のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

5次元宇宙に生きる龍

2018-08-10 | のしてんてん絵画を知っていただくために

 

21世紀のメッセージ展に向けて、目下制作中です。

同展を契機に描き続けた1年間の龍が、私の提唱する五次元世界をより具体的に絵画を通して体験させてもらえたと思えるようになりました。

今回その体験をもとに、五次元の考え方と絵画による実践を見ていただく試みに挑戦してみたいと思います。いくらかでも伝われば儲けもので^す^

五次元宇宙とは、簡単に言えば四次元を越える世界のとらえ方です。

四次元とは私たちが今生きているこの世界、つまり人間の世界なのですが、私たちが何かを追求してより良いものを求めて行こうとすると、必然的にこの自分(四次元)を越えて行こうという考え方に行き着きます。

たとえば様々な分野の職人たちが共通していう言葉に「無心」があります。

究極の仕事をするには、己が無心になってものづくりの世界に入っていくというものです。

禅の世界では、究極の生き方を「無」の境地と言います。無を得ることで宇宙と一体になるという考えにつながって行くのでしょうか。

「無心」「無」、これはつまり四次元を越えた世界の中に意識を移していこうとする時に見えてくる目的地と言えるのですね。この目的地を五次元と呼ぶ訳です。

つまり五次元宇宙とは、この無の世界を出来るだけ論理的に理解するために描きだした宇宙の姿であり、その宇宙と人間のあり方を考えるという試みなのです。

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真っ白なキャンバスはいわばすべての始まり、そこには何もないのですが、あるのは何かを描きたいという私の意志。

最近の私の思考空間(勝手に頭の中に浮かんでくるイメージ)は龍なのですが、私はあらかじめどんな龍を描こうとは考えません。

キャンバスの白い空間にイメージンが勝手に動くのを見ています。

この時私は五次元の中にいると思っているのです。意識をキャンバスの上に集め、その時は他のことは一切考えない無心を作りだします。

そのうちに心に動く形が見えると、それに合わせて線を引きはじめます。

 なんとなく龍の顔が見えてきます

私の意識の中では、この線の向こうに五次元の世界でうごめく龍の姿が見えます。この線がなかったらもっとこの龍は自由に動き回るのですが、それでは四次元の私の世界にその姿を描きだせません。線は最低必要限の標なのですね

デッサン(描線)はその世界を二次元に落とし込む作業ですが、私たちは二次元をたやすく四次元に置き換えることが出来る。(四次元人間の特殊能力です)

 けれども残念ながら人間は四次元を越える次元をうまくとらえることが出来ないのです。たとえば次のように。

 五次元の一瞬をとらえるために線をひいたら、五次元が一瞬で二次元に落とし込まれ、私たちの意識はせいぜいその二次元を四次元に置き換えるしかできないのです。

難しく書いてしまいましたが、龍は空想の産物です。決まった形があるわけではありませんね。五次元に現れる龍は、見ようとすればその人の意志や思いに合わせて無限に変化する。四次元人間にはけっしてとらえられないのです。

そこで重要なのが四次元と五次元の接点(原点)なのですが、その原点をつかまえて、キャンバスの上に点描していくという考え方が生まれました。五次元をそのままとらえられないけれど、原展という点を使ってキャンバスをうめることならできるのではないかという訳です。

案外いい考えかも知れない。と思いました。

接点(原点)なら見分けられる。なぜならそこに喜び(至福感)がある。つまり自分の喜ぶ点(線)だけをを求めて行けばいいのです。

無心で線を引き、四次元の私が喜ぶ形だけを求めてデッサンを進めて行きます。

 全体の形が見えてきましたが、まだまだ未完です。しかしここから、描きすぎてダメになることが多いのです。よくしたいという我が、五次元を観ないで欲に走る。するとてきめんに絵から喜びが失われます。

純粋に喜び(至福感)を感じ取る感性が何よりも大切だということが分かります。五次元につなぐ重要なポイントはこの至福感だったのです。

至福感は、欲にまみれたら消える。

ただひたすら、混沌とした違和感のある場所を、喜びの感じられる部分になるまで描きこんでいきます。行き詰ったら、瞑想して五次元の龍を眺める。

龍の背中に乗って描くというのは、五次元の感覚を持ち続けながら描き進めるという意味なのですね。

 この四次元と五次元の接点には何があるのでしょうか。

私が注目するのは「気付き」なのです。

たとえば、この龍は何を見ているのかと考えるとします。

この思考は四次元の中で起こる人間の思考だと言えますね。

ところがその思考に気付かなければ、私の思考は夢の中で起こっているようなもので、その次に続きません。考えても気付かなければ意味がない。

このことをひろげて考えると、この世界にいる自分に気付いているものがいる。ということになります。生きている私があって、その私に気付き見つめているものがいる。そのものがいなかったら私は永遠に闇の中という訳です。

この「気付き」こそ五次元の私ではないのかと思うに至りました。

つまり思考は、四次元の私の「思考」と、五次元の私の「気付き」で成り立っているのです。

この「気付き」こそ無(空間)を身体とする五次元宇宙=私だったのですね。

 そうすると、私たちが自分に気付いているというのは、この肉体をつくっている私と、その肉体を包んでいる宇宙空間のエネルギー=「気付き」を併せ持った私を生きているということなのです。

自分を見つめているもの、自分に気付いているものに向かって瞑想を深めれば、深淵の宇宙が現れる。そこが五次元の世界、五次元宇宙の真ん中なのです。

 

 

さて、理屈はどうあれ、

本当に絵をそこまで持って行けているのか

それは理屈に関係なく皆さまの心に伝わるものがあるかどうかなのですが・・・・

 

 

 

 

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