のしてんてん五次元龍の図
21日画廊に飾り付けをして、はじめてこの龍の図は完全な組作品として展示出来ました。
私自身がこの完成図をはじめて目にしました。
龍の図を中心に置いて、
左右に、それぞれ、五次元宇宙の図と輪廻の図を並べました。
五次元宇宙の図の配列を変えて見た。
下段中央の絵を90度変えただけだが、混沌から形が生まれる動きが見えるようになった。
私の中でこの三点の図は、絵画と論理が完全に融合した作品となったと思っております。
かねがね、のしてんてん絵画は、絵と論理を一体化させることを目標にしてまいりました。しかし絵画と論理は互いに相反することが多く挫折もありましたが、今回初めて作品と対面して、自分の進んできた道は正しかったと理解できました。
会期中で、時間がありませんので、今日はここまでです。
論理についてはわかりませんし、正直、わかりたい気もしませんが(すみません)、この絵の迫力には言葉をなくします。
実物を見たいのですがなかなか機会に恵まれず、残念です。
ちょっと思ったのですが、論理は絵の、スピンオフ作品、みたいなものではないでしょうか?
本編である『絵』を、より深く味わえる奥行きがスピンオフの『論理』。
もしくはその逆、なのかもしれません。
どちらもわかって味わえれば最高に楽しめるのが、のしてんてん絵画なのでしょうね。
貴重なご意見をありがとうございます。実は私の創作活動は、P.K様が示して頂いたことがど真ん中にあるのです。で、少し長くなりますが私の想いを書いてみますね。
お便りを読ませて頂いて、まず心に響いたのは「わかりたい気もしません」という言葉でした。正直、鞭打たれた思いでした。そして気付かせて頂いたのです。
私が論理というとき、それはあくまで「私(のしてんてん)自身の中の論理」という意味で使っています。けれど、それが言葉として独り歩きすると、それは「あなた(P.K様)の中の論理」という事になってしまう。そう受け止められてしまうという事なんだと・・・
つまり「論理」は余計なお世話的に受け取られて、結果「分かりたくもない」となってしまう。当然のことですよね。
でも、そこからP.K様はご自身の論理を働かせて頂いた。私の論理の中身がどうこうでなくP.K様の論理で理解を示して頂けた。うれしいことです。
私は長く「のしてんてん」という言葉を使って「心」の世界を探求してまいりました。その「心」というのは誰のものでもない、自分自身の心という意味なのです。
自分の心を見ますと、それは感性と論理で出来ている。必ず二面性があるのです。自分という気付きは私の言う「論理」なのです。自分は何者か、どこから来てどこに行くのか知りたくなる。
一方で、無条件に喜んだり悲しんだりする感性が毎日を色付けしてくれる。
私の心はこの二面性で揺れるのです。それをトータルに生きたい。そう願うのがのしてんてん絵画の創作活動なのです。
論理と感性が一つになる場所、そんなところを探して進むのが「のしてんてん心の旅」という訳なのですね。
人は誰でも、他人の論理で生きてはならないし、生かされてはならない。私の論理面での一貫したテーゼなのです。
P.K様、
「この男はこんな理屈で人生を納得しようとしているんだ」的に、今後ものしてんてん論理を鑑賞して頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
R.K様もおっしゃったように「迫力」は…いつもながら見事なものを拝見させていただいております…本当に『パワー』のある存在を。
そして今回、…龍の渦から導かれるのか…遠目に見た3種が揃った写真にて「空間が渦巻くような、自然と世界が渦巻くような」…そうしたものを感じました。左の天体からか銀河のような、右の様々な物体から世界の物が吸い込まれていくような…渦を描いて龍を中心に全てが吸い込まれるような…。
思考した理論と磨いてきた絵画を持って弾き出した「答え」…素晴らしいものに改めて…のしてんてん様に感謝を。月並みですが「…本当に、良いものを見せていただきました…!!!」
この偶然は嬉しいですね。折師さんも帰ってびっくりしているのじゃないかと思うと二倍楽しいです。
宇宙とは何かという想いが左
人とは何かという想いが右
二つの間で精神世界が広がる。それを龍に託して描けた気がします。
それを橋渡ししている二つのたまご。その中で光に照らされている「ことば」
ことばの重さを絵で表現するこの矛盾が、私の求めて来た芸術なのです。
折師さんの前ではこんなことも言えます^ね^
そうそう、実物でないとはっきり分からないのですが、龍の絵の中にも精神の輪廻を描きこんでいいるのです^よ^
お暇なときに、謎解きも楽しんで下さい。
抜刀武者、お見事の一言です。