阿南準朗監督の1年目にあたる1986年、カープは巨人とのシ烈なV争いを制して、2年ぶり5度目のリーグ優勝を達成した。西武との日本シリーズは初戦引き分けからカープが3連勝したのに、4連敗で逆転負け。シリーズ終了後には「ミスター赤ヘル」こと山本浩二さんが引退した。それまで阿南さんに「ニューリーダー」と呼ばれていた俺は「リーダー」としての働きを期待されるようになっていた。
そんな矢先だった。87年の開幕直前のことだ。既にオープン戦は全日程を終了していて、カープは本拠地の広島市民球場で全体練習。その時に、かねて懸案事項となっていたことを練習終わりのベンチ前で野崎泰一球団代表と上土井勝利球団部長に問い詰めた。恒例行事となっていた地元テレビ局主催の「カープ激励の夕べ」の開催時期についてだ。
俺の言い分は「開幕前の最も大事な時期に、なぜこのような行事を入れるのか」というもの。イベント自体を反対していたのではなく「いくらなんでも開幕2日前というのは」と訴えたのだ。もちろん俺一人の意見じゃない。それ依然にも、選手会長を務めていた北別府学が申し入れていた案件だった。
プロ野球選手というのは、ファンの方が思っている以上にナーバスな生き物だ。特に俺には神経質というか余計なことを考えすぎてしまうところがあって、キャンプ中なんかに「ひょっとしたら今年は1本もヒットを打てないんじゃないか」と一人で頭を抱え込むことが必ずあった。
それをよく古葉竹識監督に「ほ~ら、またヨシヒコのノイローゼが始まった」ってからかわれたりもしたけど、そういう不安と戦っている選手は少なくないんだ。
野崎さんや上土井さんに対する口調は、かなり強いものだったと思う。選手というのは会長の座こそ北別府に譲っていたけど、こういう汚れ役を務めるのもリーダーの役目だと考えていたから。自分ではまっとうなことを言ったつもりだし、それなりの覚悟もしていた。だから後悔のようなものはなかったんだけど、騒ぎはそのまま球団トップのうかがい知るところになり「前から決まっていることじゃないか。それほど言うなら出てこなくていい!」となった。俺も俺で「だったら出ません」って。売り言葉に買い言葉じゃないけど、こっちもカリカリしてね。
どうにも収まりがつかなくなって、俺は阿南監督に「ファームに行かせてください」って直訴したばかりか、選手ロッカーにあったユニホームやらスパイクやら野球道具の一切をクルマに詰め込んで、おまけにロッカーの名札まで剥がして出て行っちゃったんだ。
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