万物の商品化 - 辺見庸の発言(2)

2006年01月30日 | Weblog
   辺見庸氏の発言第二弾。

【「水は遠き遠き白雲の中より流れ来り・・・」と綴ったのは田山花袋だが、清潔で美味しい自然水が商品になるなどと作家は一度として想像したことはあるまい。だから、「雪山を崩したる如き激端を作り、更に又静まりて・・・」(「多摩の上流」)と水の流れを美しく描きえたのである。いま、自然水は不可欠の商品であり、場合によっては牛乳や果物ジュース、ワインより高価だ。遠い白雲の中から流れくる、誰の物でもない水は物語を運んだけれど、しかし、商品化された水にロマンを見るのは難しい。
缶入りの「摩周湖の霧」というのを数年前に買ったことがある。ご愛嬌とはいえ、売り物の霧にむせんでも詩心はわかなかった。中空に漂う霧のごときものは誰にも帰属しないはずなのにと思っていたら、いまや「空中権」(AIR RIGHTS)なる概念や法律があるらしい。米国では所有する土地に上下の範囲を定め、その空間を排他的に使用し、収益をあげたり売却したりする権利が法律で保証されているという。そうなると、浮き雲に人の世の無常を感じるも何も、上空を見上げるだけでお金を取られそうで興ざめだ。
水や空中権だけではない。労働、教育、福祉、医療、冠婚葬祭、スポーツ、臓器、遺伝子、精子、血液、セックス、安全、癒し、障害者・老人介護・・・金銭に置き換えられないものを身のまわりに見つけるのは至難の業だ。これを「万物の商品化」という。使用価値がありながら交換価値がなかったもの(たとえば海水、日光など)に値をつけていく傾向である。本格化したのは十五世紀以降といわれ、二十一世紀の現在も万物の商品化はとどまることをしらない。それは資本主義の生成、発展、変容に不可欠な営みであり、資本主義が猛る時は、必ず新たな商品化プロセスがあると言っていいだろう。
では、物語、理想、夢、正義・・・といった心的価値系列はどうだろうか。モノの商品化をあらかた終えた現在では、コンテンツ産業の隆盛に見られるとおり、心的価値こそ資本主義の生き残りをかけた商品化のターゲットになっている。いわば意識または無意識の商品化だ。勧善懲悪ものからピカレスク(悪漢)物語まで、映像だろうが活字だろうが、あらゆる種類の物語をオン・デマンドで末端に配信するビジネスはもはや目新しくない。だが、物語は完全商品化することで真正の物語を日々失いつつある。
何かがおかしい。人が人であること自体に狂いが生じてきている。風景はなべて原資を失って擬似的になり、言葉という言葉には厭らしい鬆(す)が立ち、欲動が体内から湧くのでなく体外から操作されている感じ。怒りや哀しみの情動が直接性をなくし、自分と世界が分断されているような不安。万物商品化の世界では人間存在が先細り、人はひたすら資本の使徒としてのみ生かされる。狂いの根本はここにあろう。ここにきて商品化プロセスの負荷が人の無意識を深く蝕み始めているのだ。
だが、途方もない悪人がいて、特定の底意をもって全域商品化を進めているというのではないようだ。万物の商品化はむしろ資本主義の本性であり、法則であって、商品化するものをなくした時、資本主義は死期を迎える。多分、最後の砦は人間である。何から何まで売り渡し、終いには己の実存そのものも商品化するか、もしくは、脱商品化へのきっかけをしゃにむに探すかー大きな選択を迫られている。
この観点から小泉政治を眺めると面白い。類い稀な成功の訳は、その劇場型政治にあるのでなく、首相が「改革」という名の万物の商品化を、資本の使徒として無慈悲に進めているからではないのか。そのような政治にあっては本来あるべき無料の公共サービスを民営化すなわち商品化して有料とするのも「改革」と言うらしい。かくして、富者はますます富み、貧者はいよいよ貧することとなる。
商品化が盛んな時代には、人間がその意思の力で社会を変える運動が沈滞し、資本が人間の意思を代行してしまう。フルク・グレヴィルの戯曲にこんな言葉があった。「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられ・・・」。現在はそういう時代に見える。この言葉とて何かのCMに使われかねないのだ。】