スケール(ものの大きさ)について、私たちはどこまで知っているのでしょうか。
なんとなく受け止めて、あまり考えなかったのですが、そこに目を向けてみると意外に面白いことがわかります。
私たちは、大きさを意識します。自分、他人、犬、猫、何でもです。
そしてこれはみな、見た目だということに気付きます。
見た目で大きさを測る方法が3つあるということすね。
第一は遠近法。
ものは遠くなるほど小さく見える。
前を小さな車が走ってくる。しかし人はそれをミニカーとは思いません。それは自分が乗れるほどの大きさの乗り物と知っている訳です。現実の見え方に立ちして、私たちはそれを想像でおぎなっているのです。
そこに想像力がつくり出す空間があります。自分と小さな車の間に、相当の空間を私たちは認識している訳ですね。
遠近方は、空間の認識であり、その空間に置かれたものの姿を大きさとしてみている訳ですね。
第二は比較法。
これは単純に二つのものを比較して大きさを測る方法です。定規をあてて測るというのがそれです。
要点は、自分以外の二つを対比させる大きさの認識方法だということです。自分以外のものというのが重要です。
第三は対比法。
先の比較法とは違い、対比法は常に自分との対比によって大きさを認識する方法です。
面白いのは鏡です。
対比法で自分の姿をみる場合、には、鏡は半分の大きさでよかったですね。
しかし、対比法で、鏡を見る場合、鏡は写り込む人の等身大の大きさが必要になるのです。
もちろん鏡と写る人の間の距離によって、大きさは変わります。距離がひらけば写りこむ姿も小さくなり、これは遠近法に従うことになるでしょう。
比較法と、対比法とはよく似ていそうですが、ここに大きな違いがあるのです。
対比法というのは、常に自分との関係で、世界を測る方法です。
よく考えてみれば、私たちの認識はみな、この対比法で測られています。
遠近法にしても、比較法にしても、この客観的な観測の結果を受け入れるのは「私」ですから、その結果を私たちは常に対比法で自分と関係付けながら認識していることになるのです。
たとえば、遠近法でとらえた小さな人物を、私たちはもう一度対比法で認識している訳です。
あの小さな人物はこの私の大きさとほぼ同じ大きさだと認識するのです。
手のひらの生フィギア事件の真相は、実際に見えている大きさを遠近法でとらえることができず、そのまま対比法で認識した結果だと思われるのです。
このことから、
私たちは意識的であれ、無意識的であれ、対比法で世界を認識しているということに気付かされるのです。つまり人は常に、自分を1という単位で、世界を測っているということなのです。
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