『十和田保勝論』(大正11年)に掲載されている中湖(なかのうみ)カルデラの図である
十和田神社の位置がわかる
今は無い 60年前に降りたことがある占い場の鉄梯子
数十年前、今の拝殿へ上る『おとこ坂』はこのような岩の坂道だった
この岩について、五色岩成層火山が、十和田カルデラの水中でマグマ噴火の活動を起こし
その際の枕状溶岩だとの説がある
現在の『おとこ坂』はきちんとした階段になった
手前の手水のほこらにはタゴガエルが棲み付いていて驚かされる
拝殿 正一位十和田山青龍大権現
同上
拝殿 右本殿
本殿
様々に祀られている
神社の縁起には二つあるようだ
★田村麻呂の東征時(奈良時代)に建てられた
★修験者南蔵坊が諸国行脚し、自篭岩に来て鉄のわらじが切れてそこにとどまった
といわれるが、平安噴火(915年)の時にはすでに在ったのだろうか?
さらには
★熊野信仰が起源とも (油川の熊野宮の棟札の裏書に“十湾寺”とあり十和田神社の前身説)
★近在住民により、水神、龍神、農耕神“十和田様”として現在まで崇められている
南蔵坊がたどり着いたという“自篭岩じごもり” 船から
ここを登っていくと『占い場』の上に出る
かつては、鉄ハシゴで崖を降りて『占い場』に出ることができたが
今は通行止めだ
同上
大正時代の “散供打 さんぐうち” “おより占い” の様子
明治31年、神主が種市の潜水夫“南部潜り”を通じてお賽銭の回収をこころみ、荷車15台分
引き揚げたという。
一方、三浦哲郎の小説には、南部潜りが水中に積もった賽銭に手を入れると絶壁に雲を巻き上げて全部水底へ崩れ去った
というはなしがあった
菅江真澄は毛馬内方面から十和田湖へ脚を踏み入れ、占い場での散供打の様子などを記している。
菅江真澄の画
参道の杉並木の樹齢は400年と言われる
参道
参道
先ごろ、さらに手前の杉並木参道が歩くことができるように整備されたと聞く。(私は未だそこを歩いていない。)
神社に向かって左手のみちを行くと、“乙女の像”が建つ“御前ヶ浜”に出る。平安噴火の名残か軽石が目立つ。
船から “御前ヶ浜”と“乙女の像”
“乙女の像” 高村光太郎作 眼は空洞
小さなレプリカが、高村山荘記念館と青森県立郷土館にある。
『湖畔の乙女』の歌は、子供の頃
“♪♫ あまくだりしいかみながこりしいか・・・・・・”とわけもわからず唄っていた・・・
本間千代子「湖畔の乙女」
昭和39年6月発売
作詞:佐藤春夫 作曲:長谷川芳美 編曲:松尾健司
一 天降(あまくだ)りしか 水沫(みなわ)凝りしか
あわれ いみじき
湖畔の乙女
ふたりむかいて 何をか語る
二 花かもみじか 水の清らか
はたや いみじき
久遠の身をか
あらず みたりの
ゆかしき人を
漢字混じりの歌詞になっても やはり難解ではないか・・・・・・・・・
西暦915年の平安噴火については近年研究が進展し、
水がある中湖カルデラにおいて、マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、火砕流の一連の活動が1日程度の短期間に進行した。
それは秋口のヤマセの強い日であった。
そして、当初のプリニー式噴煙柱は、1980年米国ワシントン州のセントへレンズ火山のそれと同規模であったろうとしている。
(広井良美・ほか、2015) 「十和田火山平安噴火(噴火エピソードA)の噴出物層序及び噴火推移の再検討」
十和田火山が次に活動するとすれば、やはり十和田神社近傍の中湖の底の給源だとみられている。
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