ブログ、巨人軍。

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しつこさと、はぐらかすこと投球の如し。

2014-09-06 23:44:21 | 2014年シーズン

山本昌と同様に、1983年のドラフトで高校からプロの世界に入った主な有名選手を何人か上げてみると、
読売ジャイアンツ・水野雄仁、広島東洋カープ・紀藤真琴、阪神タイガース・仲田幸司、
ヤクルトスワローズ・池山隆寛、西武ライオンズ・渡辺久信、阪急ブレーブス・星野伸之、
近鉄バファローズ・吉井理人、この辺りが同い年の同期選手である。

入団した年は違うが年齢がいっしょという選手は、元ヤクルトで兼任監督も務めた古田敦也、
さらに中日ドラゴンズ・与田剛、日本ハムファイターズ・武田一浩、千葉ロッテ・小宮山悟、
元ヤクルトスワローズで現・読売ジャイアンツ一軍打撃コーチの橋上秀樹、
同じくジャイアンツの一軍投手コーチ・斎藤雅樹は学年は一つ上だが生まれた年は同じである。

同い年の元・野球選手らは、既に監督、コーチ、解説者などの立場である程度の実績を得ている。
そういう見方をすると、彼らの引退から、それなりに時間が経過してたことを実感する。
改めて、山本昌が如何に長くやれているかを思い知る。


最年長記録やら、最多記録やらで、
山本昌が毎年のように何かの記録更新とともに名前が取り沙汰されるようになったのは、
41、42歳くらいの2006年頃からだろうか。
当時はまだ山本昌より2つ年上の工藤公康氏が現役だった為、
両リーグ通じての記録は工藤氏のほうが少し先に達していたが、
リーグ記録に関してはドラゴンズひと筋の山本昌のほうが圧倒的に勝る。
工藤氏が引退を表明した2011年以降は、球団記録も含めたそれらのリーグ記録に係わらず、
NPB記録自体も徐々に山本昌が塗り替えている。



プロ野球の最年長勝利を達成した昨日の試合、
CS中継で解説をしていた元ドラゴンズの小松辰雄氏が、
山本昌の入団当初の印象などを語っていたのがとても面白かった。
「とにかく身体が大きくて、当時のピッチャーとしては手足が長かった。
すごにあっちが痛いこっちが痛いと泣き言ばかり言っていたのを思い出す。」 と小松氏。
ストレートの球速は当時も今もさほど変わらないと笑う。

山本昌が入団した1984年頃から数年は、まさに小松氏の全盛期。
85年、87年は最多勝を獲得するなどタイトルも数多く手にした。
山本昌と同じ高校からの入団であったが、入団当初から150キロ投手の片鱗を充分い発揮する。
そんな小松氏の目には、山本昌は身体が大きいだけのひ弱な高卒投手としか映らなかったろう。

くしくも小松氏が引退を決意した94年は、山本昌が2年連続して最多勝を獲得した年である。
自身のキャリアハイとなる19勝を挙げ、最優秀投手、最多勝、沢村賞などを獲得。
まさに山本昌の絶頂期といえる。

その絶頂を迎える数年前が、星野仙一のドラゴンズ第1次監督時代にあたる。
小松氏が語った山本昌の入団当初の印象は、
これまでにも星野仙一・現楽天監督が同じようなことをスポーツ紙やスポーツ番組などで話している。
よく山本昌の転機として語られるのが88年のロサンゼルス・ドジャースへの野球留学の話。
5年目のその年、ベロビーチで指導を受けたアイク生原さんとの関係はTV番組でも紹介されて有名だ。
そこで身につけた低めへのコントロール、スローカーブ、
そしてスクリューボールが、その後の山本昌の礎になる。

2012年にドラゴンズは1995年以来17年ぶりに高木守道氏が監督に就任した。
これも山本昌にとってはちょっとした縁ではなかったか。
高木監督は前年に右足の故障で手術していた山本昌を鼓舞し、復活を厳命した。
高木監督の第1次監督時代はまさに山本昌絶頂の時期と重なる。
高木監督が再び球団から監督に任命された意味を、
山本昌の復活というイメージに重ね合わせたかどうかは分からないが、後の山本昌のコメントで、
このとき高木監督からは開幕投手という具体的な言葉までかけられていたことを明かしており、
それが励みになったことを山本昌は高木監督への感謝の言葉と共に述べている。


2004年からドラゴンズの監督に就任した落合博満氏は8年間、監督を務めた。
2004年は山本昌が39歳になった年だ。
ようするに、40代はほぼ、落合監督のもとで野球をやっているということになる。
40代の山本昌を、監督としていちばん近くで見て、いちばんよく知っているのが落合博満だ。
そんな落合監督が2013年のオフからGMというカタチでドラゴンズに還ってきた。
井端の騒動をはじめ、契約更改での主力選手の年俸大幅カットは就任早々話題になったが、
その際、落合GMは山本昌の年俸カットの理由を 「50歳まで投げるための措置」 と説明。
井端の去就の陰にあって、このことも温情措置のように扱われ、
けっこうメディアに取り上げられて話題となった。
この査定に対し、山本昌は契約更改後の記者会見で、
穏やかな表情を浮かべながら前向きに発言していたの憶えている。
両者の本音までは分からないが、おそらくこの言葉で、
山本昌が次のシーズンに向けて気持ちにささやかでもユトリが持てたであろうことは想像に難くない。
こういったタイミングにも巡り合せを感じる。



山本昌がここまで長いこと現役を続けていられる裏には、
身体と技術に対する鍛錬はもちろんのこと、
本人がインタビューで照れ隠しのように言っていた ”しつこさ” も、
言い換えれば ”努力” と捉えることも出来るだろうし、
昨年引退した同僚の山崎武司が某雑誌で語っているような、
「無類の負けず嫌い」 という性格も大いに一役買っているかもしれない。
また、様々なメディアによって取り上げられているそんな山本昌のここまでの野球人生を眺めていると、
やはり本人の力だけでは成し得ないようないくつもの ”運” の積み重ねも場面場面で見えてくる。

その運は、出会い、と表現してもいいだろう。
アメリカで指導を受けたアイク生原さんとの出会いや、要所で絡むコーチや指揮官。
ドラゴンズというチームカラーも無関係ではないかもしれない。
そんな様々な出会いを要所で引き寄せるのも、山本昌の運と才能だ。


野球選手の選手寿命も昔に比べれば随分と伸びたようにも思える。
それでも長くやれる選手は限られている。
丈夫な身体と巧みな技術。
これらも山本昌のいう ”しつこさ” の賜物だろうか。

山本昌のような個性豊かな選手を長く見続けることが出来るのも野球ファンにとってはうれしいこと。
山本昌をモデルにはしづらいし、今後、山本昌に続くような選手が出てくるかは分からないけれど、
山本昌の言う ”しつこさ” を ”努力” と置き換えるならば、
そんな情熱に満ちたベテラン選手らは多くの球団に存在している。
そんなしつこさを引き継ぐような選手がこの後、どれくらい出てくるだろうか楽しみである。

そういえば、ドラゴンズにも、そんな可能性を秘めた選手が何人か控えている。
和田一浩、小笠原道大。
そして岩瀬仁紀がどこまで投げ続けられるかも、期待を持って見ていたい。