
[モルモンの泉 Jorge Cocco 画]
[アルマは神の命(めい)によってバプテスマを施した。モーサヤ11:20-25]
モルモン書の中で、「祭司」や「教師」という聖職者(神権者)が登場し活動したり、ニーファイやアルマなど信仰の指導者が活躍したりする場面が出てくるが、今日の末日聖徒の視点から見れば、その神権がどこから来たのか明確な記述がないことがしばしばである。また、イエスキリスト以前のモーセの律法が守られていた気配が感じられないのはなぜなのか。
それはモルモン書が書かれた目的とモルモン書の素性と特徴に答えが求められるのではないか。1) モルモン書はその扉の頁に書かれているように、「イエスがキリスト」であることをユダヤ人と異邦人に確信させることが目的であり、 2) モルモン書を世に問う語り手(narrator)は要約者であるモルモン(それ以前のニーファイ、アルマ、ヒラマンなども同様)であれ、英語で出版したジョセフ・スミスであれ、イエス・キリストの知識を持ち、旧約に該当する部分に新約聖書をかぶせるように思考し、記述を進めているからである。
3) そして、もう一つ大きな理由は、モルモン書を世にもたらしたジョセフ・スミスが、従来のキリスト教や聖書理解に対し、モルモン書によっていわば新しくコメンタリーを提示し、ミドラシュ的拡張を施すことを大きな使命と感じていたことにある。R.M.プライスによれば、革新的メッセージを発信し、預言者的役割を果たしたのである。例、幼児のバプテスマが不適切であることを指摘、山上の垂訓を再解釈、勝利を漂わせたイエスの犠牲像を示した、など。
従って、語り手(narrator) がアメリカ新大陸における壮大な物語を提示するに当たって、神権の由来や継承、聖任の詳細を提供すること、またモーセの律法遵守(犠牲を捧げる)と整合性を図ることは、それほど重要ではなかった、あるいは眼中になかったと考えられる。
[なお、LDS教会はモルモン書の地理学的符合を求める探索には慎重な姿勢で、奨励してこなかった。そして、BofMは宗教書であると述べてきた。このことから歴史書でもないと受けとめていることが窺われる。(例、「モルモニズム百科事典」1992年、John E. Clark, "Book of Mormon Geography")]
モルモン書の神権についてはセミナリー・インステでは確か以下のような説明がされていたと記憶しています。
新大陸(アメリカ大陸)にはアロン神権者は渡っていない。
したがって大神権(メルキゼデク神権)によって教会は運用された。
「祭司」や「教師」は現代モルモンのアロン神権の職ではなく役割と解釈される。
>モーセの律法が守られていた気配が感じられないのはなぜなのか。
モーセの律法を守り,確固としてキリストを待ち望む,
モーセに与あたえられた律法が成就するまで必要な限りあなたがたは勤めと儀式を守らねばならない。
2ニフ 25:24-30.
とありまして。
どこだったか、モーセの律法が成就されたかのように生活しなさい的な表現もあったと記憶しています。
ーーー
プロテスタントでは「律法」を徹底して排除する傾向にあるように思います(信仰のみ)がモルモンでは律法の運用が変化していると捉えているのが面白いです。
現代でも教会内の法律(律法)として戒めが位置付けられているのが良く理解できます。
という歴史家の指摘があります。これが史実であり回答ではないでしょうか?
https://www.amazon.co.jp/Mormon-Hierarchy-Origins-Power/dp/1560850566
モルモン書にも神権の概念はみられます。
アル 13:18
メルキゼデクは力強い信仰を働かせ,大神権の職を受けた,
こりゃまた的外れな反論だなぁ・・・
まあ、モルモン書は半分以上が未翻訳なので、判らないことは沢山あって当然のように思われます。
ただ、異邦人はともかくユダヤ人にイエスがキリストであることを確信させるなら、儀式に関する整合性が考慮した方が良かったような気もします。
モルモン書の目的は、
①対立しているキリスト教内の教義によって混乱しているクリスチャンたちに回答をすること(例えば復活の定義:義人の霊がパラダイスに入ることを復活と呼んでも差し支えないが、肉体の再結合を指す。とか、幼児のバプテスマは罪であるとか、極めつけは天動説は間違ってるよとか、色々)
②人々(主にアメリカ人たちに)アメリカ大陸が新エルサレムであることを確信させること。
③異邦人と特にインデアンたちにイエスがキリストであることを確信させること。
であって、理屈っぽいユダヤ人を納得させるために神権の整合性を記述することなど、主もジョセフスミスも眼中になかったように思われます。
モルモン書はジョセフの創作である可能性を匂わすメタフィクション的視点をしばしば提示されるお方が、どうして今さら『神権に関する記述がほとんどないのはなぜか』などとファンダメンタル寄りの記事を投稿するのでしょうか
NJさんがモルモン書の目的である革新的メッセージだとして例示された幼児のバプテスマ云々はモルモン書に1か所しか記述が無いはず。それなら神権の記述と大差ないのでは?
それはさておき、モルモン書の本文を記述した人を、今回は『語り手(narrator)』と表現しておられるのですね。『作者であるジョセフ』とすれば教会外部には通りが良いが背教的な表現となり、『モロナイ』や『古代の予言者』と言えばLDS会員にはウケの良いが学術的には価値を落とすので難しいところだったのかなと思いました。
今回は長々とアカデミックな表現やモルモン知識人の発言を引用して、読み応えのある記事の体裁をとっていますが、要するに『ジョセフはモルモン書を書いた時点で神権のことなど考えついてはいなかった』というだけのことでは?
こうした表現方法を編み出しては広めていくことのがNJさんの言う第三の視点を探ることなのだろうかと疑問を持たざるを得ませんでした。
例えばモーサヤ書にはこうあります。
2:かれらはまた自分のもついろいろの家畜の群れからその初子をつれてきた。これはモーセの律法に従って牲と燔祭とを備えるためであって、 ・・
天幕の中に居ながらベンジャミン王の宣べる言葉が聞こえるように、天幕の戸口を神殿の方へ向けておいた。
ーーー
ユダヤ教3大祭りの仮庵の祭りが背景にあるとのこと。
http://www.geocities.jp/waters_of_mormon/hozon/bomsyouko.html
当時エルサレムに住んでいた (現在はソルトエークシティーに在住)のジョントベッツネスが書いた当時未発行だった 論文でした。
・・
一旦 それに気が付けば明らかにそれがそこに描かれていることがわかりますが、トベッツネスが指摘するまでは誰も気が付きませんでした。
これもジョセフ・スミスが知らなかったこと のひとつです。彼はモルモン書の中に仮庵の祭りがあることさえ知らなかったのですから、
イスラエルの12部族が別れたのはリーハイの時代から数百年も経つことでしたし、異邦人との結婚はタブーであったが部族間の結婚は問題がなかったのですから、実情として部族間の混血が進み、所属が曖昧になっていた人々もいたのでしょう。
ですから自分がアロン神権者でありながら、改めて真鍮版の系図を見てみたら、リーハイがヨセフの系列であることを知って驚いたのでしょう。
イスラエルの民の中のアロン神権者の全員が全員神殿職員のはずがないわけで、1回も権能を執行したことがないまま父から子へ祝福として授けられた家族もあったと思われます。
リーハイの一行がアメリカに渡ってまもなくソロモン神殿のようなものを建設しますけれど、構成員中に全く神権者がいないのならナンセンスですよね。