教養と趣味

私が経験してしてきたことや考えていることに対してご指導を下さい。趣味などを通して有意義な生き方についてご伝授ください。

三大瀑布(三名瀑)

2009年09月25日 08時04分49秒 | 日本三大
三大瀑布(三名瀑)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

那智の滝(和歌山県)
那智山中には、いくつかの渓流があり、その渓流には60余に達する多くの滝が架かっています。
「那智滝」とは、本来は、那智山の多くの滝のうち、瀧篭修行の行場として扱われました。
48の滝(那智四十八滝)の総称でした。
しかし、現在、一般に那智滝として知られている滝はこれらのうち、一の滝を指している。那智山一帯は、滝に対する自然信仰の聖地であり、一の滝は現在でも飛瀧神社の御神体であって、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台からその姿を見ることが出来る。
滝の落口の岩盤に切れ目があり三筋に分かれて流れ落ちるため三筋の滝ともいい、また那智の滝の代表するということから那智の大滝とも呼ばれる。
この滝を写した写真のキャプションとして「熊野那智大社と那智滝」などの様に題して、三重の塔と那智の滝を1枚のフレームに納めたものがある。明治期の神仏分離以前においては、その三重の塔が属する青岸渡寺と熊野那智大社は一体のものであったが、今日においては三重塔は青岸渡寺に属するため「青岸渡寺の三重塔と那智滝」と表記するのが正しい。
2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。
位置 北緯33度40分19.3秒
東経135度53分26.7秒
所在地 和歌山県那智勝浦町
落差 133m
滝幅 13m
水系 那智川


那智の滝

華厳の滝(栃木県)
ウィキメディア・コモンズには、華厳滝に関連するカテゴリがあります。華厳の滝(けごんのたき)は、栃木県日光市にある滝。発見者は勝道上人と伝えられ、仏教経典の1つである華厳経から名づけられたといわれるが、日光では他に阿含滝、方等滝、般若滝、涅槃滝もあることから、五時の教判から、それらと同様に命名されたものと考えられている。
男体山の噴火により堰き止められた中禅寺湖からの地表を流れる唯一の流出口大谷川にある滝。落差97mの滝を一気に流れ落ちる様は壮観で、日本三名瀑のひとつにも数えられている。
中段部分からは十二滝と呼ばれる伏流水が流れ落ち、直下型の華厳滝と相まって優れた景観を作りだしている。観光客向けの華厳滝エレベーターが設置されていて、エレベータで降りた観瀑台からは滝壷を間近に見ることができる。
位置 北緯36度44分05秒
東経139度30分18.4秒
所在地 栃木県日光市
落差 97m
滝幅 7m
水系 利根川水系大谷川


華厳の滝

袋田の滝(茨城県)
袋田の滝(ふくろだのたき)は、茨城県久慈郡大子町袋田にある滝。位置は、久慈川支流の滝川上流にあたり、長さ120m、幅73m。冬は、凍結することがある。
茨城県指定名勝。華厳滝、那智滝とともに日本三名瀑のひとつに挙げられる場合もあり、日本の滝百選にも選定されている。1990年(平成2年)に行われた日本の滝百選の人気投票では1位を取った。
江戸時代は水戸藩の領地内であり、水戸黄門として知られる徳川光圀が訪れたことがあるとされる。
この滝の別名「四度の滝」は、滝川が4段に岩肌を落ちることから名づけられたとされる説と、昔、この地を訪れた西行法師が「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と、この滝を絶賛したと伝えられていることから名づけられたとされる説がある。
位置 北緯36度45分39.8秒
東経140度24分37.5秒
所在地 茨城県久慈郡大子町袋田
滝幅 73m
水系 久慈川水系滝川


冬の袋田の滝

月面に水証拠あり

2009年09月25日 08時03分27秒 | 日記
昨日は、秋晴れの素晴らしい一日でした。
午前中は、来週の木曜日からはじまる仕事の準備をしました。
来週から、水曜日、木曜日と仕事が始まり、生活のリズムが出来ます。
契約社員ですから、来年の3月末日での契約です。
したがって、来年の4月からは仕事がなくなる可能性があります。
契約社員の辛いところです。
本日も晴れ上がっており、快適な一日となりそうです。
夏を乗り越えた愛犬(城)ですが、脚が相当に弱ったようです。
本当にヨタヨタ歩きですが、リハビリを兼ねてとにかく歩かせております.

昨日の夕刊に、「月面に水証拠あり」の記事がありました。
私が大きな興味を持っている1つです。
月面に水があれば、空気を作ることも、野菜を育てることも可能となります。
すると月で生活をするという、いわゆる「月面基地」が可能となります。
月の資源を有効に活用できる可能性もでてきます。
さらに、火星への道も大きく開けてきます。
私の夢がさらに広がっていきます。

もう1つ、面白いニュースが本日の朝刊に出ております。
それは、ホンダがロボット「アシモ」の技術を使って開発した電動一輪車「U3―X」を初公開したというものです。
この電動一輪車は、360度どの方向にも動く車輪を備え、乗り手の体の傾け具合で進む方向や速度が決まるそうです。
実用化の時期は未定だが、高齢者の手軽な移動手段やレジャー用といった使い方が考えられると伝えております。
高さ65センチで重さは10キロ弱、最高時速は6キロで、フル充電で1時間走れるようです。
乗るのに慣れるまで大変かと思いますが、小回りがきいて未来の乗り物として期待できそうです。



前後左右に駆動する新型パーソナルモビリティ



下のURLをクリックされると、1ヶ月前のニュースを見ることが出来ます。
http://www.geocities.jp/haarita/825.htm

日本の技術

2009年09月24日 08時05分59秒 | 日記
昨日は、ほぼ快晴で素敵な一日でした。
昨日はスポーツジムが休み仕事も休みということで、庭の清掃をしました。
立派な?まきの木の手入れを主にやりました。
梯子を利用しましたが、バランスをとるのに十分に注意をしました。
剪定をする時毎年思うのですが、遠目でみた時はこのようにやりたいと思うのですが、いざその場になると何処をどのように切り取ってよいのか分からないのです。
専門の職人さんは「職人の一服」と言って、タバコを吸いながら全体を眺めて次の剪定の作戦を練るそうです。
まさか、一服に酒を飲むわけに行かず、黙々と続けました。
少しは手入れをした感じとなりましたので、次に庭の草取りをしました。
愛犬(城)が、早速側に寄ってきましたがこれが足手まといなのです。
城も仕事を手伝っているつもりのようでした。

今朝は朝方より晴れ上がり、素晴らしい天気となりました。
近くに小学校がありますが、本日運動会のようで先生方がラインを引くなど準備をしておりました。
本格的な秋がやってきました。
有意義に毎日を送りましょう。

先日打ち上げられた日本初の無人宇宙船「HTV」が地上から350キロ前後の軌道にある国際宇宙ステーション(ISS)への結合に成功しました。
その作業手順は、
(1)ISSに接続されている日本実験棟「きぼう」の反射板にレーザーをあてて距離を測りながら、まず2時間ほどかけ、ISSから約300メートル離れた地点から約10メートルまで近づいて停止した。
(2)ISSにいる飛行士が、ロボットアームを操作してHTVを捕え、約2時間半かけて結合ました。
のようです。
素人の考えでは、10分もあれば出来るように思うのですが、大変な作業ですね。
来年にも退役予定の米国のスペースシャトルに代わって大型設備を運べる唯一の補給機で、2015年まで年1回の頻度で飛行が計画されています。
日本の出番がやってきました。
このたびの日本の技術は、高く評価されることと思います。
科学立国、工業立国をめざして頑張って欲しいものです。

下のURLをクリックされると、1ヶ月前のニュースを見ることが出来ます。
http://www.geocities.jp/haarita/824.htm





三大鍾乳洞

2009年09月24日 06時42分37秒 | 日本三大
三大鍾乳洞
出展:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

龍泉洞(岩手県岩泉町)
岩泉湧窟(いわいずみわっくつ)ともいう。
全長は2.5km以上とも5km以上とも言われている。しかし実際には40年以上前に洞窟探検家が潜水事故を起こして以来調査されていないので、あくまでも予測の数値である。水深98mの第3地底湖、120m以上ある第4地底湖(未公開)等、全部で7つの地底湖を持っていることで知られている。1938年(昭和13年)12月14日に洞窟及び生息するコウモリ類が「岩泉湧窟及びコウモリ」として日本国の天然記念物に指定されている。キクガシラコウモリ、コキクガシラコウモリ、モモジロコウモリ、ウサギコウモリ及びテングコウモリの5種のコウモリ類が確認されており、洞窟内からコウモリ類が飛び出すのを見ることもある。
観光整備工事中の1967年(昭和42年)に龍泉洞入口の向かい側に龍泉新洞が発見され、洞内から多数の土器・石器などが発見された。龍泉新洞はトレース調査により龍泉洞の下流部分にあたるとされているが、実際に水中部を潜り調査したことはない。だが、いくらかの調査に基づいて、龍泉洞の水が再度地下にもぐりこみ、清水川の下を「第二の川」のように流れ、龍泉新洞の「泉」で湧いていることが判っている。おおよそ5分ほどで、龍泉洞のしみこむ地点から、龍泉新洞の「泉」まで、到達していると言われる。
龍泉洞の水は世界でも、有数の透明度を誇っていることでも有名。これは、地下深くに潜り込んだ沢の水が、地底湖で湧出するためである。良質の腐葉土によって濾過され、また、地中の石灰質を多く溶かし込んでいるので、味がしっかりとしたものとなっている。名水百選に選定されている。
岩泉町(龍泉洞)近くに日本洞穴学研究所がある。最近では、安家洞が日本で最長の洞窟であると騒がれているため、龍泉洞はそれほど学術的には注目されていない(但し非公開にされている地域は、研究されているから除く)が、その美しさゆえに、デート・スポットとして、関東や近隣の都市から車で多くの男女がやってくる。



龍泉洞


秋芳洞(山口県美祢市)
洞窟探検家による潜水調査の結果、総延長は8,790m(日本第3位、鍾乳洞としては東洋最大規模)あり、葛ヶ穴まで連結した。このうち、観光用に公開されている部分は約1.5kmである。
鉱山業者の梅原文次郎と英国王立地学協会員のエドワード・ガントレットによる調査の後、1909年に観光地として整備された。2人が調査した当時は、地元では「水神のすみか」と伝えられており、誰も近づかなかったという。
国の特別天然記念物に指定されている。
秋吉台にある他の2つの鍾乳洞、景清洞、大正洞と合わせ、秋吉台地下水系という名称で2005年11月、ラムサール条約登録湿地となった。
2007年、秋吉台とともに日本の地質百選に選定された(「秋吉台・秋芳洞」)。
名称について
洞口に瀧があるために古くから「瀧穴」と呼ばれていたが、1926年5月30日、東宮(後の昭和天皇)が行啓の折にこの鍾乳洞を探勝。このとき「瀧穴」の名称について東宮が質問したところ、時の山口県知事大森吉五郎は、以前から称え伝えた名称であり、その所在地の者がかく称えていたと回答。すると時の内大臣牧野伸顕から、「瀧穴」とは何だか名実相伴しない観があるから何とか名称をつけたらよかろうとの提案があった。これに対して大森は、天下に誇るべきこの鍾乳洞にふさわしい名を殿下から戴くことは畏れ多いので牧野内大臣から命名していただきたいと答えたが、牧野曰く、この「瀧穴」の名は今回の行啓記念に殿下の思召によって近く改めて一段の光彩を添えることがよかろうとのことだった。
1926年6月17日、『防長新聞』は「秋吉の滝穴に入江侍従長から秋芳洞と命名された」と報じた。この報は、当時東京滞在中だった大森から山口県に電報で通達されたが、その電文にはただ「あきよしどう」とあるのみで漢字の説明がないので「秋吉洞」と命名されたと当初は解釈された。しかしこの字の読み方について、念のため折返し知事に照会した結果「よしの字は芳なり」との返電があったので「秋芳洞」と書くことが判明した。こうして1926年6月23日、大森知事から村長に「秋芳洞」の名が伝達された。


秋芳洞の入口


秋芳洞「黄金柱」


龍河洞(高知県香美市)
鍾乳洞の総延長約4キロメートルのうち、約1キロメートルが通常ルートとなっている。このほかに、冒険コース(前日までに要予約)がある。珍鳥センターと龍河洞博物館が併設されている。
洞内より数十点の弥生式土器、炉跡、木炭および獣骨などを発見しており、弥生時代にあって洞内に居住した痕跡がのこるとして天然記念物指定と同時に国の史跡にも指定された。
特に洞内において弥生式土器と地面がくっついたまま鍾乳石化したものが見られ、「神の壷」と命名されてこの龍河洞のシンボリックな存在である。その隣には近代になってから試験的に置かれた壷があり、こちらも鍾乳石と一体化している。


洞窟入口にある龍王神社

クマは人を襲うのか

2009年09月23日 07時51分44秒 | 日記
昨日は、朝方突然雨が降りびっくりしました。
瞬時に雨は上がり、晴れたり曇ったりの一日でした。
夜には虫の声が聞こえ、すっかりと秋になりました。
本日も曇っております。 

先日の新聞によると、行楽客でにぎわう岐阜・乗鞍で午後2時20分ごろ、クマが魔王岳中腹の小高い場所から突然現れ、転げ落ちるようにして岳に通じる石の階段まで走り下りてきたようです。
まさに今から登ろうとする男性が、長い木の棒でクマを追い払おうとしてクマともみ合いになったとのことです。

昔の話によると、「熊に遭ったら死んだふりをすれば助かる」、という話を聞いたことがあります。
そうではないかと思われる私の経験話です。
相当前の話ですが、友人と尾瀬にハイキングをしたときのことです。
茶店の前で、大勢の人だかりがありました。
覗いてみると小熊がいるではありませんか。
とても可愛い顔をしておりました。
突然店主が出てきて、「皆さん遠ざかってください」、と大声で叫びました。
そして、「小熊の奥を見てください。小熊を見守っている親熊が見えますか」、というのです。
確かに、親熊が小熊の様子をじっと見詰めておりました。
店主いわく、「小熊に近づくと、親熊は危険を感じて襲ってきます。だから知らぬふりをして遠ざかってください」、と言いました。
そのあと、店主は空き缶をガンガンと鳴らして小熊を追い払いました。
すると、親熊も後をつけて去ってゆきました。
その後、友人と残りの行程を歩きましたが生きている気持ちどころではありませんでした。
静かに静かに歩いて、無事に旅程を終えました。
この経験から、熊は人間が危害を加えないと判断をしたら、人間を襲うことはないのではないかと思います。
とは言っても、その場に出会わせたら気が動転をすることと思います。
それにしても、射殺された熊は可愛そうです。


射殺されたクマ

本日は、秋分の日です。
春分の日と同様に、「昼夜の長さがほぼ同じになる」、と説明していますが実際には昼の方が夜よりも長いそうです。
年により所により差がありますが、平均すれば昼が夜よりも約14分長いそうです。
下は、東京地方の日の出、日の入、昼の長さの一覧です。
確かに少しづれております。
本日は昼時間が、8分長いようです。

日付  日出    日没    昼時間
23  5:29   17:37  12:08
26  5:31   17:33  12:01
27  5:32   17:31  11:59

椀作りの欠け椀

2009年09月23日 06時06分22秒 | ことわざ
本日のことわざ(名言)
椀作りの欠け椀
(わんつくりの かけわん)

椀を作る職人が自分は欠けた椀を使っているという意味から、他人のためばかりに力を注いで、自分のことはなおざりにする
というたとえです。
「紺屋の白袴」と同じ意味かと思いますが、日本人の多くの方が同じ気持ちではないでしょうか。
時々自分勝手な人を見かけますが、他人を大切にするということは生きていく上で重要なことではないかと思います。



「おくりびと」を鑑賞しました

2009年09月22日 07時24分12秒 | 日記
昨日は、曇り空の一日でした。
スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋など何をするにも最高の季節となりました。
私にとっては、肥える秋にならぬことです。
スポーツジムの運動は、順調に進行中です。

話が変わって、愛犬(城)の話になります。
この頃の食事の話です。
朝食は、アンに包んだ薬を飲み、その日の好みで何か軽食をして後は玄関番をしながら熟睡です。
そして、昼は私どもと同じ昼食です。
一人前の量を食べます。
夕食はいろいろですが、最後に私のお手製の「ウイロウ」をデザートとして食べます。


夜中に起きた城の顔です
これから夜の散歩です

昨日「おくりびと」をテレビで放映しましたので、録画をしながら鑑賞しました。
話題の作品でしたが映画を観ませんでしたので、じっくりと拝見をしました。
夜9時から11時34分と長時間でしたが、最後に父親の納棺をする場面には感動しました。
妻や友人が、「納棺師の仕事は人に嫌われる仕事である。やめるように」、と諭します。
本人もはじめはなじめませんでしたが、次第に大切な仕事であると考えるようになります。
反対をした友人は、自分の父親を納棺してもらったことで感謝をし納棺師の仕事の大切さを知ります。
よいことばかりではありません。
「こんな顔ではなかった。化粧をやり直してくれ」、と親族より苦情を受ける場面もあります。
誰にでも死があり、納棺師のお世話になります。
納棺師の仕事の重要性を、改めて認識させられる作品でした。

三大松原

2009年09月22日 06時21分18秒 | 日本三大
三大松原

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三保の松原(静岡市清水区)
白砂青松の総延長7kmの美しい松林が続く海浜(砂嘴)と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。その美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされている。日本の白砂青松100選にも指定されている。
羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞いおりたとされる羽衣の松と呼ばれる樹齢650年の老松があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)には、羽衣の切れ端が保存されている。
フランスのダンサー、エレーヌ・ジュグラリスは日本の「能」を研究する中で「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を発表、また来日して三保の松原を訪れることも希望していたが35歳で病死した事により実現できなかった。後にエレーヌの夫は彼女の衣装と遺髪を持って来日した。エレーヌの功績を称え、1952年に「エレーヌの碑(羽衣の碑)」が完成、碑の袂には彼女の遺髪が納められている。
近年、「羽衣の松」を含む松林が徐々に枯死する症状が進行しており、問題視されている。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な対策が見つけ出せずにいるのが現状である。


三保の松原と富士山


羽衣の松

虹ノ松原(佐賀県唐津市)
17世紀のはじめ、唐津藩の藩主である寺沢広高が新田開発の一環として、防風林、防砂林として植樹を行った。藩の庇護の下、禁伐の掟(伐採は死罪)はもちろんのこと、燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課せられていた。また、藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理された。
寺沢広高は、この中に自分が愛してやまない松が7本だけあると言ったというが、どの松と指定されてはいない。これは住民に「もし自分が粗末にした松がその7本のどれかだったら」と思わせることで、全ての松を大事にせざるを得ないように、心理的に圧力をかけたものといわれている。
この松原は、その区域の長さから、藩政時代は「二里松原」と呼ばれていた。明治時代に呼ばれるようになった「虹の松原」の語源とも言われているが、呼称が変わった理由などは知られていない。
1771年には、当時天領となっていたことから、農民の反乱である「松原寄り(虹の松原一揆)」の舞台ともなっている。
明治維新以降は国有林に編入、2007年現在は、佐賀森林管理署が管理を行っている。民有地が僅かに点在するものの、ほぼ全域が保安林に指定されており、現在も伐採は制限を受けている。


鏡山展望台から虹の松原全景

気比松原(福井県敦賀市)
敦賀湾の奥に面する部分のうち西側半分がこの松原である。400,000m² の広さの中に17,000本の各種の松が並び、夏には浜辺が海水浴場として賑わう。日本における海岸の松林はクロマツが多いが、気比松原ではアカマツが85パーセントを占める。江戸時代以来松原は敦賀および北陸の名勝として知られてきたほか、今日では日本の白砂青松100選にも指定されている。
夏になれば近畿や中京からの海水浴客で賑わいを見せる。また日本海一と自称する花火大会とそれに伴い行われるとうろう流しの会場にもなると人でごった返す。冬には松林一体が雪化粧されて美しく、日本海の荒波ともあいまった壮麗な風景となる。普段は静かでひっそりとした場所である。松原の中には散策路がめぐらされている。
年に2,3回ほどマツ材線虫病防除の薬品が散布されるので立ち入り禁止になる日がある。また、マツ材線虫病の感染拡大を防ぐため、感染木の伐倒駆除や殺菌剤樹幹注入による防除もおこなわれている。


気比松原全景

天橋立(京都府宮津市)
天橋立は、宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6kmの砂嘴である(地学上では砂州)。また、それを展望できる傘松公園等も含めた総称とする場合もある。一帯には約8,000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。砂嘴の幅は20~170mほどである。
人が逆さになって見ると、天に架かる橋のように見えることからこの名がついた。北側の傘松公園から「股のぞき」で見るのが名称の由来でもあり、伝統的に美しいとされている(この眺望は、「斜め一文字」と呼ばれる)。
古くから名所として知られており、一例として百人一首の小式部内侍の歌「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」が見られるほか、丹後国風土記には、イザナギが天に昇るためのはしごが、イザナギが寝ている間に倒れて天橋立になったとの記述がある。江戸時代から松島(現在の宮城県)、宮島(現在の広島県)とともに日本三景の一つに数えられた。
成り立ちは今から約4000年前とされており、丹後半島の東側の河川から流出した砂や小石などの砂礫が海流により流され、天橋立の西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積して形成されたと言われている。
1952年(昭和27年)11月22日に国の特別名勝に指定され、また日本の白砂青松100選にも指定されている。1955年6月1日には若狭湾国定公園の一部として国定公園に指定されていたが、2007年8月3日に丹後天橋立大江山国定公園として独立した。2007年には日本の地質百選に選定された。
京都府、宮津市などは「天橋立-日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表記載資産候補としての提案を行い、落選したものの、カテゴリーⅠa「提案書の基本的主題を基に、作業を進めるべきもの。」 という評価を受けた。これは暫定リスト入りできなかった案件の中ではトップクラスの評価を受けたことを意味し、次回以降の選考による暫定リスト入りが期待されている。


北側(傘松公園)からの眺め(2004年頃)

長嶋茂雄と王貞治の対談

2009年09月21日 07時24分01秒 | 日記
昨日は秋らしい穏やかな一日でした。
愛犬(城)もよく食べよく寝ます。
後ろ足が不自由ですが、元気です。
これから寒さに向かいますが、十分に注意をしてやりたいと思います。
今朝は、雨は降らないと思いますが曇っております。

昨夜9時から10時NHKテレビで、「長嶋茂雄と王貞治の対談」を観ました。
2人ともに50年前の昔を語ったものです。
スーパースターといわれた長嶋が、陰で努力をしていたとは知りませんでした。
スターであるだけに、陰で努力をしていることをファンに知られたくなかったそうです。
負けるものかと、深夜にバットを振り続けて猛特訓をしたそうです。
「自分は決して天才ではない。努力の塊だ」、と自分のことを語っておりました。
脳梗塞で倒れた後遺症のため、言葉が聞き取りにくいところもありましたが、長嶋が陰で努力をしていたとは、知りませんでした。
天才ではなかったのです。
やはり、天才と言われる人は陰で努力をしているのだということがよく分かりました。
一方の王は、努力の人ということで知られておりましたので、努力をしている姿は当たり前という感じでテレビを観ました。
王で感心をしたことは、毎日の詳細なメモです。
そのメモが紹介されましたが、その日の反省、気づいたこと、目標などがびっしりと書いてありました。
確かに記録に残すということは、今まで自分が生きてきた証でありこれからの目標になるので大変重要なことではないでしょうか。
長嶋は王のように宣言をしないで陰で特訓をしただけに、精神的に相当に苦しんだようです。
とにかく2人とも「努力をする」という能力(才能)があったからだと思います。
目標を立て、努力をすることを忘れないようにしましょう。

20日早朝、タレント酒井法子(本名・高相法子)被告)と夫の高相祐一被告が滞在することがあった借家が出火しました。
当時は無人で、不審火として原因を調べているようです。



下のURLをクリックされると、1ヶ月前のニュースを見ることが出来ます。
http://www.geocities.jp/haarita/820.htm

三大財閥(戦前の三大財閥)

2009年09月21日 06時36分26秒 | 日本三大
三大財閥(戦前の三大財閥)

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三井財閥(みついざいばつ)
三井越後屋(三越・三井銀行)を元に始まったとされる日本最古の財閥。日本三大財閥の一つ。三井本館は1998年(平成10年)に、「国宝及び重要文化財指定基準」の「意匠的に優秀なもの」および「歴史的価値の高いもの」として評価をされ、重要文化財の指定を受けた。


東京都中央区日本橋室町 三井本館


住友財閥(すみともざいばつ)
ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。住友は、製造業を主業として、その隣接部門への多業種化と垂直的統合によって発展した。また、三井と並んで日本の最も古い独占企業体であるが、ただ異なる点は、三井は原則として商いと高利貸でその活動を始め、その事業を継続してきたのに対して、住友は基本的に鉱工業活動に携わってきたことである。


旧住友本社 設計:長谷部竹腰建築事務所

三菱財閥(みつびしざいばつ)
岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された。

三菱標章