる。
イエスは自分の運命を預言し、それを実行させる役割が、ユダであることは聖書を読む限り明らかなのである。
他の11弟子は、そのことを理解していないこと、イエスを普通の人間とみており、精々、預言者くらいにみていたもと思われる。
ユダが死んだあと、イエスの蘇りがマグダラのマリアに最初にもたらされたということも聖書に書いてある。
イエスが、マグダラのマリアを信頼していた証である。
こうしてみると、聖書から除外されたマリアの福音書やユダの福音書は、その内容がどうであれ、成立すべきものとして書かれたことは、一端の真実を伝えたいるものといっていいであろう。
私は、グノーシスという内容を最近知ったが、その神話と言われる部分は信じていないが、私はグノーシスそのもであることを確信した。
聖書をどう読むか。
それは貴方の知性と深い洞察力が必要となる。
私も道半ばであるが、皆さんも努力することを願うのみである。
では、また。