もしも、私が田所博士だったら

2006年05月29日 | Weblog
もし日本列島が消えてなくなる運命だったら・・・。
リバイバルで今年、『日本沈没』のリメイク版の映画が上映されるそうだ。私は、先日レンタルDVDで30年前に制作された映画を鑑賞してみた。原作は73年に刊行された小松左京氏の同名小説で当時大ベストセラーになった。ストーリーは有名なので、既知の人が多いだろう。日本列島に大規模な地殻変動が起こり、列島の殆どが海中に没するという物語だ。73~74年の田中内閣の頃はひどいインフレで、子供心に石油ショックやトイレットペーパーを買い求める為にスーパーマーケット等に殺到する主婦の姿が印象に残っている。何となく落ち着かない世相にマッチした作品だった。
物語の中で、登場人物の一人地球物理学者の田所博士があと1年程で日本列島の殆どが海中に没することを国民に知らせるべきか、知らせざるべきか、時の総理大臣と議論するシーンも出てくる。

先般、政府与党は教育基本法改正案を衆議院に提出した。その中には「我が国と郷土を愛する態度を養う」という文言が入れられた。民主党の対案でも前文に「日本を愛する心を涵養する」という文言が入れられている。文部官僚や、政治家が考える日本の意味は何だろうか。彼らの認識では物理的な意味での国土、日本列島ももちろんその中にあるのだろう。
『日本沈没』によると、日本列島は約一億五千年前まではユーラシア大陸と地続きになっている。一部の右翼や政治家が嫌いな後の中国や朝鮮と一体なのだ。
私たち日本人が、国境をあまり意識しないでいい島国に生まれたのは、偶然でしかない。所詮、国境と呼ばれるものは、後世、人間が人為的に拵えたものでしかないのだ。そして、人が作った国境を、また人が作った近代の交通手段やビジネス技術で、やすやすと越えて、個人や企業が活動する時代がすでに来ている。それはこれからも増々進むだろう。ヨーロッパでは紆余曲折を経ながらもEUが発足し、フランスに住み、ベルギーの職場に通い、買い物はオランダでする人々が現在ではいくらでもいるという。日本の国土を意識することもいいが、アジアでも、それは困難で遠い未来の話かもしれないが、EUのような生活を送る日が来る、そんな夢を語る政治家の一人ぐらいいてもいいのではないだろうか。あるいは、また国民誰もが自然に愛せるような国を作ろうとしているか、官僚や政治家は常に自問自答しているのだろうか。教育基本法改正を主導している文部官僚は、今この国で天下りの総数が全省庁の中で一位であることを私たちは知っている。

『日本沈没』の中で、田所博士の列島沈没論は、首都圏に壊滅的な大地震が起きた後に、政府により正式発表される。そして、日本民族のエクソダス計画が立案実行される。アメリカ大陸は遠い。物語の中でオーストラリアの首相には、最初移住を拒否される。日本人はその殆どがユーラシア、アジアの中で生きて行くしかないのだ。結局、日本が沈没しても、しなくても一億5千年前の昔に帰る。そんな、破天荒な空想をたまにしてみるのも悪くない。

私が田所博士だったら、石原慎太郎にだけは列島が沈没することは教えない。
沖の鳥島に彼は住むだろうから。

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これは5月28日にUnder the Sunさんに招かれてゲストとして書いた投稿の転載です。


異形の人々

2006年05月25日 | Weblog
私の生家はずいぶん田舎にあった。地域に住んでいる人々は正真正銘の庶民で、時代背景も地域も少しずれるが、宮本輝の『泥の河』や『蛍川』の世界だった。私が子供の頃、向かいの家に地域の人々からセッちゃんと呼ばれている青年が住んでいた。生まれつき、両手に障害を持っていた。不謹慎な表現になるが、ウルトラマンに出てくる怪獣のピグモンの様な両手をしていた。子供にやさしく、私の家は隣ということもあり、随分可愛がられた。私自身は記憶が曖昧なのだが、幼い頃の私は人なつっこく、セッちゃんのお気に入りだった。セッちゃんは仕事はしていなくて、多分、当時の障害者手当てをもらっていたのだと思う。趣味は不自由な手を巧みにあやつるパチンコで、ひょっとしたら、パチプロの様な生活をしていたのかもしれない。私の家は貧しく、両親は私が幼い頃から共働きだった。幼稚園に入園する前の頃、母はたまにセッちゃんに私の子守りを頼んだりした。私が乳児の頃は不自由な手で私のおむつを替えてくれたりしたこともある。それは、醤油がきれたり、お味噌がきれたりすれば、融通し合い、出かける時も家の玄関に鍵など掛けない地域のそんな時代の一コマだった。
小学校に入学し、学校の近くにある文具などが売られている雑貨屋にたまに行くようになった。そこの店主は片腕がなかった。友達に聞くと、あのおじさんは戦争に行って片腕をなくしたんだ、と教えられた。一見、こわもてだが小学生が店に行くと、いつも満面の笑みで迎えて、消しゴム一個でも丁寧に接客してくれる。片手で巧みにレジを打ったり、店の仕事をしていた。
地域の子供たちにまあちゃんと呼ばれていたおじさんもいた。今から思えば、知的障害があったのだと思う。小学生と一緒になって児童公園で草野球をしたり、鬼ごっこをしたりして遊んだ。たまにいたずら坊主がささいなことでからかったりすると、怒る。それを見て、私たちは脱兎のごとく逃げる。そういう鬼ごっこをして遊んだ。また仲直りをして、明日の約束をかわし、夕暮れの中、家路に着く。

彼らは、確かに子供たちにやさしかった。子供たちも彼らを信頼していた。彼らとの交流に異論をとなえる大人もいなかったような記憶がある。大人は大人で色々な事情を知った上で、何も私たち子供に言わなかったのかもしれない。多分そうだろう。

秋田で小学生が犠牲になる事件が起きた。ここ数年、子供が犠牲になる事件ばかり起こっている様な気がして仕方ない。子供を傷つけたり、殺したりする人間は普通の姿をしていても心が異形なのだろう。姿が異形でも知的障害はあっても私が子供の頃、出会った大人たちはやさしかった。彼らは自分に障害があるからこそ、人の悲しみを想像する気持ちや、他者を思いやる気持ちが強かったのだろう。そんな人々に囲まれて、私は幸福な子供時代を過ごしたんだなあと思う。

10年程前、都会でのサラリーマン生活にピリオドを打ち、生まれ故郷に帰ってきた。転職し、生家ではないが、同じ市内に住んでいる。ふと思い出して、小学校の近くの雑貨屋があったあたりを車で通ってみた。もう、店はなかった。児童公園にまあちゃんの姿もなく、そこで遊ぶ子供たちの嬌声も聞こえない。セッちゃんは生来蒲柳の質だったので長命ではなかった。私が故郷を離れていた頃、入院した。私の母が病院に見舞いに行くと、ベッドの上で私の子供の頃の思い出話を楽しそうにしていたと、亡くなった後に聞いた。

しみじみと、切なく、私のまわりの異形の人々を思い出す時が、たまにある。


私家版・きょういく基本法

2006年05月20日 | Weblog
   きょういく基本法

第一条 えいごはしっかりべんきょうしましょう。ひとにあいさつするときは
    「WHO ARE YUO」といってはいけません。「HOW ARE
     YUO」といいましょう。「HELLO」でもいいです。

第二条 パソコンはしっかりべんきょうしましょう。できないと日陰といわれ
    ます。

第三条 ともだちの家でひからびたチーズをごちそうになってはいけません。
    ともだちがおかしなことをおっぱじめます。

第四条 サメの肝油を飲んだらいけません。のうみそまでサメになります。

第五条 「知ってる。サッカーの日本チームは韓国で一回もかったことがないん
     だ。」といったらいけません。中田くんにバカにされます。

第六条 そうりだいじんが死んだら次はオレだとニヤニヤしてはいけません。
    それで、にほん国が神の国になるわけじゃありません。

   - おしまい -



モンスター - 愛していると言ってくれ

2006年05月11日 | Weblog
「自分の子を可愛いと思った事は一度もありません。」
これは自宅で出産した嬰児5人を殺害し、昨年逮捕され1月に起訴された山本利美被告(49)の第2回公判での陳述である。

彼女は実の父親を知らずに育った。自宅には母親が連れてきた男が常に出入りし、10歳の時、そのうちの一人にレイプされた。それが2年間続いた。
やがて、家に出入りする母親の愛人だった男が連れてきた別の男Aに見初められ、14歳で肉体関係を結ぶ。その時、はじめて自分が10歳の時にされていたことの意味を知り、自殺未遂事件を起こす。15歳の時、Aの子を中絶。病院に付き添った母親は怒らなかったが、何も言葉をかけてくれなかった。

「ただの一度も、母親からご飯を作ってもらって食べたことはありません。」(同公判より)

中学卒業後、彼女はAの実家に転がり込み、Aの両親らと暮らし始める。
「Aが好きというより、ずっと一人でしたし、誰かに寄りかかりたいという気持ちでした。」(同公判より)

だが、結婚式も新婚旅行もなく、家族で出かけたことも無かった。10年が過ぎた頃、家に出入りする作業員Bが、娘に雛人形を買ってくれた。そしてBに求められるまま、不倫関係になり、Bの子供を身ごもる。彼女は自宅3階にある夫婦の部屋で一人で生んだ。生まれる前に衝動的に殺そうと思い、へその緒がつながったままの嬰児の口をタオルでふさぎ、殺し、押入れに隠した。その繰り返しが18年間続いた上での5人殺害だった。

過去の量刑から言えば、嬰児とは言え、5人殺害であれば死刑が妥当なのだろうか。私自身は死刑制度の是非については、未だに何が正しい意見なのかはわからない。しかし、人が人を愛することが当たり前の世界に彼女が存在していれば、このような事件は起こらなかっただろう。幼い頃の彼女をギュっと抱きしめて、彼女の存在全てを肯定してくれる誰かが身近にいれば・・・。いや、彼女は、それが例え汚辱でもその肉体でしか何も感じない人間になっていたのだろう。10歳のあの日から、彼女の精神は自分が肯定される日がいつか来ることもあきらめていたのだろう。彼女は子供だった頃の自分の周りの鬼畜どもと自分自身にきっと復讐したのだ。

以上の事件とシャーリーズ・セロン主演の映画『MONSTER』をGWに鑑賞して、そんなことを考えた。

人は愛されなければ、愛し方が分からない。出来ない。
改めて、そのことを思う。


誰かが見てる

2006年05月07日 | Weblog
2、3ヶ月前だろうか。私のPCの調子が悪くなったので、思い切ってリカバリーをしたことがある。必要なデータは外部メディアにうつしているので困らなかったのだが、PCを初期化して、改めて普段お気に入りに登録しているブログを閲覧しようとしたら、おかしな事が起こった。「このサイトには事実に基づかない記述が見られます・・・」という画面が現れアクセス出来なかったのだ。具体的なブログ名やどの無料ブログサイトであるかは、ここでは書かないが、私は、あーこれは見られてるなあ、と思った。その現象は30分ぐらいで収まり、その後閲覧に支障はきたしていない。単なる技術的な問題かもしれないし、私のPCのみの問題かもしれない。いまだにはっきりした事は分からない。見ているのは誰だろう。当ブログはgooブログを使用させてもらっている。社民党の保坂氏や自民党の世耕氏もgooブログを開設しているのだが・・・。一回はgooブログ事務局から、政治、社会版のランキングに登録しませんかというメールも署名入りでもらったことがある。

誰かが見てる。そのことを肝に銘じてブログの運営はしていきましょう。ご同輩のみなさん。

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士さんの以下の記事を紹介する。

共謀罪と同じ法案でつくられるサイバー監視システムの基となる条約の問題点