世界の涙の総量は不変か - 辺見庸の発言(1)

2006年01月28日 | Weblog
地方紙のなかなか良い企画である。先日、地元紙で一面、全く広告も無しで、作家辺見庸氏のコラムが4本同時に掲載されていた。読んでいない人の為に4回に分けて転載したい。手抜きと怒らないでほしい。私の駄文よりずっと良い。著作権はとりあえず無視(笑)。

【脳出血で倒れて入院していたころ、私と一緒につらいリハビリをしていた50歳代と思しき男がある日突然、声を絞り出すようにして独りごちた。怪しい呂律だったが「こうまで苦労して生きていく価値があるのかなあ・・・」と聞こえた。言葉が耳朶に残り、いつしか私も同じような独り言を呟くようになった。この世の中で頑張る意味ってあるのかなあ。リハビリのつらさを言いたいのではない。生き続ける労苦が周りの風景とつり合わなくなってきた、何だか甲斐がないな、という気分がため息をつかせるのである。
久方ぶりに復帰した社会は、清貧も精励も美徳ではなくなっただけではなく、どうかすると嘲られかねない。消費と投資がもてはやされ、射幸心を持つも煽るも罪悪視されなくなった。以前からそうだったと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、劇的に変わりつつあるのは疑いない。競馬の天皇賞を2005年秋、天皇が観戦した。眩暈がするほど大きな価値観の転換を私は感じた。仰天のわけは、それまで長きにわたり観戦を控えてきた理由の消失にそのまま重なる。競馬にせよ株にせよ、一攫千金を狙うのはもはや恥でも罪でもなくなりつつある。
1980年代に、吉本・埴谷論争というのがあった。かつて日米安保闘争に加わった詩人、吉本隆明が、あろうことか、女性誌にコム・デ・ギャルソンを着て登場、作家、埴谷雄高がこれをなじったことに端を発する議論だ。外野は半ば苦笑しながら論争を見守ったものだが、今思うに深刻な意味を秘めていた。資本主義的生活スタイルを否定的に語る埴谷に対し、吉本は高度成長それ自体は悪ではないと主張し、生産と消費の価値はいつの日か逆転するだろう、と予言してみせた。
幸か不幸か、吉本の予言は当たった。生産、労働、刻苦、精励、終身雇用、労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともカジノ資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代をいま迎えている。ほぼ同時期に戦後民主主義や憲法九条といった「思想の堤防」が決壊しつつあるのは何も偶然ではない。自明だったことどもの一切がもはや自明性を失ったのだ。
問題は人が生きることの内奥の重みや光がはたしてここにあるのか、ということだ。他者の悲しみや苦悩はそれとして感じられているのだろうか。風景は満目、発砲スチロールのように軽く、ひたすら嘘っぽくなった。たとえば“小泉チルドレン”など語るも虚しい。
罪ならぬ罪、無意識の倒錯が実は氾濫しているようだ。2003年のイラク開戦日、日本では大きな反戦デモはなかったけれど、テレビの株番組が高視聴率を記録した。バグダッド猛爆の最中に開催された格闘技戦に数万の観客が押しかけ、テレビの瞬間最高視聴率が30%近くなったりもした。
犯意も廉恥心もありはしない。<何かがおかしい>と訝る心の羅針盤が狂ってきてはいないか。戦争、地震、津波、ハリケーンのたびに被災地を慮るのではなく、株価とにらめっこする人々が増えてきた。その中には、高校生や大学生の「投資家」もいる。インターネットで株価の動向を追うのには長けていても、彼方の悲鳴に心を痛める想像力に欠ける。
おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値観が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だった世界に透明な狂気が入りこんできて、狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問はずこれからも減りはしないだろう。「世界の涙の総量は不変だ」。べケットの戯曲「ゴド―を待ちながら」に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。今、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増え続けているのかもしれない。】