人間として生きたいと思った男

2006年09月23日 | Weblog
少子化日本と言われるようになって随分と日が経つ。1.2台にまで落ちた日本の出生率が劇的に改善する兆しはみえない。それはそうだろうと思う。現代の新自由主義の一番悪辣なところは人間を商品化しすぎたところにあると思う。資本が人間を商品と見做す行為は昔からあったと言えば、あった。例えば、株式会社リクルートは人身売買企業ではないかという意見も私が若い頃から一部ではあった。ただ、最近のそれ(新自由主義)はあからさまに資本の論理を振りかざして恥を知らなくなった。人を商品として売買する偽装請負や派遣業がこれだけ跋扈する世の中では生まれた新しい命が、将来、一体全体、「人間になるのか」「商品になるのか」わからない。自覚であれ、無自覚であれ、そういう環境が常態化した現代の日本では、若い人が結婚し、子供を作り、安心して子育て出来るとはなかなか思えないだろう。

皇室に男児が生まれた。今の日本で、生まれて来たことをこれほど喜んでもらえた赤ん坊は悠仁ちゃんをおいて他にはいないだろう。生まれてきてよかったね。私は天皇制についても、皇位継承の問題についても詳しい知識がないし、あまり関心がない。ただ、この国で今、生まれて来た一人の新生児がまずは「人間として」健やかに育って欲しいとは、心の底から思う。
蛇足ながら、退任する小泉氏や竹中氏を支持してきた保守派の人間に聞いてみたいことがある。彼らほど、人間を商品化した政治家はいないと思う。皇室に生まれようが、一般の家庭に生まれようが、人間を人間としてまっとうに扱わない新自由主義者が、本当の意味で皇室に敬意など抱いていたとは思えない。
人間が一個の存在として、肉体的にも精神的にも成長するには、愛情に包まれて、それなりに適切な過程を経なければならないと思う。それを教育と呼ぶのかもしれない。成長し自我に目覚め、自立し、社会の中で、あるいは大切な誰かにとって自分が必要とされる人間になる。ある人は、サラリーマンになり、ある人はスポーツ選手になり、ある人は国民の象徴になり、そうなるのだろう。


自分が「人間になり」、ひょっとしたら、誰かに必要とされるのではないかと一度信じながら、死んでいったあの男 ― 永山則夫はどうだったのだろう。

永山の生い立ちは極めて不遇だった。永山は49年、北海道網走市の貧しい家庭に生まれる。賭博に明け暮れた父は後に失踪。5歳の時、母親は永山を含む4人の仔を置き去りにして出奔。翌年、栄養失調状態のところを福祉事務所に救出される。永山は小・中学校を通じて新聞配達をしてきた。学校は長期欠席状態で家出を何度も試みた。16歳で中学を認定卒業すると、集団就職で上京する。しかし、就職先でも同僚と馴染めず、職を転々とする。この間、2度の密航を企てるが失敗。自殺未遂も繰り返し、絶望的な彷徨の果てに、68年10月から11月、米軍横須賀基地から、盗んだ小型ピストルを使って、連続射殺魔事件を起こす。わずか1ヶ月足らずの間に、東京、京都、函館、名古屋でガードマン、タクシー運転手ら4人の命を奪った。犯行当時19歳だった。
逮捕後、永山は被害者に慰謝しながら、自身の犯罪の根拠に貧困と無知があったとの結論にいたる。71年、獄中ノート『無知の涙』を出版し、ベストセラーとなる。79年7月、永山は東京地裁で死刑判決を受けるが、81年東京高裁で無期懲役に減刑される。(船田判決)
船田判決は永山が精神的に未成熟であったことを理由に、死刑を回避したのである。さらに、死刑の適用についても見解を示し、「死刑を選択するのは、いかなる裁判所であっても死刑を言い渡すであろう事件に限る」と述べたのだった。
船田判決の前年、永山は文通相手の女性と獄中結婚している。永山が高裁の判決を受け、自ら生きる意志を固めたことは想像に難くない。
だが、高裁判決から、ほどなくして、検察は量刑不当を理由に上告。83年7月、最高裁第二小法廷は無期懲役を破棄、高裁に差し戻す。事実上、死刑にするためにあらためて審理のやり直しを命じたのである。
最高裁判決の後、弁護団の一人、大谷恭子弁護士は永山と接見した。
「生きたいと思わせてから殺すのが、お前らのやり方か」
「なぜ『生きろ』と言った」
永山は静かな口調で詰った。
船田判決は『原審が死刑判決を選択したことは首肯できないわけではない』とも述べており、無期は審理を尽くした上での総合的な判断だった。永山を再び死刑にしたのは、死刑制度を維持する為としか思えなかった。      (月刊現代10月号より)

それでもまだ、永山則夫の時代には世間に憐憫があった。自分が同じ立場になるかもしれないと言う感情が世間のどこかにまだあった。彼が死刑になる事に世間全体に葛藤があった。
ここ数年でそれが消えようとしている。それは、この国に新自由主義の嵐が吹き荒れ、自己責任という言葉が席巻した過程と軌を一にしている。
新自由主義と犯罪に対する厳罰化はリンクしている。一部の自称勝ち組はそれで治安が守れると誤解している。

皇室に生まれた男児のみが慈しまれるのではなく、全ての命が「商品になる」のではなく「人間になる」世の中の方がずっといいはずだ。


後藤田議員を応援する

2006年09月18日 | Weblog
私が当ブログで自民党議員をほめるのは珍しいのだが・・・
先日、内閣府政務官を辞任した後藤田議員を支持する。後藤田氏の地元徳島も他の地方と同じように、格差に苦しめられている人が多いのだろう。中央から進出してきた大手パチンコチェーン店とサラ金の店舗がセットになって街の景観を醜くし、人心も荒れてきているのを感じているのではないか。

  ― 以下、アサヒコムのインタビューより ―

気軽に借りられ、つい重ねた末に、返済不能なまでに膨れ上がり、汗水流して働いても利息すら返済し切れない。そんな状況を解決するため、「消費者保護」の観点で議論が進められた貸金業の金利引き下げ問題。ところが、金融庁が示した改正案は「業者より」だった。これに反発し、議論をリードしてきた後藤田正純衆院議員(徳島3区)が内閣府政務官を辞任した。「議員として徹底的にこの問題に取り組む」という後藤田氏に辞任の理由や、問題の背景などを聞いた。(志村英司)

―――辞任の理由は。

政務官として、金融庁案は容認できず、強く反対したが土壇場でも変化はなかった。同庁が設置した有識者懇談会は特例措置に反対する意見が大勢を占めた。懇談会は税金を使って1年半議論してきた。その意見を反映しないのは何事かということだ。
金融庁案はこれまでの議員立法と比べて、参入規制や過剰貸し付けの規制など前進した面はある。しかし、グレーゾーン金利が温存される9年間の経過措置は認められない。
金融庁のナンバー3である政務官という立場では、改正案が自民党側に提出されたら従うしかない。それは政治家として出来ない。だから、政務官を辞め、(金融庁側ではなく)立法側の一国会議員として、翌日から部会に出て改正案をただしている。

―――金利を下げると、本当に借りたい人が借りられなくなるという業者側の主張を追従する声も自民党内にあります。

「ちょっと待て」と言いたい。預金の金利が1%をはるかに下回るのに、金利が2割以上ですよ。しかも、経済的に困っているから借りるわけだから、そんな状況の人に20%以上の高金利で貸し付けることを国が奨励していいはずがない。
貸さなければヤミ金に流れるという理屈もあるが、その対策として国はセーフティーネットを作るべきだ。地方自治体と一緒に、法テラス(法律相談窓口)も活用して、債務整理の相談に乗りながら、政策金融を整備する。それが本来の国のあり方ではないか。

 一番悪いのはメガバンク(大手都市銀行)。バブルの時は、低金利で会社に過剰に貸し付けた。今は、消費者金融を通じて、高金利で個人に貸している。メガバンクと消費者金融が膨大な利益を上げている。

―――過剰貸し付けは大手の責任が大きいのか。

 客はまず大手に行く。大手は上場やコマーシャルペーパー(CP)発行で資金を安く調達し、高金利を背景に少々のリスクがあっても貸し付ける。これが過剰融資につながる。
 貸し倒れ率は9%程度という報告もある。まじめな借り手が過大に負担している分で業者側がリスクヘッジ(危険回避)をしている構図だ。
 消費者金融の顧客の大半は年収300万円前後と言われる。返済に充てられるのはせいぜい月2、3万円だろう。急場しのぎの貸し付けが必要な時はあるが、返せなくなるまで金を貸すのは大問題だ。あれだけCMが流れるのもおかしい。たばこは規制されているのに、まるで社会全体で借金を奨励しているように見える。

―――大手と中小を同じ法律で規制するのが無理という議論もある。

 私も中小に対して同情的な部分はある。(無人機ではなく)昔ながらの対面で、小口でまじめにやっている所はある。
 自己破産している人は、だいたい7、8社から200万円以上借りてパンクしている。まず大手3、4社から借り、その返済を迫られて中小から借りるのが一般的だ。
 メガバンクや製鉄と同じように貸金業も業界再編の時期が来ている。そうして、まじめな中小業者がきめ細かな対応ができるようになれば、金利を引き下げた場合、「大手が貸さない人」へのセーフティーネットの役割を担える。

―――なぜ多重債務問題にこだわるのか。

 金の貸し借りは社会政策と結びついている。借金が増えると、家庭の崩壊や犯罪の増加、自殺者の増加にもつながる。
 政治家は立場の弱い人に光を当てる、これが大原則だ。先代(故後藤田正晴・元副総理)からたたき込まれた。その思いをしっかりと持ち、ぶれずに問題に向き合っている。県選出の国会議員として徳島のみなさんに恥ずかしくない行動をしているつもりです。

 ◆ グレーゾーン金利 ◆
 出資法の上限金利(年29・2%)と、利息制限法(年15~20%)の上限の間の金利。多くの消費者金融業者がこの範囲内で営業する。最高裁が利息制限法を上回る分を「事実上無効」との判断を示し、大手各社は過払い分の返還に迫られている。
 多重債務や過剰貸し付けの「根源」と指摘され、05年3月から今年8月まで議論を続けた金融庁の有識者懇談会では早期撤廃を求める意見が大勢を占めた。しかし、5日に自民党金融調査会に示された同庁案は少額・短期の融資に最長9年間の特例を認め、グレーゾーン金利が温存されることになり、各方面から批判が相次いでいる。

同じ自民党でもコイツはなんじゃ。
       ↓
「年29.2%という金利は決して高くない本来は、健全な市場競争で決める自由金利であるべき。」 月刊クレジット・エイジ7月号

「私が一政治家として一般論を申し上げれば、郵政民営化後の業務展開の中で
 新たな一つの可能性だと、こう思っています。 それはどういうことかという
 と、法令を遵守して健全な業を営む、こういう消費者金融業の皆さんが活用
 できる時代が 来るかもしれないと、こういうことは一般論として言及してお
 ります」         郵政民営化担当 西川公也副大臣

第162回国会 郵政民営化に関する特別委員会 第13号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/162/0087/16208030087013c.html

自民党 衆議院議員  西川公也 選挙区 北関東ブロック 比例代表 当選回数:4回
・ホームページ:ttp://www5.ocn.ne.jp/~kouya/


天下りする連中も恥ずかしくないのか。

<武○士に就職した官僚>

  氏名        官職          役職
 福○勝一   警視総監.         武○士顧問
 松○直良   大蔵省関税局長.(当時)      武○士顧問
 徳○博美   大蔵省主計局主計官(当時)    武○士監査役
          大蔵省銀行局長

右翼よ、加藤紘一氏ではなく、国賊はここにいる。


人生に再チャレンジする為、一円で起業しますた

2006年09月16日 | Weblog
  再チャレンジ起業 その一

壷売り株式会社
住所 永田町
資本金 一円
社長 ア○チャン
常務取締役 保岡○治
元気はいいけど、営業成績がイマイチなセールスマン ヤマモト君

セールスマ二ュアル
「イェーイ、奥さん、壺買ってくださいよ。この壺を買えば、ご利益が
 いっぱいありますよ。なんつっても、世界地図を見ても、イラクの場
 所が分からなくなりますから。臭いものには壺をしろ、てよく言うで
 しょ。え、この壺の原価? 50円にきまってるじゃないですか。
 それを500万で買ってくださいよ。ご利益ありますから。イェーイ!」

  再チャレンジ起業 その二

株式会社 青い鳥(から揚げ屋さん)
住所 永田町
資本金 一円
社長 アベ○ャン
専務取締役 保岡○治の妻(ご出席ありがとう)
歌は上手いけど、営業成績がイマイチな販売員 ジュンコちゃん
 
  販売ソング
「♪ようこそ、カルト、クックック、私の青い鳥。恋をした心で信じるの♪
 ♪ようこそ、カルト、クックック、チャレンジしてみるの。恋をした心
 で食べるのよ♪」

  再チャレンジ起業 その三

株式会社 サ○ケイ新聞拡張団
住所 永田町
資本金 一円
社長 アベチ○ン
顧問弁護士 稲田○美
一見ヤクザだがやっぱりヤクザな拡張員 松○ケンシロウ

  押し売りトーク
「ひでぶあべし。あ~奥さん、お宅新聞どこ取ってるの?えっアサヒ
 アサヒ、アカピ。いかんなあ、そりゃー娘さんの純潔が守れんよ。
 サ○ケイにしときなさい。景品に壺あげるから。なにぃ、いらない?
 こらっ、コップの水かけるぞ!」

― おしまい ―

 

命を懸けた政治家

2006年09月13日 | Weblog
アベちゃんはこの国の為に命を懸けるんだそうである。

政治に命を懸けるとはこういう人を言うんだよ。
         ↓
      オロフ・パルメ

イスラエルとパレスチナとレバノンがグダグダの状態で多数の人間が死んでいる。
日本はアメリカの実質属国とは言え、独自の中東政策も持ち、イスラエル一辺等ではなく、アラブ諸国とも比較的良好な関係を築いてきた。それは先人たちの知恵であり、何かと批判をされても日本の外務省の成果の一つではなかったか。また、賛否は別として、日本赤軍の連中がパレスチナでは英雄視された時期もあった。多分、イラクに日本政府が自衛隊を派遣したとき、アラブの人々は複雑な感情を抱いただろう。あの日本までがアメリカ軍の下請けとして、われ等の土地にやって来たのかと。

政治的には欧州の中でも独仏程大国ではないスウェーデンのパルメ首相が電撃的に中東を訪れ、当時泥沼状態だったイラン・イラク戦争の終結に向けて奔走したのは1985年。その翌年2月、彼は、何者かに(彼の存在が邪魔な勢力に)暗殺された。軍縮と核廃絶に命を懸けた一生だった。

アベちゃん、軍縮と核廃絶に政治生命を懸けてみたらどうだろう。
もし、それであなたがよもや暗殺されても、全ての日本人は子々孫々の代まで被爆国日本にはかつて凶弾に倒れた偉大な政治家がいたと語り継ぐだろう。

政治に命を懸けるとはそう言うことだ。


ぼちぼち行くか

2006年09月12日 | Weblog
え~~~、なが~~~く、ブログの更新をさぼってしまいました。申し訳ないです。PCに向かわない日も多く、なんとなく疲れていました。その間にブログ界でも色々あったようで、『ピリカラ納豆・甘納豆』さんが閉鎖され、たまに読ませていただいていた憂国系ブログの『三輪のレッドアラート』さんも閉鎖され、寂しいかぎりです。私自身は自意識過剰にならずに、たかだか素人のブログごときに組織的な圧力なんてないだろうとまだ、どこかで信じたい甘ちゃんの自分がいます。以前のエントリーでも書いたことが私のブログという物に対する思いで、いまでも基本は変りません。ブロガーがブロガーを批判するためだけに一つのエントリーをたてたり、他者のブログのコメント欄を利用して嫌がらせをするような人は私の理解の外にあります。
私がこのブログを立ち上げた当時は一日の閲覧者が10人ぐらいだったと思います。そのぐらいのアクセス数に戻ってから、また気楽に書きたいことを書いて行こうかなあ、なんて思ってました。しかし、ほとんど更新をしていなかったこの一ヶ月の間でも70~100アクセスもある日もありました。何度も訪れて下さったみなさん、申し訳ありませんでした。コメントを下さった子路さん、心配をかけてすみません。私はいたって元気です(笑)。小路さん、あまり神経質になりすぎずに行きましょうや。また、TBを下さったおなじみのみなさん、はじめてTBを下さった方も、ありがとうございました。この文章をもってお礼に代えさせていただきます。TBは必ず読んでいます。
きっこの日記や山崎行太郎さんのブログの存在がいつまで続くかがネットの世界の言論の自由をはかる羅針盤になるかなあ、と最近個人的には思っています。

私もまた、ぼちぼち行こう。