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神は、人間が創造したものである。
だから唯一神と言い張る必要がある。
宗教も、数ある正義の一つにすぎない。
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儀式を取り入れれば、それはすでに宗教風である。
儀式を重んじれば、それは独善的思考の始まりである。
儀式は運営の装飾であるから、
その装飾が眼にも荘厳であるほど暗示力が高まる。
戒律が厳しいほど、敬虔であるほど、
純化するという演出が仕組まれている。
要は、一体感つくりに集約されていて、独善的、排他的であり、
拡大志向が露わな独裁政党と変わりがない。
その価値基準を神の所為にしているだけで、
むしろ人間を冒涜しているのだ。
時代が下がるほど、宗教の実態は変容、自己欺瞞に堕ちていく。
この点も独裁政治の行く末と変わることがない。
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ある宗教は、秩序や戒めを説く。
それを崇高な規範として個々人の精神支柱として契約させる。
契約しない者は排除される。
別の宗教では、「問い」が宗旨の根本原理となっている。
問答の解が無限であり、悟りが精神の到達点であるとされる。
しかも、それさえ無とする
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人は厳かなものを求める。
自分からずっと遠い抽象に精神を委ねたいという願望が、
人には潜在する。
それは自然そのものであつたり、先人の偉業であったり、
仮想であれ、その大きさを畏れ服する。
もろもろ生きる知恵を凝縮した智者の教えに心服する。
それが生きる基準であり、崇拝、敬愛であり、安寧となる。
それを満たしてくれる畏れへの服従や信仰がなければ、
漠として潜在する不安から逃れられないということだ。
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智者のことを神の使徒としている。智者なら一人といわず存在する。
ゆえに、宗教はひとつではない。
智者は、生きるルールを説き、慈愛を説き、安らぎをもたらすのだろうが、
智者を敬愛しすぎた人々は、必然として排他的になる。
自ら、思考停止を受け入れている状態である。
なにが神なのか、そこに明快な理を設けないのが宗教者である。
彼らは、神の使徒や解脱者として崇拝される智者の言葉を伝えるだけだ。
智者の言葉が安らぎや勇気を与えるのか、
知恵の有り様を教えてくれるのか、
愛と慈しみで包んでくれるのか。
人は信仰の子になろうと欲する。その畏れを汚すものや事柄を、
自分の基準を毒するもの、不安に導く要因として排除する。
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頻発する宗教的な紛争は、人としての基準の戦いであるから、
地政学や経済を背景とした紛争と違って、
時間経過による収斂や終息ということがない。
妥協のないやっかいな紛争である。
だが、神や智者は何も示さない。
神のために戦争をし、異教徒を残酷に排除しても無言である。
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神は我々の上の方にいるのか、隣に座っているのか、
それとも我々の中にいるのか。神は知者を経由する。
どうであれ、
聖堂や、寺院の荘厳さを気取った建造物や儀式の有り様は、
後世の宗教者たちの演出に過ぎない。
宗教者には荘厳観こそ説得力である。
彼らはそうした舞台装置を活用して人々を暗示に導く。
従え、黙して従えと、人々に思考停止を促している。
宗教は、
信者自身のそうした自己暗示と幻想に寄りかかって存在している。
神は過酷である 存在も力も示さない
信じている者の自己催眠と幻想に寄りかかって存在しているに過ぎない。
神の存在を問うより、人はなぜ神を必要として来たのか、
それをもっと問うてみた方が良い。
神を求めても、なお人類は我欲に徹して生きている。
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産まれながらにして、人間は原罪を負っているという宗教がある。
無茶苦茶な話ではないか。存在がすでに罪なのか。
どうしても辻褄が合わない、儀式の大義を何とか整えるために、
具合がいい動機付けを思いついたものだ。
仮設定しておいて、連なる必然を組み立てやがったのさ。
それでも、人が一心に祈る姿は美しい 神が美しいわけではない。
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宗教もしくは宗教団体がもたらしてきたものを、高みに上げることをやめよう。
宗教者にとってそれは常に高みからの正義であり、教えである。
宗教あればこそ建築美術が生まれたなどと感心するのはやめよう。
信仰は共同社会に求心力を生む。宗教者の望むところだ。
神の名を使うことで、暗示や誘導を駆使してきた宗教者の罪は深い。
世界史は異教徒の迫害が頻繁に行われた事実の列挙で溢れている。
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教えは強要され、滅ぼされた文化や民族が数多いことを世界は知っている。
絶滅する動物や植物なみに大いに慨嘆されるが、歴史帳に留めるのみである。
それでも、それはなお現代でも続いている。
宗教の本質は、いつも他者に対して敵対的であり、いつも露骨である。
宗教は、このあとも世界の動機として紛争を生み続けるのだろう。
宗教的な倫理観、社会法が示す善悪や処罰、人間はそれ以上を創れない。
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