スカッと
前回のブログ(ユダの福音所書)を読んでみると、何やらあちこちに飛んだ文章になっているので、ここで整理してお伝えしたいと思う。
①新約聖書には、天国(霊の王国)の奥義は書いてない。
イエスは、人々に譬え話で色々と語っているが、神とは何か、霊の世界とは何かなどは一切語っていないし、聖書にも見当たらない。
その理由は、「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」(マタイ 13.13)とされる。
当時のユダヤはローマに占領され、属国とされていたが、人々はメシア(救世主)待望論が強く、人々が待ち望んでいたところにイエスが登場したのである。
人々が望んでいたメシア、キリストは、当時のユダヤをローマから救うユダヤ王国(地上の王国)の王=メシアであって、イエスの語った霊の王国ではなかったのである。
人々が望むメシアとイエスの言葉には、大きな隔たりがあったのである。
そこで、譬えで話すことになったと考えられる。
②では、弟子達に奥義を話したのであろうか?
イエスは、弟子に譬え話の説明はしている‐聖書にある‐が、奥義というほどのものではない。
結局、イエスが弟子に口述したらしい内容は、闇の中である。
③イエスは読心術の達人であったらしい。
ユダヤのラビ(教師)が、イエスがキリストらしいという噂を聞いて、イエスについて調べた‐直接、会うことはできなかったが‐調査報告をみると、どうも、イエスは人の心が読めたらしい。
そう、イエス周辺の人々が証言している。
で、あるならば、12使徒と言われる人々の考えなども見抜いていたであろうことは想定できる。
そこでイエスを売ったイスカリオテのユダであるが、ユダはイエス集団の会計を預かっていた人である。
聖書には、ユダがお金をちょろまかしたということが書いてあるらしいが、イエスがそんな人物に会計を任せるはずがないであろう。
なにせ、その人物が将来なにをするかぐらいは、見抜いていたのであるから・・・w。
例を上げよう。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」・・・とイエスが言うと、
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
とペテロは答えている。
イエスはそのあとに、「よくあなた(ペテロ)に言っておく。今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言うのだ。
事実、イエスが捕らえられてから、ペテロは三度、イエスを知らないというのである。(マタイ 26.31~75)
つまり、弟子達が何をするか預言できたのであるから、その人選に関して間違ったことをすることは考えられないのである。
もし、ユダがイエスの仲間達のお金をちょろまかすような人間ならば、イエスは人選を誤ったことになり、ただの人ということになる。
④十字架刑はローマ法による。
イエスは、ユダヤ人達に捕らえられる前に、何度か12使徒に自分の運命について語っている。
「さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子(イエスのこと)は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう』。」(マタイ 20.17-19)
さてはて、犬のメメさん、この時点ではユダはまだ裏切っていないのですよね。
全部説明するとなが~い文章になるので、端折っていきます。
イエスは、自分の運命を預言できたのだし、12弟子の運命も預言できたはずですね。
すると、ユダを除く11弟子がイエスの言葉(預言)を信じていなかったことは、前回、聖書を引用して説明しましたね。
消去法から、ユダだけに自分の運命を託すことができると、イエスが考えていたことが想定できるのですよ。
イエスがユダを信頼していたとされる根拠は、自分の運命を託す=実行する唯一の人物として存在するからですね。
ユダヤの法では、死刑は石打の刑ですから、「すべてお見通しだ!」(決まった)ったわけです。
結局、裏切り者とされるユダは、唯一、イエスを理解した人物であるとなるわけで、そのことが「ユダの福音書」に記されているわけです。
今回はこの辺で止めます。では、次回まで、
前回のブログ(ユダの福音所書)を読んでみると、何やらあちこちに飛んだ文章になっているので、ここで整理してお伝えしたいと思う。
①新約聖書には、天国(霊の王国)の奥義は書いてない。
イエスは、人々に譬え話で色々と語っているが、神とは何か、霊の世界とは何かなどは一切語っていないし、聖書にも見当たらない。
その理由は、「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」(マタイ 13.13)とされる。
当時のユダヤはローマに占領され、属国とされていたが、人々はメシア(救世主)待望論が強く、人々が待ち望んでいたところにイエスが登場したのである。
人々が望んでいたメシア、キリストは、当時のユダヤをローマから救うユダヤ王国(地上の王国)の王=メシアであって、イエスの語った霊の王国ではなかったのである。
人々が望むメシアとイエスの言葉には、大きな隔たりがあったのである。
そこで、譬えで話すことになったと考えられる。
②では、弟子達に奥義を話したのであろうか?
イエスは、弟子に譬え話の説明はしている‐聖書にある‐が、奥義というほどのものではない。
結局、イエスが弟子に口述したらしい内容は、闇の中である。
③イエスは読心術の達人であったらしい。
ユダヤのラビ(教師)が、イエスがキリストらしいという噂を聞いて、イエスについて調べた‐直接、会うことはできなかったが‐調査報告をみると、どうも、イエスは人の心が読めたらしい。
そう、イエス周辺の人々が証言している。
で、あるならば、12使徒と言われる人々の考えなども見抜いていたであろうことは想定できる。
そこでイエスを売ったイスカリオテのユダであるが、ユダはイエス集団の会計を預かっていた人である。
聖書には、ユダがお金をちょろまかしたということが書いてあるらしいが、イエスがそんな人物に会計を任せるはずがないであろう。
なにせ、その人物が将来なにをするかぐらいは、見抜いていたのであるから・・・w。
例を上げよう。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」・・・とイエスが言うと、
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
とペテロは答えている。
イエスはそのあとに、「よくあなた(ペテロ)に言っておく。今夜、鶏(にわとり)が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言うのだ。
事実、イエスが捕らえられてから、ペテロは三度、イエスを知らないというのである。(マタイ 26.31~75)
つまり、弟子達が何をするか預言できたのであるから、その人選に関して間違ったことをすることは考えられないのである。
もし、ユダがイエスの仲間達のお金をちょろまかすような人間ならば、イエスは人選を誤ったことになり、ただの人ということになる。
④十字架刑はローマ法による。
イエスは、ユダヤ人達に捕らえられる前に、何度か12使徒に自分の運命について語っている。
「さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、『見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子(イエスのこと)は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう』。」(マタイ 20.17-19)
さてはて、犬のメメさん、この時点ではユダはまだ裏切っていないのですよね。
全部説明するとなが~い文章になるので、端折っていきます。
イエスは、自分の運命を預言できたのだし、12弟子の運命も預言できたはずですね。
すると、ユダを除く11弟子がイエスの言葉(預言)を信じていなかったことは、前回、聖書を引用して説明しましたね。
消去法から、ユダだけに自分の運命を託すことができると、イエスが考えていたことが想定できるのですよ。
イエスがユダを信頼していたとされる根拠は、自分の運命を託す=実行する唯一の人物として存在するからですね。
ユダヤの法では、死刑は石打の刑ですから、「すべてお見通しだ!」(決まった)ったわけです。
結局、裏切り者とされるユダは、唯一、イエスを理解した人物であるとなるわけで、そのことが「ユダの福音書」に記されているわけです。
今回はこの辺で止めます。では、次回まで、