精神の内戦 - 辺見庸の発言(3)

2006年01月31日 | Weblog
   辺見庸氏の発言第三弾。

【最近、イラク戦争における死者数を調べていて不思議の感に堪えなかった。英米系非政府組織(NGO)「イラク・ボディー・カウント」の集計によると、2003年3月の開戦以来イラクではこれまでに最大で約三万一千人の民間人が爆撃や戦闘などに巻き込まれて殺されているという。あまりと言えば理不尽である。
しかしながら、思えばこの数字、このところの日本の年間自殺者数と大差ない。日本では自殺者が04年まで連続7年間3万人を超えた。戦争犠牲者と群れなす自殺者-。両者は一見、何の関係もなさそうだ。だが、彼方の死もこちら側の自死も、ともに21世紀世界の不条理を刻んでいるのであり、もっともっと考察されていい。
まず、戦争と平和の通念を考え直す必要がある。たとえば、一日に80人もの人々が自死する(未遂者を含めると推定で毎日八百人が何らかの形で自死を試みるという)ような日本が果たして平和と言えるのかどうか。死者数だけで見るなら、これはもう戦争規模である。
国家が自己の意志を貫徹するために他国との間に行う武力闘争を戦争と言うならば、日本は確かにいま戦時にはない。が、これはあくまでも狭義の判定であり、広義に解釈すれば、日本は目下「精神の内戦」もしくは「内面の戦時下」にあると言えるかもしれない。
「自殺論」を著した社会学者デュルケームによれば、戦争は自殺の増加に抑制的作用をするのだそうだ。おそらく、国家的昂揚が一般に個人を内攻させないからか、もしくは戦争によりかえって生の価値を実感するからであろう。日本でも真珠湾攻撃直前から戦争ピーク時にかけて自殺件数が減少したという動態研究がある。逆に考えれば、平和には実は人々を自殺へと誘う目には見えない死の花々が咲き競っているということだろうか。
デュルケームが分類した自殺パターンの一つに「アノミー的自殺」があり、これこそ平時に咲き乱れる死の花が誘引するものだという見方がある。アノミー的自殺とは、社会的規範がないか緩い状態ないしは自由な状況下で起きる自殺現象。自殺大国であるロシアや日本にこれが当てはまるかもしれない。人間とはけだし厄介な生き物である。社会的統制が強ければこれに激しく反発し、緩くなればなったで生きる方向性と実感を失い、陸続と自死へと向かう人々が現れる。
自殺は21世紀世界の主要なシンドローム(症候群)を形成していくのではないか。そんな予感がする。実際、死の衝迫は各所で爆発している。たとえば、9・11は画時代的テロであったのと同時に、名状の難しい自殺行動でもあった。自己身体と爆弾を一体化する自爆テロという名の自殺行動はイラクだけでなく世界各地に広がりつつある。こうしたテロに対する戦争を発動したブッシュ米大統領の思想と行動自体もまた「自殺的」であるという考え方は、グローバル化に反対する欧州知識人の間では珍しくない。フランスの哲学者ボードリアールは9・11をきっかけにした反テロ戦争の発動を「自らへの宣戦布告」つまり欧米世界の自殺になぞらえている。
強国の権力の増大は権力破壊への意志(テロ)をひたすら激化させる、とボードリアールは説く。テロの客観的条件を創ったのはグローバル化など強国のシステムそのものなのだ、とも。反テロ戦争に完全勝利するには、したがって、強国のシステムそのものを打倒せざるを得ない。即ち、自殺的であるというわけだ。ボードリアールは9・11後「それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうなのだ」とまで言いつのった。無論、象徴的意味合いでだが、伏在する破壊の欲動は、膨らむ一方の自死の衝迫と相俟って不可視の葛藤の渦を巻き起こしているようだ。
ソフォクレスの「オイディプス王」には盲目の預言者が王に対し「あなたが捜している下手人、それはあなたご自身ですぞ」と告げる場面がある。もじって、「米国の敵は米国自身ですぞ」と言うのは牽強付会だろうか。】


万物の商品化 - 辺見庸の発言(2)

2006年01月30日 | Weblog
   辺見庸氏の発言第二弾。

【「水は遠き遠き白雲の中より流れ来り・・・」と綴ったのは田山花袋だが、清潔で美味しい自然水が商品になるなどと作家は一度として想像したことはあるまい。だから、「雪山を崩したる如き激端を作り、更に又静まりて・・・」(「多摩の上流」)と水の流れを美しく描きえたのである。いま、自然水は不可欠の商品であり、場合によっては牛乳や果物ジュース、ワインより高価だ。遠い白雲の中から流れくる、誰の物でもない水は物語を運んだけれど、しかし、商品化された水にロマンを見るのは難しい。
缶入りの「摩周湖の霧」というのを数年前に買ったことがある。ご愛嬌とはいえ、売り物の霧にむせんでも詩心はわかなかった。中空に漂う霧のごときものは誰にも帰属しないはずなのにと思っていたら、いまや「空中権」(AIR RIGHTS)なる概念や法律があるらしい。米国では所有する土地に上下の範囲を定め、その空間を排他的に使用し、収益をあげたり売却したりする権利が法律で保証されているという。そうなると、浮き雲に人の世の無常を感じるも何も、上空を見上げるだけでお金を取られそうで興ざめだ。
水や空中権だけではない。労働、教育、福祉、医療、冠婚葬祭、スポーツ、臓器、遺伝子、精子、血液、セックス、安全、癒し、障害者・老人介護・・・金銭に置き換えられないものを身のまわりに見つけるのは至難の業だ。これを「万物の商品化」という。使用価値がありながら交換価値がなかったもの(たとえば海水、日光など)に値をつけていく傾向である。本格化したのは十五世紀以降といわれ、二十一世紀の現在も万物の商品化はとどまることをしらない。それは資本主義の生成、発展、変容に不可欠な営みであり、資本主義が猛る時は、必ず新たな商品化プロセスがあると言っていいだろう。
では、物語、理想、夢、正義・・・といった心的価値系列はどうだろうか。モノの商品化をあらかた終えた現在では、コンテンツ産業の隆盛に見られるとおり、心的価値こそ資本主義の生き残りをかけた商品化のターゲットになっている。いわば意識または無意識の商品化だ。勧善懲悪ものからピカレスク(悪漢)物語まで、映像だろうが活字だろうが、あらゆる種類の物語をオン・デマンドで末端に配信するビジネスはもはや目新しくない。だが、物語は完全商品化することで真正の物語を日々失いつつある。
何かがおかしい。人が人であること自体に狂いが生じてきている。風景はなべて原資を失って擬似的になり、言葉という言葉には厭らしい鬆(す)が立ち、欲動が体内から湧くのでなく体外から操作されている感じ。怒りや哀しみの情動が直接性をなくし、自分と世界が分断されているような不安。万物商品化の世界では人間存在が先細り、人はひたすら資本の使徒としてのみ生かされる。狂いの根本はここにあろう。ここにきて商品化プロセスの負荷が人の無意識を深く蝕み始めているのだ。
だが、途方もない悪人がいて、特定の底意をもって全域商品化を進めているというのではないようだ。万物の商品化はむしろ資本主義の本性であり、法則であって、商品化するものをなくした時、資本主義は死期を迎える。多分、最後の砦は人間である。何から何まで売り渡し、終いには己の実存そのものも商品化するか、もしくは、脱商品化へのきっかけをしゃにむに探すかー大きな選択を迫られている。
この観点から小泉政治を眺めると面白い。類い稀な成功の訳は、その劇場型政治にあるのでなく、首相が「改革」という名の万物の商品化を、資本の使徒として無慈悲に進めているからではないのか。そのような政治にあっては本来あるべき無料の公共サービスを民営化すなわち商品化して有料とするのも「改革」と言うらしい。かくして、富者はますます富み、貧者はいよいよ貧することとなる。
商品化が盛んな時代には、人間がその意思の力で社会を変える運動が沈滞し、資本が人間の意思を代行してしまう。フルク・グレヴィルの戯曲にこんな言葉があった。「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられ・・・」。現在はそういう時代に見える。この言葉とて何かのCMに使われかねないのだ。】


世界の涙の総量は不変か - 辺見庸の発言(1)

2006年01月28日 | Weblog
地方紙のなかなか良い企画である。先日、地元紙で一面、全く広告も無しで、作家辺見庸氏のコラムが4本同時に掲載されていた。読んでいない人の為に4回に分けて転載したい。手抜きと怒らないでほしい。私の駄文よりずっと良い。著作権はとりあえず無視(笑)。

【脳出血で倒れて入院していたころ、私と一緒につらいリハビリをしていた50歳代と思しき男がある日突然、声を絞り出すようにして独りごちた。怪しい呂律だったが「こうまで苦労して生きていく価値があるのかなあ・・・」と聞こえた。言葉が耳朶に残り、いつしか私も同じような独り言を呟くようになった。この世の中で頑張る意味ってあるのかなあ。リハビリのつらさを言いたいのではない。生き続ける労苦が周りの風景とつり合わなくなってきた、何だか甲斐がないな、という気分がため息をつかせるのである。
久方ぶりに復帰した社会は、清貧も精励も美徳ではなくなっただけではなく、どうかすると嘲られかねない。消費と投資がもてはやされ、射幸心を持つも煽るも罪悪視されなくなった。以前からそうだったと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、劇的に変わりつつあるのは疑いない。競馬の天皇賞を2005年秋、天皇が観戦した。眩暈がするほど大きな価値観の転換を私は感じた。仰天のわけは、それまで長きにわたり観戦を控えてきた理由の消失にそのまま重なる。競馬にせよ株にせよ、一攫千金を狙うのはもはや恥でも罪でもなくなりつつある。
1980年代に、吉本・埴谷論争というのがあった。かつて日米安保闘争に加わった詩人、吉本隆明が、あろうことか、女性誌にコム・デ・ギャルソンを着て登場、作家、埴谷雄高がこれをなじったことに端を発する議論だ。外野は半ば苦笑しながら論争を見守ったものだが、今思うに深刻な意味を秘めていた。資本主義的生活スタイルを否定的に語る埴谷に対し、吉本は高度成長それ自体は悪ではないと主張し、生産と消費の価値はいつの日か逆転するだろう、と予言してみせた。
幸か不幸か、吉本の予言は当たった。生産、労働、刻苦、精励、終身雇用、労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともカジノ資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代をいま迎えている。ほぼ同時期に戦後民主主義や憲法九条といった「思想の堤防」が決壊しつつあるのは何も偶然ではない。自明だったことどもの一切がもはや自明性を失ったのだ。
問題は人が生きることの内奥の重みや光がはたしてここにあるのか、ということだ。他者の悲しみや苦悩はそれとして感じられているのだろうか。風景は満目、発砲スチロールのように軽く、ひたすら嘘っぽくなった。たとえば“小泉チルドレン”など語るも虚しい。
罪ならぬ罪、無意識の倒錯が実は氾濫しているようだ。2003年のイラク開戦日、日本では大きな反戦デモはなかったけれど、テレビの株番組が高視聴率を記録した。バグダッド猛爆の最中に開催された格闘技戦に数万の観客が押しかけ、テレビの瞬間最高視聴率が30%近くなったりもした。
犯意も廉恥心もありはしない。<何かがおかしい>と訝る心の羅針盤が狂ってきてはいないか。戦争、地震、津波、ハリケーンのたびに被災地を慮るのではなく、株価とにらめっこする人々が増えてきた。その中には、高校生や大学生の「投資家」もいる。インターネットで株価の動向を追うのには長けていても、彼方の悲鳴に心を痛める想像力に欠ける。
おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値観が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だった世界に透明な狂気が入りこんできて、狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問はずこれからも減りはしないだろう。「世界の涙の総量は不変だ」。べケットの戯曲「ゴド―を待ちながら」に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。今、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増え続けているのかもしれない。】


課外授業にようこそ

2006年01月26日 | Weblog
受験シーズンである。トヨタや中部電力やJR東海など中部財界が出資して開校される中高一貫の海陽学園に受験生がそれなりに殺到している。設立者サイドは日本の将来のエリートを作りたいと公言して憚らない。どんなエリート教育をしたいのだろうか。

堀江貴文氏は受験エリートだった。東京大学に入学するだけの偏差値学力はあった。しかし、自分の限界も同時に知っていたはずだ。中学、高校と九州の有名私立進学校に在籍していたから、周りの同級生には優秀な人間が多かっただろう。彼ら同級生の中には東大法学部に進み、官僚になったり、理系なら、医学や工学の世界で既に活躍している人間も多いだろう。そんな彼らに比べれば、文学部の堀江氏は己の限界も知っていたのだろう。日本文学でも、英文学でも、はたまた、社会学の世界でサブカルチャーを研究する選択支もあったはずだが、ビジネスの世界に飛び込んだ。彼はコンプレックスを抱えていたのだろう。ルックスが特別良いわけでもない。文学部なら、就職で勝ち組みに入れる保証もない。自分で自分を何者かにしたかったのだ。彼にとって、地道に学究生活を送ることよりも株取引と言う課外授業の方が意味をなしえた。雑誌プレイボーイを地で行く生活を送れば、大衆は拍手喝采を自分に送ることを理解していた。良い車に乗り、幾人もの女性を側にはべらし、美食の限りを尽くす。全部、世の男性の夢だったのだ。社会的に成功する夢を実現してみせたのだ。しかし、大衆は同時に残酷でもある。大衆はガス抜きにも拍手喝采する。ルサンチマンを抱えた大衆は堀江氏に自分をかさね、そして、墜ちた偶像を今度は叩き、溜飲を下げる。

堀江氏の少し長めの課外授業は終了した。彼は何を学んだのだろう。
現在、日本の中学や高校では、職場体験学習などの課外授業も盛んに行われている。その中でも授業に株式の売買を取り入れているところもある。また、各界の人物を招き、講師に据えている。海陽学園ではどんな人物が招鞭されるのだろうか。

  宇沢弘文氏  鎌田 慧氏
  高木 剛氏  佐高 信氏
  森田 実氏  堀江貴文氏
  
以上の人々が、講師になれば面白いが、あり得ないんだろうなあ。

― 香山リカ+福田和也 『愛国問答』より ―
 香山「日野原重明のベストセラー本なんか読むと、やっぱりすごい教養
    ですよね。ギリシアの先哲、とか言われてみんなついていけるかと
    思うけど。いろいろな物を読んでいる。財界人にあんな人はいない?」
 福田「いや、中にはいますけど。でも財界人って本当にどうしようもない。
    僕、商売柄、三百人ぐらい会っているけど、まともな人って三人か
    四人ぐらい。本を読んでいる人は本当に少ないですね。」


シン・ガンス

2006年01月21日 | Weblog
政局はもう始まっている。現在、日本人のナショナリズムを一番刺激するのは北朝鮮による拉致事件だろう。シン・ガンス容疑者が横田めぐみさんも拉致したとして、正式に国際手配された。これも国策だとは思う。今から、次の政局は動いている。シン・ガンスが逮捕拘禁された時に釈放を求める嘆願書に署名したのは以下の議員達だ。

  土井たか子(社民)  菅直人(民主)
  元岡昭二(無)    淵上貞夫(社民)
  江田五月(民主)   佐藤観樹(民主)
  伊藤忠治(民主)   田並たねあき(民主)
  山下八洲夫(民主)  千葉景子(民主)
  山本正和(無所属の会)
  村山富市(元首相)  青嶋幸男(前都知事)
  鳥居一雄(公明)   小川新一郎(公明)
  西中清(公明)    猪熊重二(公明) 
  和田教美(公明)   塩出啓典(公明)    (すべて当時)

与党の公明党の議員もいるが、問題は民主党や社民党の議員達の存在ではないか。土井たか子氏が03年の総選挙で小選挙区で敗北したのは、この問題が明らかに影響している。当時から、私は何故社民党や菅直人氏や江田五月氏が共同でも記者会見を開かないのだろうか、と思っていた。やはり、北朝鮮に対する認識が甘かったのだ。私もそうだが、スパイ小説もどきの拉致などと言うものが本当に実行されていると思っていなかったのではないか。政治家も半信半疑だったのだと思う。国民の前で、家族会の前で、正式に謝罪をすべきだったのだ。そうしないと、彼らは政局でまた、負けるだろう。

野党というか、左派の弱さはそこにある。時として、彼らは独善的になり、自分達の理論に酔い、大衆の信頼を失い、保守派に付け入る隙を与える。例えば、今でも、大学のキャンパスに行ったとして、自治会はどうなっているか。いまだに○○派□□同盟とか言う連中が牛耳っているんだろう。学生達の殆どは20代なのに、30代や40代の連中がのさばっているんだろう。そんな連中を作り上げたのは誰だ。左派ではないか。かつて彼らに影響を与えて今は知らん振りを決め込んでいるのは、マル経だった元教授連中だろう。彼らはそれを本当に反省したのか。
古い記憶を掘り起こせば、それらの理論を信じて、死んで行った若者達がいるではないか。奥浩平がいるではないか。死なないまでも、廃人になったり、普通の市民生活が出来なくなった人間がいるだろう。桐山襲のように沖縄で、身を削り数冊の著作を残し死んで行った人間がいるではないか。テルアビブで銃を乱射した挙句、廃人になった岡本公三もいる。左派は本当に反省したのか。いや、反省はしなくても、せめて死んで行った若者達の心に寄り添ったのだろうか。中国の文革に拍手喝采した自分を呪わなくていいのか。テリー伊藤あたりのタレント風情に論破された主体思想をついこの間まで信じていた大学教授は、最近何か発言したのか。

美濃部革新都政や、蜷川府政を懐かしんだところで、今の20代が知っているわけ無いだろう。革命。ふざけてはいけない。共産党の議席は9だ。政権交代。何を寝言を言っているのだ。社民党は7議席で、野党第一党の民主党ですら、わずか113議席ではないか。彼ら自身が自惚れたらいけないし、野党に頑張ってほしいと思っている私達も少数派であることを認識すべきだと思う。

謝罪すべきなのだ。そして大衆の支持を少しでも上げるべきではないか。自分達の間違いを潔く認めて、この問題にどこかでケリをつけるべきなのだ。そうしないと、来るべき政局で、野党攻撃の材料として、大衆人気のある安倍晋三氏などが舌なめずりをして待っているだろう。他国の瑕疵を必要以上に煽り、人の心に劣情をもたらせようとする言説には私は与しないが、同時に潔さが人の心を打つ時もあると思う。そこから、野党の反転攻勢が始まるのではないだろうか。