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世界はやがてジャパネスクの時代を迎える(非公式)

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その2)

2014-02-11 | パックス・ジャポニカ

皆様、おはようございます。原田武夫です。
「初夢」、いかがでしたか??

さて、私の方はと言いますと・・・昨日に続き、Yahoo!ニュースにて連続もののコラム「その2」を出すので頭が一杯。眠れませんでした(笑)

「なぜ我が国ではイノヴェーションが進まないのか」
・・・いよいよ問題は核心に至って行きます。
「それでは何を私たち日本人はするべきなのか」
・・・どうぞご覧下さい!

・・・
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http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140102-00031206/

 

https://www.facebook.com/iisia.jp/posts/593094170761808


 

2014年1月2日 7時10分

「本当の過去」を知ることが今こそ必要だ (函館山のふもとにある「ペリー提督像」)

今、日本に必要なのは「未来に向けて気づく力」である

昨日の「その1」では我が国が今年、いよいよ未曽有の資産バブル(「日本バブル」)の本格化させていくが、国民マインドが冷え切っているため、このままでは2年程度で失速してしまう危険性があることを指摘した。そして我が国の政治で最大の課題は個別のイシューを云々することではなく、他ならぬこの冷え切った国民マインドをどのように温めていくのかであると述べた。このことはこれまで私の研究所が公式メールマガジン(無料)公式ブログで繰り返し述べてきたことである。

我が国の国民マインドがなぜここまで冷え切っているのかといえば、過去20年余りも続いてきた「平成バブル不況」の中で「何をやっても意味がない」と悟ってしまったからである。1990年初頭に「平成バブル」が大蔵省(当時)の手によって急ブレーキをかけられてしまった直後は「それでもしばらくすれば株価は復活するだろう」という甘い見方が一般的であった。だが、1990年代半ばになるともはや事態はそれどころではないことが明らかになる。そしていよいよアジア通貨経済危機が1990年代後半に訪れ、「もはや何をしても報われない世の中がやってきた」と私たち日本人は各々の生活レヴェルで実感するに至ったのだ。

「何をしても報われない」以上、「未来に向けて壮大な夢を描き、突き抜けることを目指して行動すること」は最も愚かな行為ということになってくる。無論、それでも未来は必ずやって来るわけであり、そこで確実にブレイクするものを計画し、実行することが出来るのであれば話は全く別ではある。しかし私たち日本人はその様に「未来に向けて気づく力」を意識的に学ぶことがなく、また広く教育システムの中にそのための要素が盛り込まれていないため、未来といえばただひたすら不安を抱くだけになっている。そう、国民マインドが冷え切っていることの裏側には「未来に向けて気づく力」が養われてこなかったという我が国における現実が大きく横たわっているというわけなのだ。

それでは「未来に向けて気づく力」が無い時、人間は一体どのような行動をとるのであろうか。システム科学の泰斗であり、1978年にノーベル経済学賞を受賞したことでも知られているハーバート・サイモンはその主著「システムの科学(The Sciences of the Artificial)」(稲葉元吉・吉原英樹訳 パーソナルメディア)の中で次のように述べている:

 

進化の過程でつくられてきたあるいは人間の手によってつくられてきた適応システムのほとんどは、未来に対応するのに、予測というものに頼っていない。外界の変化を処理する2つの補完的なメカニズムは、しばしば予測よりもはるかに効果的である。すなわちその1つは、システムを外界の影響から守るホメオステイシスのメカニズムであり、もう1つは、外界の変化に適応していく事後的なフィードバックのメカニズムである。 たとえば工場は、在庫のおかげで、ごく短期の商品受注の変化に左右されずに生産を行うことができる。肉食動物は、筋肉組織内にエネルギーを蓄えているので、補食の機会の不確実性に対応することができる。発電設備においても、多少過剰な生産能力をもつことによって、ピーク時の需要をそれほど正確に見積らなくても済むようになっている。ホメオステイシスのメカニズムは、環境の短期的変動に対応する場合に有効であり、したがって短期予測の必要性をなくしてしまう。 他方フィードバック・システムは、システムの望ましい状態と実際の状態との間の差異に継続的に応答することによって、予測を用いることなく環境の長期的変動にシステムを適応させるものである。環境がどの方向に変化しようとも、フィードバック調整は多少の遅れを伴いつつ、その変化を追っていく

 

不正確な予測データをあまりまともに取り上げると安定性を失わせるようなことにもなりかねないので、予測の精度が高くない場合には、フィードバックだけに頼ることにして、予測をまったく省略してしまうほうがよいときもしばしばある

 

つまり未来をはっきりと見通せない時であっても生きていけるように、私たち人間はそもそもあらかじめ備えておいた「蓄え」によってサヴァイヴァルすることを知っているというのだ。またそのような時に最も良いのはある現実が実際に生じてからそれに対応することであるともいうのである。もっと簡単な言葉で言うならば「耐え忍び、後追いするのがベスト」ということになってくる。

よくよく考えると、これこそが「平成バブル不況」の洗礼を長きにわたって受け続けた私たち日本人の行動パターンなのである。先の見通しが全く立たないことから、「個人」だけでも総額1500兆円近くも抱えている国富を少しずつ、少しずつ切り分け、使うことで生きながらえているのが現実だ。また、何か新しいことを率先して始めるのは稀であり、米欧がトレンドを創り出し、それが十分意味のあるものであること(端的に言うならば「売れるものであること」)が分かってから、ようやくそれに少しだけ改良を加えたもので参入するというのが我が国企業のパターンになっている。「動かない」「とろい」あるいは"Too late, too little."と国外から批判される我が国であるが、それらは全て「未来に対する気付き」の能力が欠如していることから生じていたというわけなのである。

もっともこうした人間全般の特性についてハーバート・サイモンが決して否定的にとらえているわけではないことに注意しておく必要がある。むしろ人間が「限定的合理性」を持っているからこそ、かろうじて生きながらえる勇気を持つことが出来るのだと次のようにも述べているのだ:

 

われわれの価値体系に入りこんでくる過去と未来の事象は、すべて日付がうたれ、それらに対しわれわれが付与する重要度は、現在から遠く離れるにつれ、一般には急速に低下する。限定された合理性の存在たるわれわれにとって、このことはかえって幸せである。もしもわれわれの意思決定が、遠く離れた事柄にもごく近い事柄にも同程度に依存してなされるとなると、われわれは決して行動に移ることができず、どうしてよいか永久に考えがまとまらないであろう諸事象に対し割引因数を適用し、そのことによって時間的空間的に離れた事象の重要度を薄めていけば、われわれの限られた計算能力で取扱いうる程度のものに、選択問題を縮小していくことができる

 

しかし何事にも「物には限度」というものがある。何度やっても外すということを繰り返している内にやがて人の心は萎えてしまう。その結果、「耐え忍び、後追いするのがベスト」ということが急場の選択肢ではなく、もはや信条にまで結晶化してしまうのだ。しばらくすると「何をやっても成功したバブルの時代」を知らない若い世代がこの”信条”を”常識”として受け止め始めてしまう。生まれながらにしてのロスト・ジェネレーションの誕生である。

「未来に向けて気づく力」を研ぎ澄ますには?

「来年もアベノミクスは買い」と言われても徹底して日本株を売り続ける我が国の「個人」の冷え切った国民マインドを溶かすため、やるべきことはただ一つである。それはそれ自体が一つのシステムであるこの「日本」という国において、国民全体が持っている「未来に向けて気づく力」を今一度向上させることである。「限定的合理性だから仕方がない」などとあきらめるのではなく、まずはこうした基本に立ち返って考えることが必要になってくるのである。

それでは「未来に向けて気づく力」を養い、研ぎ澄ますには一体どうすれば良いのだろうか。そのための段取りはこうなる:

 

●私たち人間は「過去」に生じたことしか知り得ない。しかし、重要なことはその「過去」であっても知らないことが山ほどあるということなのだ。過去に一体何が生じたのか、「過去」から「現在」に至る因果関係はどのようなものであったのか、それらの「真実」を知ることがまず大切である。そしてそれを通じて「ある外部環境が整う時、その結果としてこのような動きになる」という歴史法則や因果律が頭の中に刷り込まれてくるのである

●こうした下準備をすることによって初めて、私たちは目の前に出くわした「情報」「ヒト」「出来事」が持つ意味を悟ることが出来る。これらの出会いは余りにも偶然なわけであるが、私たちがそれらを目の前にした時、ある”意味”を悟るという観点からいうと必然である(シンクロニシティ)。そしてここで悟ることの出来る”意味”は常に「将来、こうなるのではないか」という「気付き」でもあるのだ。「気付き」の瞬間、私たちはある事態が生じる「未来」から「現在」に向けて因果関係を後ろ向きに振り返って(バックキャスティング)いる

●「気付き」を未来に向けて得た者はそれが好ましいことであるならばその実現に向けて、また忌むべきことであるならばそれを回避すべくリーダーシップを発揮しなければならない。もっとも「気付き」はそのままでは他人とシェアすることは出来ない。そのため、他人に理解してもらうべく論理的思考(ロジカル・シンキング)が不可欠になってくる。そしてそれを踏まえて目標を設定し、競争戦略を策定した上で自らも実行しつつ、他人を巻き込んでいくことがリーダーには求められていくのである。無論、自分と仲間たちがそのように進んでいった軌跡をも振り返り、正当に事後評価することも求められる。つまり「未来に向けた気付き」はリーダーシップに直結する

●こうしてリーダーシップが発揮された結果、生じるのが「革新(イノヴェーション)」なのである。イノヴェーションとは新しい現実であるが、天から降って来るものではない。あくまでも「未来に対する気付き」を得たリーダーが周囲を動かすことによって創り出す現実なのだ

 

大切なのは「本当の過去を学ぶこと」、そして「メディチ効果を巻き起こす場づくり」である

「未来に向けた気付き」を得ようと努力しないところにイノヴェーションは生じない。その典型が悲しいかな、我が国である。我が国が豊かさを享受しているベースを創り出しているモノづくり系企業が苦戦を重ねているのは、イノヴェーション無き製品を創り続け、安い労賃で猛烈にアタックしてくる新興国の製造業を相手に勝つ見込みの無いコモディティ化競争を続けているからだ。

いや、問題は何も我が国の製造業だけに限られた話ではない。政治も金融も、そして社会といった日本全体が全く同じトレンドに呑み込まれてしまっているのである。そのことはやれ「IT」だ、「スマホ」だと表面的な技術革新は語られているものの、我が国社会において生きている私たち日本人の生活が1990年代から根本において全くといって変わっていないことから明らかなのだ。ちなみに製造業に至っては、結果として「技術革新」などと言われて我が国で持てはやされていることは「計測と制御」、すなわち「既にある技術をいかに正確に測り、コントロールするか」という技術でしかないとまで言う専門家たちもいるくらいである。本当の意味でのブレイクスルーがそこで実現されているとはおよそ言えないのが現実なのだ。

それでは私たち日本人が失われた「未来に向けて気づく力」を取り戻すためには一体どうすれば良いのだろうか。早急に行うべきことは2つある:

 

●第一に「本当の過去」について徹底的に学ぶことである。そうはいっても何も「歴史教科書」の論争を行おうというのではない。大切なのは「1945年8月15日」を境に我が国でこれまで起きてきたことについて正確に学ぶ必要があるのだ。1945年から1951年までの6年間にわたり、我が国は「GHQ」という名前の米軍によって占領され、統治された。この間に我が国社会のありとあらゆるシステムが改編され、現在に至っている。ところが大変奇妙なことに、私たち日本人は「一体どこが変えられ、現在に至っているのか」について学校で学ぶことが無いのである。それもそのはず、我が国のアカデミズムにおける「歴史学」はGHQによる”日本管理”の歴史を「歴史」とはあえてとらえないまま現在に至っているからだ。だが、1990年代に入り、事態は米国の側から大きく変化している。なぜならばメリーランド州にある米国国立公文書館に所蔵されていたGHQの大量の極秘文書がマイクロフィルムに撮影され、それらが我が国の国立国会図書館に引き渡されているからだ。無論、知るべき過去は「このこと」だけではない。特に明治維新以前の東アジアにおける国際システムとそれを支える人脈ネットワーク、さらには明治維新後に移入された米欧流の金融資本主義の我が国における浸透過程について、一体何が起きてきたのかを学ぶ必要がある。なぜならば、我が国の「本当の立ち位置」を知り、そこに至るまでの因果関係を知らないままに「これから」について気づくことは到底不可能だからである

●次に「気付き」は自らと異なるものに触れ合った時にだけ生じることを悟るべきである。「過去」をいくら学んだところで、部屋に閉じこもっていただけでは何も気づくことはない。無論、未来に向けた「意味」をもたらす書籍と図書館の中で出会ったり、あるいはインターネット上で「未来」を指し示してくれる人と出会うことはある。しかし最も効率が良いやり方は今も昔と変わらず生身の人と出会うことなのである。しかも自らとは全く違う立場にある人と出会い続けることによって私たち人間は絶えず刺激され、「意味」を悟り、「気付き」を得ることになる。破壊的イノヴェーション論で一躍有名となったクレイトン・クリステンセンも紹介しているとおり、スウェーデン生まれのフランス・ヨハンソンが提唱する「メディチ効果」、すなわち異なる人々が集い合うことによって新たな価値が大いに創造されていくような仕組みづくりがイノヴェーションには不可欠だ。しかしこうした仕組み・枠組みが我が国には存在しない。あるとしてもせいぜいのところ「自己啓発」や「婚活」のための散発的なサークルだけであり、本気でイノヴェーション(「革新」)を我が国社会で巻き起こそうというプラットフォームが存在しないのである

 

「我が国で何が本当の問題であるのかは分かった。そして何をしなければならないのかも分かった。しかし一体誰がそのためのイニシアティヴをとっていくべきなのか」―――次回はこの問題について答えを出していく。(続く)


原田武夫

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所(IISIA)代表取締役

http://bylines.news.yahoo.co.jp/haradatakeo/20140102-00031206/


 

パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その2)

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パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その1)

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パックス・ジャポニカへの道 「綜合文化人」宣言(その3)

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