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世界はやがてジャパネスクの時代を迎える(非公式)

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その1)

2014-02-11 | パックス・ジャポニカ
2014年1月1日 7時18分

いよいよ始まるパックス・ジャポニカへの道を切り開くのは誰か?(京都・大徳寺にて)

2014年、「日本バブル」の中で”パックス・ジャポニカ”への道が始まる

今年はバブルの年である。「世界的に株高となる」といったレヴェルの話ではない。最初は消極的な選択肢としてではあるものの、我が国だけが突出した株式・不動産バブルに恵まれることになり、やがて歴史的な資産バブルに突入していることを誰もが認めることになる。すなわち歴史的な現象としての「日本バブル」が本格的に始まるというわけなのである。

私の研究所は公式メールマガジン(無料)公式ブログを通じ、こうした分析をこれまで繰り返し提示してきた。我が国の株価が早晩、平均株価ベースで20000円を目指す展開になるのは目に見えている。

このような「日本バブル」の始まりを支えているのはいわゆる「外国人」だ。一方、我が国の、とりわけ「個人」はどうなのかというと、昨年の東証大納会の段階(12月30日)であっても、依然として日本株を大量に売り続けていた。これら2つのことは今、我が国を巡って2つの重要な事実が浮上していることを如実に物語っている。

「外国人」たちが日本買いを猛烈に続けているということはイコール、「我が国に期待している」ということである。米欧を中心として、特に第二次産業革命以降、約150年近くにわたって続けられてきた金融資本主義の歩みは明らかに行き詰まっている。全く新しいゲームのルールへの転換が求められており、米欧はそこでもゲームの胴元になろうと必死だ。しかしそうした目論見は明らかにうまくいっていない。

米欧が創り上げてきた金融資本主義は、「気候が地球全体で暖かくなり、人類の免疫力が総じて向上し、”元気”になること」を前提としており、だからこそ「通貨を刷り増し、これを拡散させることでインフレへと誘導する」、さらには「それによってバブルが発生し、やがてバブルが崩壊したらば需給ギャップを埋めるためにどこかで戦争を引き起こし、軍需という需要を高めることでリセットする」ことを繰り返してきた。ところが自然科学者たちだけではなく、私たちが広く気付き始めているように、大前提である「気候」が明らかに狂い始めているのである。米欧のエリートたちはこのことを熟知しているだけに焦りに焦っているが、もはやいかんともしがたいのが現状だ。

そのため、彼らは「全く新しいゲームのルールを示すのではないか」と徐々に我が国を注目し始めている。2020年に夏季オリンピックが東京で開催するよう決定したのは明らかにそのせいである。それ以外にも数多くの場面で「JAPAN」「ニッポン」が選ばれることが多いのは、行きづまりを見せた米欧の金融資本主義の次に出て来る「勝ち馬」に乗ろうという米欧のエリートたちの意向によるものなのである。決して私たち日本人の努力によるものではない。

ただし、いずれにせよ我が国はそうしたわけで新しいゲームのルールを示すチャンスを、今後少なくとも2年余りは続くことになる「日本バブル」の間だけ得ることになる。つまりそれを通じて「パックス・ジャポニカ」=我が国が示すルールによって世界秩序が新たに整えられていくことを実現できるというわけなのだ。もっともエリート層を除けば米欧においては実のところ未だに「日本蔑視」が渦巻いている。「平成バブル不況を20年も続けてきた国に何が出来るというのか」あるいは「日本は結局、米欧のゲームのルールになじめないはぐれ者」というわけだ。したがって米欧の一般層にこれから起きる「パックス・ジャポニカ」への転換を広く知らしめるべく、私は公式英語ブログでこのことを昨年秋から表現し始め、毎日諸外国からのアクセスを得るようになってきている。

「近代の超克」とは何だったのか? 1940年東京夏季オリンピックという幻影

かつて我が国がこうした自覚、すなわち「文明論的な自覚」をもって何をなすべきなのか、真剣に考えた時代があった。時は1940年代前半、いわゆる「近代の超克」という議論である。戦後になって竹内好がいわゆる京都学派を中心に行われたこうした取り組みを批判的に総括してしまったため、この議論は「太平洋戦争を正当化するために行われた当時の文化人たちによる時局迎合の議論」といった形で語られるか、あるいはそもそも意味のないものとして忘れ去られてしまっている。

しかし当時の議論を仔細に振り返れば分かるとおり、議論に参加する者たちのベースにあったのは、今と同じか、あるいはそれ以上に鮮明であった「米欧の文明がもはや限界に来ている」という認識であった。「共に文明の主であり、兄弟であったはずの米欧諸国が違いに総力戦で死闘を繰り広げる」という前代未聞の出来事が起きた第一次世界大戦。その後「西洋の没落」を著したオスヴァルト・シュペングラーに代表されるように、そのことは米欧のエリートたちにとって余りにも衝撃的な出来事なのであった。しかも第一次大戦後、結局は1920年代末から米欧は世界大恐慌の渦へと巻き込まれることになる。我が国もこれに当然巻き込まれるが、いくつかの幸運が不思議と重なり、1930年代は「相対的に」米欧よりも景気の良い事態が続いたのである。幻となった「1940年東京夏季オリンピック」が決定されたのも正にそうした流れを背景にしてのことであった。「今こそ、米欧は我が国がリードする形での世界秩序の再編を望んでいる」我が国の知識人たちがそう力み、論じたのが「近代の超克」だったというわけなのだ。

「シラけ」る国民と安倍晋三政権の目論見、そして「見えている挫折」

そして時代は下って今年=2014年。「我が国が米欧との比較で相対的に優位である」という状況が再び訪れている。夏季オリンピックの東京開催決定の例を引くまでもなく、明らかに「あの時」と「今」とは極めて似通っているのだが、一つだけ決定的に違うことがある。それは他でもない、私たち日本人自身の意識があまりにも打ちひしがれ、自信喪失に陥っているということである。もっと言えば、70年前にはすることの出来た「近代の超克」といった国際社会のグランド・デザインに関する議論を行おうという向きが日本社会のどこを見てもいないという、悲劇的な状況に陥っているのだ。

そうした時代情況を露骨に物語っているのが、日本株マーケットにおける「個人」が主体となった怒涛の「日本売り」という現実である。民主主義というシステムで他ならぬ「国民」によって選ばれたはずの安倍晋三総理大臣が「アベノミクスは2014年も買いだ」と叫ぶが、実は他ならぬその個人としての「国民」こそがアベノミクスを売り崩すのに躍起になっているというわけなのだ。政府が日銀を押し切る形で「異次元緩和」を強行させ、円安とインフレを誘導し始めたのは良いが、肝心の「国民マインド」が全く冷え切ったままだというわけなのだ。

私自身、今月開催する恒例の年頭記念講演会で話そうと考えているのだが、我が国の政・官・財界の要人たちはその様子を直接・間接的に見聞きする範囲において、こうした「国民マインド」は最終的に押し切れると考えている節がある。

「株価を公的・準公的ファンドによって押し上げれば、国民は結局のところ『バブルだ』と舞い上がり、有頂天になって言うことを聞くはず」というわけだ。10月以降の日本株マーケットを見ていると明らかに我が国の金融セクターの最大手たちはこうした暗黙の了解に基づき、一つ一つ地歩を固めてきていることが分かる。無論、その背景に安倍晋三政権とそれを支える財政金融当局の深謀遠慮があることは言うまでもない。

昨年末の12月26日午前に突然行われた「安倍晋三総理大臣による靖国神社参拝」もこうした認識をベースにしていたことが明らかだ。確かにこれによって同総理大臣のフェイスブックでは「いいね!」が一時的に殺到して押され、人心掌握という意味ではそれなりに効果があったことが明らかとなった。

しかし、このまま万事うまくいくと仮に我が国の政・官・財界の要人たちが考えているとするならば、全くもって誤りなのである。なぜか。その理由を挙げるならばこうなる:

 

●「2015年に公的債務の残高が対GDP比で270パーセントにも到達するため、極端なインフレ誘導によって事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理をなし崩し的に行いたい」という戦略の一環で行われているのが、度重なる増税論議も含めたアベノミクスの実態だ。日本株・不動産の高騰に向けた誘導もその一つなのであるが、「平成バブル」の熱狂と「平成バブル不況」の深刻さを体験したばかりの「個人」としての国民は明らかに「何があっても動かない」という消極的だが、非常に強力な戦略を暗黙裡に取り続けている

●正に「笛吹けど踊らず」という状況の中、動かぬ「個人」としての国民を掌握しようと安倍晋三総理大臣がやおら動かし始めているのが愛国主義的な傾向だ。「異次元緩和」によって円安に持ち込まれ、自国通貨高へと誘導された我が国の近隣諸国の対日感情が悪化する中、「靖国参拝」を強行し、これら近隣諸国の側において火がつけられ始めている。安倍晋三政権はこれを今度は国内的に利用し、「我が国は狙われているのだ」と対外的な脅威への恐怖感を煽り、徐々に官民の軍事セクターにおけるフリー・ハンドを確保し始めている。こうした風潮に流されている向きはいるものの、第二次世界大戦の「敗戦」を経験した世代が未だ声を発していることもあり、「個人」としての国民が完全に迎合するには至っていない

●「個人」としての国民の側におけるこのような”シラけ”を下支えしているのが「グローバル化」と「インターネット化」、もっといえば「フラット化」である。国家の側が「増税する」と力んでも、我が国の富裕層がその気になれば様々な手段でグローバルにその富を移転することが可能だ。また、マスメディアを通じて大衆扇動をすれば事足りた時代は「小泉構造改革」で終わったのであって、インターネット化が進み、しかもそれがソーシャル・メディアとスマートフォンによって「個人」にまで到達した現在、大衆扇動は不可能ではないがかなり手間暇のかかる仕事となっている。さらに事態を厄介にしているのは「グローバル化」「インターネット化」「フラット化」といった現象を推し進めているのは米欧なのであり、これを我が国の政府当局が押しとどめることは不可能だということだ。そのため、安倍晋三総理大臣が何をしようとも、それに対する「反作用」がネットの世界では同じか、あるいはそれ以上のレヴェルで瞬時に生じ、身動きが取れなくなってしまうというわけなのだ

 

本当に必要な「イノヴェーション」は誰がどのように起こすのか

今年、安倍晋三政権は文字どおりの力技で「日本バブル」を推し進めていくことになる。バブルが富裕層を中心に日本人の心を多少は溶かすことになるのは事実だ。だが、そのような小手先の手段で冷え切った国民マインドが完全に温まるのかというと、全くそうではない。むしろ「バブルの熱狂」は「バブル崩壊に対する恐怖」を呼び、ある意味、国民マインドは何があっても動かない”絶対零度”に向かって突き進んでいくことになるのだ。

一方、自らは150年余りにわたるインフレ誘導に対する反動で強烈なデフレ縮小化へと落ち込んでいくことになる米欧から我が国に対して注がれる視線はますます熱いものになっていく。袋小路に陥った米欧は明らかに、これまで「金融資本主義というルールの蚊帳の外にいたからこそ、別のルールを創り出し、あるいは知っているかもしれない日本」に期待をかけ始めるのである。ところが、対する安倍晋三政権率いる日本はというと変わらずにクールなのである。何のことはない、「おもてなし」「クール・ジャパン」と言ってみたところで、肝心の国内で国民マインドが現状に対して諦め、未来に対して期待が日に日に薄くなり、虚無主義(ニヒリズム)に陥っているのだから致し方ないのだ。そこに輪をかけるようにある種の人智を超えた天変地異(「南海トラフ大地震」「太陽嵐」など)が生じてしまったらば目も当てられない状況になる。

今、我が国が抱えている問題はその意味で、たった一つだけなのだ。それは20年もの間続いた「平成バブル不況」の中で冷え切り、完全に相互不信と未来への絶望へと陥った国民マインドを温め、「熱い国・ニッポン」を取り戻すことである。そしてそれを実現するためには、従来のシステムでは不可能であり、社会のありとあらゆる部分が分断され、蛸壺の中で息をひそめているような状況を払しょくするような、大胆な試みとしての「イノヴェーション」が必要とされているのだ。―――それではこうした「イノヴェーション」は一体どのようにして、誰が推し進めるべきものなのであろうか。(続く)


原田武夫

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)代表取締役

http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140101-00031185/


 

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その1)

http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/df4644f6e33d34e817d1f11ce0cb264e

 


 

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その2)

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/958b8975e94aa0843e95876f9db77494


パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その3)

http://blog.goo.ne.jp/nobody-loves-you/e/5b3bac0a647761c36470b1f253a358a1



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