華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

ムル&トマの「国家あるいは集団」(3)――ウザイッ

2008-04-28 23:50:03 | ムルのコーナー

 くも膜下出血起こすんじゃないかと思うほど多忙で(私のオヤジは40歳を目前にして、くも膜下出血で死んだ。私は彼のように真面目な努力家ではないけれども、やむを得ず多忙になることはままあり、そんなときはふと、自分もオヤジと同じ死に方をするんじゃないかなぁと思ったりもする。それはそれで、ま、いいかって気もあるが)、ブログをほったらかしにしていた。もともと私のブログは単なる寝言だから、さまざまな意味で忙しければ平然とほったらかしにするのである。その程度の感覚でいた方がいい、というのが私のいわば基本的なスタンスだと言っても いい。

 ……というのはいいけれども、ひさしぷりに覗くと……驚きますわなぁ。開店休業なのに、TBをたくさん(そこそこに、と言う方が正確かも)戴いていて、それはホント涙が出るほど嬉しい。とむ丸さんほか……律儀にTB下さる方、ほんとに有り難う。長いことさぼり続けているので訪問してくださる方はごくわずかになっているけれど、その人達に、このブログを経てTB下さっているブログを読んでもらえればこれにまさる喜びはない。て言うか、その程度しかここの存在意義はない、のやけんど。

 いや、驚いたのは、TBいただいていることではない。わけわからないコメントが、ごちゃまんと入っていたことだ。ヒマですなあ……。うちみたいな過疎ブログにまで、律儀に攻撃コメント入れることないでしょうに(笑)。私は基本的にTBもコメントも削除しないことにしているが、記事の内容とまったく関係のないからかいコメントと、署名のないコメントは削除させてもらいました。悪しからず。

 えらく愚痴が長くなった。ちょっとだけ、ムルとトマシーナ(※)に登場してもらいましょうか。

◇◇◇◇◇

トマ:兄貴、おっひさ~。

ムル:何が「おひさ」だよっ。華氏の野郎、さぼりやがって(笑)。あいつ、生きてんのか?

トマ:うふっ。生きてるけどね、仕事忙しいし体調悪いしとかで、毎日「くも膜下出血で死ぬかも」ってギャアスカ言ってるよ。随分昔に、華氏のオヤジさんが、くも膜下出血で過労死してるんだっとさ。

ムル:ふん、過労死するほど働いてねーくせに。あいつは甘ったれの怠け者っていうだけなのさ。死んだら少し地球がすいて、結構みたいなもんさ。

トマ:うふ、言えてる……。まっ、それはいいじゃん。しばらく話してない間に、いろんなことがあったよね。

ムル:そうだなあ……目まぐるしいぐらいだよな。

トマ:たとえば、そう……聖火ランナーがどうとか。

ムル:ああ、あれか……。おいらは猫だかンね、オリンピックなんざ、ほんとのところどうでもいい。

トマ:きゃはっ、華氏みたいなこと言ってら~。華氏はオリンピックが大嫌いなんだってさ。いろんな国の国旗が翻るの見るだけで、蕁麻疹が出てくるって。ナイショだけどって声ひそめて、爆弾投げたいぐらいだとも言ってた。むろんあいつは小心な小市民だから、そんなこと絶対できっこないけどさ。

ムル:ばかやろ、あんな偏屈者と一緒にするないッ。……ま、それはそれとしてさ、おいらはオリンピックなんてぇものに何の興味もない。やりたきゃやれば?てなもんさ。でも、あの聖火リレーを巡る騒ぎだけは、何か居心地わりぃんだよなぁ。

トマ:チベット問題うんぬんで、中国に対する反感が……というやつだね。

ムル:おいらもさぁ、いわゆる「チベット問題」についての中国の態度が正しいとは思わねぇ。ちょっと待てよ、みたいな気は多分にあるさ。ただよぉ、人権とかに関わる問題を抱えているのは、中国だけじゃあねぇ。おいらはさ、あれが中国だから、やたらに問題になったんだと思う。たとえばさぁ、アメリカでオリンピックが開かれるとするだろ? ほかの、ヨーロッパの国でもいいけどさ、あんなふうに騒動が起きると思うかい?

トマ:うん……起きないかも。

ムル:中国って、「敵視」するのに格好な相手なんだとおいらは思う。ちょっと前はさ、その対象はソ連だった。でもソ連は崩壊しちゃったからさ、代わりにどっか無いかと探した結果が中国なんだよな。前のギョーザ騒動だって、その臭いがする。

トマ:何か巨大な「敵」を想定することの必要性……?

ムル:あのなぁ、おいらに難しいことは聞くなよな。何もわかんねぇんだからさ。おいらが喋ってるのは、「生き物のカン」にしか過ぎない。でも、生き物のカンって、そうバカにしたもんじゃあねぇんだぜ。

トマ:はいはいはいはい……。ゴタクはいいからさ、話を続けてよ。

ムル:集団がまとまるためには、「あいつはわりぃ奴だ」という敵が必要なんだ。敵が巨大であればあるほど、集団の結束は固まる。それって、すごく基本的なことじゃんか。でもさぁ、おいら達に必要なのは――そんなふうに集団の結束固めて、それが何なのさという白けた目線なんだと思うんだよな。大切なのは「個々の命」であって、決して「その命が集まった集団」じゃあねぇ。それさえわかってれば、誰もオリンピックなんていう単なるお祭りに熱くなったり、国を守るなんていう馬鹿げた幻想にめくらましされることはないと思うんだけどなぁ……。

ムル:眠くなっちゃった。続きは明日、ね。もしかすると明後日になるかもだけど。

◇◇◇◇◇

※ムル=都の東北を縄張りとするボス猫。華氏の代理であちこちに顔出しておりまする。  トマ=華氏宅の居候で、本名はトマシーナ(坊や猫だが、飼い主?の趣味で女性名をつけられた。ちなみにトマシーナの男性型はトマス)。ムルの腰巾着。

ムルとトマのどうでもいい雑談は、「ムルのコーナー」にまとめてありまする。

 

コメント (32)   トラックバック (161)
この記事をはてなブックマークに追加

食について慌てて考えた

2008-03-20 01:47:29 | 箸休め的無駄話

 

 ブログはほったらかし状態なのですが、その代わり?参加しているUnder the Sun のコラムをアップしたところ。このコラムは有志が交替で書いているものですが、おもしろいものが多いので皆さん時々のぞいてみてください。

 今月のお題は「食」。私は自分自身の、食べることに対するうしろめたさのようなものを書いてみました。

コメント   トラックバック (70)
この記事をはてなブックマークに追加

ムル&トマの「国家あるいは集団」(2)――忠誠嫌い

2008-03-13 23:43:36 | ムルのコーナー

 

トマ:すっごく間が空いちゃったけど、兄貴、前回の話の続き、する?

ムル:まったく間が抜けてるよなぁ。何の話してたのか思い出せないぐらいだよな(笑)。ま、いいか。毒にも薬にもならない井戸端会議だしさ。ボチボチでも何か考えるってのは悪くねぇし。

トマ:井戸端じゃないよ。公園の池端、だけど?

ムル:あほーーー。井戸端会議ってのはそれ自体がひとつの言葉なのっ。ほんともう、ガキと話してると疲れるワ。

トマ:えへへ。冗談だよーだ。この間は愛国心は趣味みたいなものだとか、国家ってのは不必要善をするから困るんだ、とかって話をしてたんだよね。

ムル:不必要善の話というのは話し出すとどんどん枝葉に走りそうなんで、ちょっと置いといてさ、今夜は「忠誠心」のことでも喋ってみようか。

トマ:忠誠心……兄貴が一番嫌いなものみたい(笑)。

ムル:おまえんちの華氏だって、親のカタキみたいに嫌ってるだろーが。

トマ:うん、そういやあ華氏がね、もう1か月ぐらい前に「忠誠心って何だ」って寝言を並べたんだって。

ムル:ああ、あの屁みたいなブログで。

トマ:その時に、愚樵さんって人が、「忠というのは社会に対する忠誠心。だから現代における忠誠心は、民主主義の原則に対してのそれであるはず」っていう意味のコメントを書いてくれたんだって。それ読んで、華氏は「うううう~~」と唸ってた。「愚樵さんの言ってること、すごくわかる。すごくわかるんだけど、何処か、ちょっと待てよという感じもする。この微かな違和感は何だろう」って。

ムル:で、悩んでたってわけか? ひょっとして確定申告ほっぽり出して?

トマ:きゃははは、まっさかぁ。そんな生真面目な奴じゃないって兄貴も知ってるじゃん? 時々、思い出して首ひねってるだけさ。

ムル:まっ、それはそれとして。……「忠」ってのは、具体的な人間でも組織でも観念でも思想でも何でもいいけど、ともかく自分自身の外に厳然と存在するものに対して、それを仰ぎ見て、身も心も捧げますってことだろうなと……これはまあ、おいらの解釈だけどよぉ。フラットな関係じゃねえよなって気はするな。

トマ:あなたのためなら死んでもいいわ~~ってやつ?(笑)

ムル:ばーか、混ぜっ返すなよな。変な話だけどよ、「忠犬」って言葉があるだろ。

トマ:あっ、渋谷駅前に像ができてる「忠犬ハチ公」。僕はまだ見たことないけど。

ムル:ハチ公はどうでもいいけどさ、「忠犬」はあっても、「忠猫」ってのはねぇよな。

トマ:そういやぁ、そうだね。

ムル:おいらたち猫は、人間を仰ぎ見たりはしねぇもんな。「猫は三日で恩を忘れる」とかって悪口言われるけど、おいらはあれ、結構じゃねぇかと思ってるのさ。どんな生き物でも、「忠○○」なんかになることはねぇ。自己チューで生きてりゃいいのさ。自己チューだからこそ、見えてくるものがあるんじゃないのかな。

トマ:あっ、また兄貴、話がズレちゃってるよ。

ムル:へへ、わりぃわりぃ。ちょぃと話を直線コースに戻そうか。おいらだってさ、その愚樵さんて人の言ってることは、多分、間違ってないと思うんだ。まっとうに考えればそうなんだよなって、おいらも思う。たださあ、何つうか……何かキラキラしたものに対して純愛めいた感覚を持つ時って、そういう自分を嘲笑したほうがいいかもっておいらは思うのさ。

トマ:『目覚めたとき、夢を嘲笑せよ』

ムル:ばかやろ、華氏の口癖を真似すんじゃねぇ。第一その言葉だって、何とかいう詩人の言葉の剽窃じゃんか。ほんと、独創性に欠ける奴だよな、あいつも。

トマ:うふふ。伝えとくよ。

ムル:ともかくもだぜ、おいらは民主主義とか平和とか人権とか、そういうものに対しても「忠誠」を誓う必要はないと思うんだ。ていうか、「必要に迫られているわけでもないのに同じ生き物を殺す」とか、「同じ生き物の間で上下の関係を作る」とか、そういうことっておかしいに決まっているじゃんか。人権とか、そういうものは――あ、おいら達の場合は猫権だな――「当然じゃん」の一言ですむ話だろ。わざわざ忠誠を誓うまでのことはない、とおいらは思うんだよな。

トマ:兄貴って、ほんと忠誠嫌いだね……。華氏も忠義とかって聞くと気分悪くなるらしいけど。『忠臣蔵』なんて、タイトル聞くだけでジンマシンが出るって言ってたな~。

ムル:忠義、忠誠……何でもいいけど、その手の概念には「自分の感覚は置いといて」という匂いがプンプンするじゃんか。あなたさまに下駄預けます、っていう……。

トマ:う~ん。それは兄貴の偏見かもだよ。

ムル:偏見かも知れないさ。でもおいらは「ギリギリのところで、やっぱり『忠』は認められねぇ」って声を大にして言うぜ。民主主義でも人権でもいいけど、それに対して忠誠を誓っているうちは、人間、何度も同じ轍を踏むような気がするのさ。たとえば民主主義でも、「おいらはこれが正しいと思う。微力ながら守るために力を貸すぜ」っていうのと、「おいらはこれが正しいと思う。忠誠を誓います」っていうのとでは、だいぶニュアンスが違うと思わねぇか?

トマ:主体的な関わりかどうかっていうこと?

ムル:おいおい、トマよぉ。そういうウソ寒い観念語は使うなよなぁ。観念語ってさ、使えばそれだけで何か大したことを表現したような気になる。そりゃまあ、その言葉が血肉になってるなら使ってもいいけどさ、何かモノゴトをうまくまとめた気になるために使うなんて、最低だぜ。人間はどうしてもそういうふうに走るけどさ、せめておいらたち御意見無用の猫族は、血肉になった言葉以外は使わないようにしようよな。

(話は中断。ぼちぼち続く)

コメント (2)   トラックバック (26)
この記事をはてなブックマークに追加

ムル&トマの「国家あるいは集団」(1)――愛国心は趣味の範疇

2008-03-03 23:42:16 | ムルのコーナー

  

トマ:兄貴、おっひさしぶり~。

ムル:おんやぁ、トマじゃねぇか。おまえ、生きてたのかよ。

トマ:やなこと、言わないでよ~。華氏が出張とか続いてさ、しばらく、よそんちに居候してただけだよーだ。

ムル:ふ~ん。そっちの方が居心地よかったんじゃねぇの?

トマ:それは言える……でもさ、やっぱしヒトサマの家だからさ、少しは遠慮があるじゃん(笑)。

ムル:汚くても待遇悪くても我が家が一番、てか(笑)。

トマ:ご無沙汰してる間に、おもしろいことあった?

ムル:おもしろいことも、ヤなことも、日々いっぱいあらーな。それはそれとして、おいら最近、ちょいと考え込んでることがあるんだよな。

トマ:何を考えてんのさ? まさか、ナントカの考え休むに似たりってやつじゃーないよね?

ムル:おまえもロクでもない奴と一緒に住んでるせいで、ほんと、だんだん性格悪くなる一方だな……。

トマ:兄貴の影響も受けてるよ。

ムル:むむっ……。ま、いいや。トマ、おまえ「日本」でも「アメリカ」でも「中国」でも、「東京」でも「大阪」でもいいけどさ、好きか?

トマ:わっ、何か、いきなり本題って感じ。えへへ、兄貴が言いたいこと、わかる気がするな~。

ムル:この野郎、ガキの癖に生意気言うんじゃねーや。さっさと答えろって。

トマ:うーん。好きかか嫌いかとか聞かれると、マジで困っちまうんだよね。え? 何それ? って感じ。

ムル:そうそう、その感覚なんだよな。

トマ:兄貴はどうなのさ。

ムル:おいらも「好きでも嫌いでもない」ってやつさ。好きとか嫌いとかいう対象じゃあないんだよな。

トマ:日本もアメリカも中国も?

ムル:もっと言ってもいいぜ。フランスもフィンランドも韓国も北朝鮮もビルマもスリランカもコスタリカも……えーっと、それから……。

トマ:もういいよ、兄貴。夜が明けちゃうから。要するに兄貴は、「国家」というものはどんな国家でも、好きだとか嫌いだとかいう感情の対象じゃないって言いたいんでしょ? でも兄貴は、「国家は嫌い」なんじゃぁなかったっけ?

ムル:うん。強いて言うなら、国家なんていう必要悪的な装置は「嫌い」な範疇に入るけどさ。具体的に日本だのアメリカだのって姿をとって現れると、そうも言ってられないんだよな。で、その場合にどうなのかって考えたわけさ。

トマ:えへへ。兄貴はいつも、「ネコに国境はなーい」なんて豪語してるくせに、ね?

ムル:うっせー!! 国境なんて人間が勝手に自分達の都合で作ったもんだけどさぁ、何せ人間は地球上で一番パワフルな生きものじゃんか。おいら達も、ちょっとは振りまわされちまうわけだからよぉ。考えざるを得ないっつーとこかなぁ。

トマ:で、「好きでも嫌いでもない」っていう結論を出したわけ?

ムル:そう。ヘンッという感じで無視したり、おいらが生きていく上で、別にナンボのもんでもねぇよとちょいと冷たい眼で見る対象。いや、むろん「好きだ!」という人間がいてもいいよ。でも、それは「趣味」みたいなものさ。あくまでも趣味だから、他人に押しつけたりしちゃあいけない。っつーか、眼を吊り上げてぎゃあすか言ったり、他人に押しつけたりするのはヤボだよな。

トマ:愛国心は趣味……ってわけだね。ま、世間サマがちょいと眉ひそめるような変な趣味だって、別にハタが非難する筋合いはないもんね。必要悪に対しては、そういうスタンスでいた方がいいよってことだね?

ムル:必要悪で思い出したけどさ、華氏の好きな山田風太郎が、小説の中で「不必要善」という言葉を使っていたことがある。これって、すごくおもしろい言葉だよな。国家は必要悪だから、「存在していてスミマセン」と肩身狭くしておいて欲しい。それが大きな顔して不必要善をやりまくるってのが一番問題なんじゃねぇかと、おいらは最近思ったりするんだ。

(続く)

◇◇◇◇◇

蛇足:ムル=都の東北を縄張りとするご意見無用の野良猫。トマ(本名・トマシーナ)=華氏宅の居候猫で、ムルの弟分。このコンビのしょーもない掛け合いは「ムルのコーナー」にまとめて置いておりまする。

 

コメント   トラックバック (27)
この記事をはてなブックマークに追加

忠誠心って何だ

2008-02-05 23:31:49 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 

 忠誠心なるものについて、ふと考えている。これを人間が誰でも持っている基本的なモラルのように言う人もいるが、はたしてそうだろうか。

 仁義礼智信忠孝悌――といえば、ご存じ里見八犬伝。え、知らない? 困ったな。思い切りはしょって言ってしまえば、この八つの文字を一つずつ刻んだ珠を持ち、その文字を名前に持つ八人を主人公とする、江戸時代の伝奇小説であるが……。ともかくこの八つは、人間の最低限のモラルと言われてきたらしい(仁義八行、と言うそうな)。だから人間じゃない(人間の心を持っていればとても出来ない)ということで、遊郭の亭主などを忘八と呼んだりもしたと何処かで読んだ。


 そんな話はどうでもいいのだが……このうち、仁・義・智・信、あたりはまぁわかる。礼もまぁわかる。礼儀と解釈すると私のようないい加減な人間にはいささか、いや、かなりうっとうしいけれども、人と接するときのデリケートな思いやり、みたいなものですか。そう言えば誰だったか、儒教で最も大切なモラルは礼だと言っていた人がいる。太宰治だったけか。

 悌も、ま、何とかわかる。年長者に対して従順ということらしいが(長幼序あり、というやつだなあ)、同時にきょうだいの仲がよいという意味もあるようなので、そちらだと思えば特に問題はない。孝は……個人的にはあまり好きな言葉ではないけれど、目くじら立てるほどのものでもないだろう。

 だが、どうしてもわからないのが忠。これは実は非常に異質なモラルと言ってよい。

 仁義礼智信悌孝……は、上からやかましく言うことではないと思うけれども(と言うより、時の権力者がやかましく言うときは何か裏があると疑った方がいい)、その概念自体には何の罪もない。いや、罪などと言うのは変か。ひとが自由にのびやかに生きようとするのを妨げたり、ひととひとの間を引き裂くようなものではない、と言った方がいいだろう。人と人とが関わる時の、ある意味、ごくあたりまえのモラルを表現しているに過ぎない。もしかするとすべての生き物が関わるときの……であるかも知れない。権力者は常にそれらを自分達の都合よく利用しようとするけれども、「それは牽強付会っつうもんやで、おっさん」と笑い飛ばすことはいくらでも可能だ。

 たとえば、私が「忠」以外で最も違和感を覚える「孝」にしても。私は特に親孝行な人間ではないが、親の方は多分、親不孝な子を持って私は不幸せだと嘆いたりはしていないと思う。正面切って問いただしたことはないが、おそらくそのカンは間違っていないはずだ。適当に距離を持って付き合い、互いにそれなりに気に掛け合っている、要するにフツウの親子である。ちょっと話が逸れてしまうが、私の友人の一人が自分の子供達について(彼は二人の男の子を持っている)「産まれてきて、親子の関わりを楽しませてくれただけで充分だ。親の恩なんてものがあるとしたら、僕はそれを過剰なほど返して貰った。もう何もいらないや」と言っていたのを思い出す。だから彼は、親孝行うんぬんなどというしかつめらしい話を聞くと笑いが止まらないという。親子って……子供のいない私が言うのはおかしいけれども、おそらくそういうものだ。

 六親和せずして孝子ありって、老子も言ってるよね? あ、大道廃れて仁義ありとも言ってたっけ。いずれにせよ、モラルが声高に言われるのはそれが衰微していることの証左だというわけで、そんな世の中は住みにくいと思うけれども……ともかく――ケッタイな爺さん達が躍り出てきてぎゃあすか喚いたとしても、「勝手に言ってろ」と冷笑していられる。

 だが、「忠」だけはそんなわけにはいかない。これは人と人との関わりの中で、それをはぐくむために生まれ、そして育てられたものではなく、人為的に創られたものだからだ。誰かが人と人の関係がすべて対等であるということを承伏できなくなった時に、ピラミッド型の関係を正当化し、守るために。多くの人々を飼い馴らすために。

 考えてみるがいい。対等な関わりの中で、「忠」などというモラルの入る余地があるかどうか。愛する異性(同性でもいいけど)との関わりを表現するときに、忠誠心などという言葉が出てくる余地があるか。親子の間でも――親子は完全な意味で対等とは言いにくいけれども、それでも忠誠心などという概念は入り込まない。

 忠誠心、などというと古くさい感じがして、実のところ、現代人には受け入れられにくい。少なくとも若い人達には(たまに古い表現が好きな人がいて、あえて使ったりする例もあるけれども)。でも、この言葉は形を変え、化粧を変えて今も生きている。忠誠心と聞くと肩をすくめる人でも、ロイヤリティーと言われれば納得したりして。愛国心なんていうのも、中身は「国に対する忠誠心」にほかならない。

 仁義礼智信忠孝悌、のなかでオカミが最も重要視しているのは、忠である。そのことは間違いないと私は確信している。あとのモラルはすべて、ベースに忠が存在した上でのもの。だから、うさんくさい色を帯びるのも当たり前だ。戦前の教育勅語についていまだに「いいことも言っていた」なんぞと寝言を言う人もいるが、先っぽで良いこと言ってたって、モトがおかしければしょうがないでしょう。

 今の日本は――かなり前から、だけれども。あるいはずっと昔から、かも知れない――先っぽをいじり回し、ちょっと綺麗で清潔そうな言葉なり振る舞いなりがあれば「いいこと言ってるじゃん」「いいことやってるじゃん」と手を叩く。モトがダメなんだよ、とそろそろ声を大にして言わなければ、取り返しがつかなくなるような気がして私はかなり怖いのだけれども。

コメント (14)   トラックバック (52)
この記事をはてなブックマークに追加

自由でありたい。卑屈になりたくない。

2008-02-04 23:48:28 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

  

◇◇◇◇◇身辺雑記――

 昨日、東京は雪だった。今日も街のあちこちに雪が残っていた。道端のそれはほとんど溶けかけのかき氷ふうだけれども、人が踏まないところはまだ白くきらきらと光っていた。雪国のひとにとっては雪は必ずしも嬉しいものではないのだろうが、私は暖かい地方の生まれ育ちなので、この年になってもまだ雪を見ると子供っぽい興奮がわき起こる。

 昨年の暮れに叔母が死んだ。肺癌で、診断がついた時には既に転移していた。私は小さい頃、春・夏・冬の休みは半ば以上、母の故郷で過ごした。亡くなった叔母は母より十歳も下で、私からすると姉さんのような雰囲気があった。私の顔を見るなり庭に飛び出して、裏の菜園から籠一杯のイチゴを取ってきてくれたのはいつのことだったろう。

 年を重ねるにつれて、親しいひととの死別が増えてくる。たとえばここ数年の間に、長く付き合ってきた編集者ふたりと死別した。ひとりはまだ中学生と小学生の子供を遺して。昨年は叔母のほかに、従兄も癌で亡くなった。病死だけではない。自殺か事故か判然としない死に方をした友人もいる。いやでも、命のことや死ぬということを考えざるを得ない。

 私もいつかは死ぬ。いつかではない、明日かも知れない。明日も生きているとは誰も保証できないのだ。船出したいと思い続け、そして船出できぬままで死ぬのかも知れない。だが遠いところ、ここではない所、夢見た地に向けて船出できるのだと思い、私は今日も帆を上げる。誰に命じられるわけでもなく。

◇◇◇◇◇日教組集会の開催をホテルが拒否

 不快に思っている人は多いだろう。いや、不快なんぞという言葉はまだなまやさしい。総毛立つような思い、と言ったほうがいいかも知れない。そう……日教組の教研集会・全体集会が中止になった話である。右翼団体の妨害を理由に、ホテルが開催を拒否した(キャンセルした)のであるという。東京高裁が使用を認める司法判断を下したにもかかわらず、ホテル側は「顧客や周辺住民の迷惑になる」と強弁。ついに日教組は全体集会を断念した、という事件である。

 日教組と関わりのない人にとっては、小さな事件かも知れない(世の中、事件と呼ばれるものは山ほどあるのだから……)。だが、これは決して小さなことではないのだ。私も教育関係者でもなく子供もおらず、つまり日教組とは関わりのない人間だが、それでもニュースに接した途端にゾクリとした。

 日教組という名称だけで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、別に日教組でなくたっていい、たとえば宗教関係の団体であるとか、それこそ「徴兵制復活推進」といった団体でもいい――どんな思想であっても表明する自由はあり、集会を開く自由もある(むろん最低限、それは人間としてノウである、という極端な思想はありますけれどね)。その表明を妨害するのは、人間の自由に対する敵対行為である。私は自分が受け入れられない思想であっても、誰かがそれを訴える自由まで抹殺しようとは思わない。だから街宣車を連ねて妨害しようなんてのはもってのほかの行為であるのだが、それを恐れる(あるいはそれに対する恐れを口実にする)というのは、ひととしての敗北である。ホテルに抗議を!

◇◇◇◇◇せめて屈しない決意を

 居丈高に喚く者に対して膝を屈するのは、一時の方便だと一般に思われているかも知れない。だが、膝というのは一度屈したら二度目以降は自然に曲がる。三度四度と繰り返していくうちに、それが習い性となる。

 むろん、生活のあらゆる場面で昂然としている、なんていうのは無理だ。いや、それができる人も大勢いるだろうが、無理――というのが言い過ぎならば難しいと言い替えてもいいが、ともかく誰もができることではない。私自身、仕事や日常のあれこれの中で、いやになるほど他者に迎合し、膝を屈して卑屈に生きている。ゴマもすります、卑怯な振る舞いもします。それがいいとことだと思っているわけじゃあない、忸怩たるものがありますがね。

 それでも。そう、それでも。……これだけは譲れないということはある。ほかの人のことは知らないが、少なくとも私の場合は、譲れないものばかりが溢れた日々を紡ぐのはきつい。食っていくためにだらしなく、タイコモチのようなまねもするさ。でも、だからこそ、何が譲れないものであるかは知っているし、それを譲ってしまったら死ぬほど恥ずかしいと思っている。そのひとつが、思想信条の自由である。

 突然思い出した?が、私の親戚に、明治生まれの牧師がいた(とっくの昔に亡くななったので、記憶はおぼろだが)。戦争中は非国民と言われ、隣近所から白い眼で見られ、「聖書を読む会」ふうの小さな集会さえ妨害に遭ったという。私は難しいことはわからないが、そういう世の中にだけはしたくないといちずに思う。

 

 

コメント (2)   トラックバック (11)
この記事をはてなブックマークに追加

絵本『せかいでいちばんつよい国』

2008-01-20 23:59:23 | 本の話/言葉の問題

 明日久しぶりに古い友人に会うので、その子供への贈り物にするつもりで3冊ほど絵本を買ってきた。うち2冊は私が昔から偏愛している絵本だけれども、1冊は書店で見つけて衝動的に買ったものである。

 で、チビさんに贈る前に、自分で読んでしまった。題名は『せかいで いちばん つよい国』。作者はイギリスの絵本作家であるデビッド・マッキー。

 絵本はまず、つぎのような文章で始まる。

【むかし、大きな国がありました。大きな国の 人びとは、じぶんたちの くらしほど すてきなものはないと、かたく しんじていました。この国の へいたいは、たいへん つよくて、たいほうも もっています。そこで 大きな国の だいとうりょうは、いろんな国へ、せんそうを しにいきました。「せかいじゅうの 人びとを しあわせにするためだ。われわれが せかいじゅうを せいふくすれば、みんなが われわれと おなじように くらせるのだからな」 】

 そのまんま、である。そう、現実に存在する大国に……。あまりのストレートさに、腹を抱えて笑ってしまうほどだ。

 そして――

【ほかの国の 人びとは、いのちがけで たたかいました。けれど どの国も、さいごには まけて、大きな国に せいふくされて しまいました】 

【しばらくたつと、まだ せいふくされていない国は、たったひとつに なりました。あんまり 小さい国なので、だいとうりょうは、これまで ほうっておいたのです】

 でも一つだけ残っているというのも気分が悪く、「大きな国」の大統領はついにその国に軍隊を進発させた。

 その結果、どうなったか? ――興味を持たれた方は、ぜひ書店で手にとって下さい。何せ絵本だから、ゆっくり絵を味わいながらでも10分以内で立ち読みできる。御用とお急ぎのない時に、できれば感想なども聞かせていただきたかったりもする。

 私自身は、その経過や結末に対して、ほんの少し 牧歌的過ぎるような印象を抱いた。もっともっと陰惨な話の方が、心に迫る気がしたのかも知れない。

 だが考えてみれば、ひとが生きるということ、そして「命の倫理」というのは、そんなに複雑でややこしいものであるはずはない。千年杉のような揺るぎない野太い命の倫理、生き物のモラルともいうべきものを、我々はこまっしゃくれた小手先の知恵でいじり回しすぎているのかも知れない。絵本や童話の類は(私はそういうものがこよなく好きであるのだけれども)、妙に斜に構えることをカッコイイように感じるがゆえにともすればやせ細っていく根源的な知恵を、我々に思い出させてくれるように思う……。

◇◇◇◇◇

 ゴタゴタ続きでじっくり本を読めず、このところ斜め読みばかりしている。ここで紹介した絵本を読む前に目を通したのは山田風太郎『風来忍法帳』(読むのは確か三度目ぐらいだけど)。やっぱり風太郎、好きだなぁ。「いいや、伽羅のかたきだ」(『外道忍法帳』)って、私も言ってみたかったりして。

 一昨日、ちょっとした拍子に本の山が崩れた。私の家は本がオタクっぽく溜まっていて、古書店の倉庫みたいだといつも友人達に言われる。もっとも、そんなこと言うと古書店のオヤジは怒ると思うけど……我が家はほんと、脈絡なく積み上げているだけだからして。本棚に収めきれない本が廊下だの部屋の隅だのに積み上げてあって、それが大々的に崩れてしまったのだ……。その整理に、一日かかってしまった。とほほほほ。本に埋もれて死んだら本望?……な、わけないっ!!

『風来忍法帳』は、その整理の途中で「ありゃ、こんなところに」と見つけた本のひとつでありました。あっ、まだ読んでない王権関係の本が溜まってた……。 

コメント (2)   トラックバック (21)
この記事をはてなブックマークに追加

皆様、今年もよろしく

2008-01-06 23:50:55 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

あけましておめでとうございます。

 お年玉をもらえるわけでもなし、特に正月が嬉しい年でもなくなったが、それでも年が改まると人並みに「今年は……」などと思ってみたりする。むろん大したことなどできるわけはないが、見果てぬ夢に向けて半歩でも近づきたい。

◇◇◇◇

 ブログにさほどの意味はない。いや……こういう言い方は語弊があるかも知れない。私の場合は、と限定した方がいいだろう。ブログの中には、広く訴える力を持つものも少なくないのだ。だが私のブログは、思いつくままに殴り書きしたメモに過ぎない。要するにまあ、寝言みたいなものである。新しい情報提供があるわけでも、深い考察があるわけでも、鋭い問題提起があるわけでもない。他者を励ます言葉もないし、ユーモアも……ないなあ(悪い冗談は時々言うけど)。なさけないほどナイナイ尽くしだから(自分で言ってるから間違いありません)、ひとさまに読んでもらうのは申し訳ないみたいな感もある。

 そんならやめちゃえよ、アホ、と嘲笑する人もいるだろうが、そういう殴り書きでも公開するのは自由であり(むろんそれをアホかと軽蔑するのも自由である)、公開することによって、一緒にものを考えてくれる仲間と出会いたい。それが、私がブログを続けてきた第一の目的である。もしかすると唯一の目的、かも知れない。

 これからも御用とお急ぎのない方にたまに覗いていただき、気が向いたときにTBなど送っていただければ有り難いと思う。

 ともあれ今年もよろしくお願いします。

◇◇◇◇

 新年早々知人が亡くなり、パソコンに触れていなかった。ほとんど5日ぶりにパソコン立ち上げて――すさまじい数のゴミに溢れたメール受信箱を整理し、その後で自分のブログを開いたら、何だかなぁ……というコメントが幾つも。「何を言うか」という返答を書いておくべきだと思うが、今日は眠いので一応そのまま放置する。

コメント (5)   トラックバック (36)
この記事をはてなブックマークに追加

今年の暴言大賞「しょうがない」――UTSコラム再掲

2007-12-31 20:12:25 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 

 わっ、おおみそかだ。Under the Sun のコラムを再掲して、今年の締めくくりとします。

◇◇◇◇◇

 この国の政治家共は始終暴言を吐いておりますが、今年は特にそれが目立った気がする。今年というより、おそらくここ何年か、右上がりに増えてきたということだろうか。

 今年、誰でもすぐ思い出すものを2,3挙げると……たとえば、久間防衛相原の「しょうがない」。なにィ? 原爆を落とされたのはしょうがないって? おっさん、何考えてんねん(失礼。母親が遊びに……というか大掃除しに来ているもんで、つられて関西弁になりました)。ほかにも麻生外相の「アルツハイマー」うんぬん、柳沢厚労相の「産む機械」、……枚挙にいとまがないとはこのことである。

 どれを選ぶか迷うほどだが、やっぱりこれですか。久間防衛相の「しょうがない」。

 ――続きはこちら

 

コメント (5)   トラックバック (11)
この記事をはてなブックマークに追加

息苦しい国――ビラ配り有罪判決

2007-12-24 23:57:27 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 

 もう2週間ほど前の話だが……「政党ビラ配り事件有罪判決」。そう、マンションで政党ビラを配った荒川さんという人が住居侵入罪で逮捕され、一審は無罪だったが二審でひっくり返り、有罪になった事件である。

 この事件については、むろん、既に大勢のブロガーが書いておられる。だからあらためて書くのもナンだよな、という気もしないではないが……このところ気になっている問題の一つなので、やっぱり書き留めておくことにしよう。 

 私自身の復習のために簡単に振り返っておくと、被告の荒川さんは2004年12月に、東京都荒川区のマンションで各戸のポストにビラ(共産党の区議団だよりなど)を投函しているところを、住民に通報されて逮捕されたのだそうだ。被告側は「ビラ配布目的での立ち入りを処罰することは、表現の自由を保障した憲法に違反する」として無罪を主張。だが、東京高裁の池田裁判長は「表現の自由は絶対的に保障されるものではない。思想を外部に発表する手段であっても、他人の財産権を侵害することは許されない」とし、この主張を退けたという。

◇◇◇◇◇

 さて……このニュースに接した時に真っ先に浮かんだ感想は、「ヤレヤレ、何とまぁ」である。腐りかけた牛乳をうっかり飲んでしまったような、イヤ~な感覚が神経のどこかを走った。

 この判決について、「共産党の活動、あるいは現政権に異議をとなえる運動に対する弾圧である」という見方がある。基本的には、私もその通りであろうと思う。以前、東京都立川市の自衛隊宿舎における「イラク派兵反対」のビラ配り活動も、住居侵入罪で起訴された。国家権力は、目障りな対象を封じ込め、反社会的というレッテルを貼るためには、なりふりかまわない。

◇◇◇◇◇

 ……ということを前提に置いた上で、私はいま、少し違うことを考えている。「公共の福祉とは何だろう」。自由を制限するとき、公共の福祉という言葉があたかも葵の印籠のように振りかざされる。

◇◇◇◇◇

 いったん今回の事件に帰ってみると、私は「各戸のポストにビラを投函する」という行為が迷惑であるとか、ましてや財産権の侵害になるなどという理屈がどうしても納得できないのである。私自身もいわゆるマンション住まいであるけれども、共有廊下を誰が通ろうと、プライバシーや財産権が侵害されたなどとはつゆも思わない。ビラを投函されただけで侵害されるプライバシーや財産権とは、何と脆弱なものであることか。あほらしくてヘソが茶を沸かす。

 1階に全戸分まとめてズラリと並んだ郵便受けはむろんのこと、各戸の郵便受け(これは主に新聞受けなのだが)にも、毎日山のようなチラシ、ビラの類が入る。何日か出張していると、戻ったときには溢れて下に落ちていたりするほどだ。ウォシュレット取り付け工事、マンション分譲、○○ビデオ販売、ピザや弁当の宅配、学習塾……。霊園案内、なんてのも入っていたことがあって、これはさすがに驚いた。

 我が家のすぐ近くに自民党と共産党の区議が住んでいるせいか、両方の「区議会だより」も始終投函されている。もうひとつ常時入っているのが、近くの教会の……布教ビラというのだろうか、キリスト教について書いたB5版ほどのパンフレット。つい先日もクリスマス礼拝のお誘いが入った。(宗教関係といえば、ほかに時々、立正佼正会だったかのビラも入る)

 私は、すべてOKである。自民党区議団のビラだって入れていただいてかまわないし、無神論者だけれども教会の布教ビラも拒否はしない。興味があれば読む(自民党のビラも、読めばおもしろい――なるほど、こんなふうに言うのかという意味で――のである)。学習塾の案内やマンション分譲その他、ほとんど読まずに捨てるものが多く、そんな時には「資源の無駄やなぁ」とふと思ったりもするけれども、投函する自由を規制しようとはさらさら思わない。

 ビラの投函が迷惑だなんて、そりゃ嘘八百でしょ。と言って悪ければ、勘違いと言おうか。共有廊下に入ってきて扉の外でマイクで大声を上げられたら、そりゃまあ迷惑かも知れない。少なくとも迷惑に感じる人はいるだろう。私自身、徹夜明けで寝ているところだったとすれば、飛び出して「やかましいッ」と怒鳴るに違いない。でもビラが迷惑だなどと感じたことは、長い?人生でたった一度もありませぬ。

 よく考えてみたら誰も迷惑だと思わないことを、「迷惑だ」=「公共の福祉に反する」と決めつけ、規制するのはいったい誰だ。そのような規制によって守られるのは、いったい何ものだ。

 権力を握る者は、「やっちゃいけないこと」を増やすことによって人を支配する。国家でも学校でも家庭でも。その「やっちゃいけないこと」をされることで即、権力が脅かされるかどうかは、実は二の次である。何が一番の目的かといえば――

(1)「やっちゃいけないと言われたことはやりません」という素直な人々と、「なぜいけないのさ」と唇尖らせる人々を峻別できる。(2)「やっちゃいけないこと」を増やせば、総体で違反者も増える。「悪い奴」を創出して彼らに石を投げさせるのは、格好のガス抜きになる。

 息苦しい。

 規則は破られるためにあり、すべての規則は「人々の権利を守るため」にある。え? 財産権も権利だって? そりゃそうかも知れませんが(私は財産なんつうものは無いから大きなことは言えませんけど)、権利にも優勢順位があると私は思う。いかなる差別も受けずに生存し、自由にものを考え、ものを言い、得体の知れないバカデカイもの(国家というのがその代表だ)に振りまわされない権利というのが、至上のものではありませんかね?

コメント (6)   トラックバック (15)
この記事をはてなブックマークに追加