教養と趣味

私が経験してしてきたことや考えていることに対してご指導を下さい。趣味などを通して有意義な生き方についてご伝授ください。

神宮外苑(明治神宮野球場)

2009年03月31日 08時02分45秒 | 日記
本日も快晴です。
少し暖かくなりそうです。
しかし、夕刻より曇り明日は雨のようです。
愛犬(城)は、少し元気になったようです。
食欲もあり、今朝は少しばかり遠出をしました。

本日で3月も終わりです。
明日から、気分も新たに頑張りましょう。

さて、3月24日(火)に散策をしました、神宮外苑の紹介その3です。

本日は、明治神宮野球場を紹介します。
神宮野球場は、ヤクルトの本拠地ですが、私は毎年足を運んでおります。
というのも、毎年、夏休みの盆の期間を利用して、「全国高等学校定時制通信制軟式野球大会」が神宮球場を含めて3~4球場で行われます。
私は大会の顧問をしている関係で毎年、開会式と閉会式に参列をしております。
ネット裏の記者席で観戦もしております。

この大会期間中は誰でも無料で客席には、入場をすることができます。




神宮球場正面入り口
当日のオープン戦(ヤクルト・巨人戦)のお客が入場しておりました


正面入り口付近の前売り券売り場


当日のオープン戦(ヤクルト・巨人戦)の入場券売り場


外野入場口(バックスクリーンの下に当たる)


バックスクリーンの裏側から見たところ


神宮球場のすぐ隣に神宮第二球場があります

以下、HPより紹介をいたします。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要 [編集]
東京六大学野球連盟の本拠地として1926年に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、六大学野球や東都大学野球1部リーグ及び入れ替え戦を中心に今日まで使用されている。他にも高校野球の東東京大会及び西東京大会や全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会、日米大学野球選手権の他、社会人野球(JABA東京スポニチ大会。過去には黒獅子旗・都市対抗大会も)など多くの大会が開催されており、また日本プロ野球の東京ヤクルトスワローズも専用球場として使用している。日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれる野球場である。

2007年11月24日から大規模な改修工事を実施し、2008年3月6日に竣工式が行われた。この改修では両翼を91mから101mにまで拡張し、人工芝を従来の透水型からモノフィラメント・ロングパイル型に張り替え、さらに外野フェンス高を3.5mから4.5m(いずれもネット部分含む)に嵩上げし、バックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。また、スコアボードも従来の放電管方式から、屋外野球場では最大の表示面積となる縦12m、横27mの全面フルカラーLEDとなった(総工費約15億円)。

球場規模 グラウンド面積:12,659m²
両翼 - 101 m(約331.4 ft)
中堅 - 120 m(約393.7 ft)
フェンス 4.5 m (約14.76 ft)
ラバーフェンス:2.0 m
金網フェンス:2.5 m

人間魚雷「回天」基地跡

2009年03月30日 13時17分14秒 | 下松からの写真
下松から写真が届きました。


93式魚雷(高圧酸素を燃焼に使用したために航跡が殆ど出なかった)の回天推進装置の一部:記念館入り口横に展示。


回天基地跡:トンネルを出た付近からの眺め。


回天記念館の裏山(163m)・展望広場にモニュメント「未来の風」


回天記念館への歩道の両脇に烈士石碑(名前と出身県)。


回天記念館事務室の前に展示の人間魚雷「回天」の模型。


回転基地へ直進の岩盤をくり抜かれた回天運搬用のトンネル。


海に突き出た回天基地跡:トンネル入口付近からの眺め。


樹齢350年と伝えられている椿の巨樹:幹周が2m


大津島への乗船場に展示の人間魚雷「回天」の実物大模型:平成18年に公開された「出口のない海」の撮影に使用されたもの。


大津島へ約40分の連絡フエリー(大津島丸):徳山港にて。


二つの魚雷発射口(回天基地跡)


馬島港:モニュメントのある展望広場への登路からの眺め。

ご主人のコメント
昨日、人間魚雷「回天」基地跡、回転記念館等がある大津島に家内と二人で行って来ました。
大津島は周南市の徳山港から南西10kmの沖合に浮かぶ細長い島で、南部は瀬戸内海国立公園に指定されていて景観の優れたところです。
花見を兼ねて桜が満開と思われる来週当たりに行きたかったのですが、来週も再来週の日曜日も予定があるので思い切って出かけました。

徳山港発AM10時のフェリー(大津島丸)に乗船し、徳山湾を囲む仙島、黒髪島等の島々を眺めながらの約40分の船旅は退屈を感じませんでした。
私が数10年前に訪れた時は小さな巡航船でしたが、今では高速艇やフェリーが就航していて、船便も多く大変便利になっていました。

馬島港に降りて、先ず、「回天」を発射場までトロッコで運んだというトンネルを抜けて、岸壁から海に突き出た人間魚雷「回天」基地跡に行きました。
この基地は、人間魚雷「回天」の発射試験場で、平行して二箇所の魚雷発射口があります。

家内は大津島は初めてとのことなので、馬島港を見下ろせる少し高台の回転記念館に行きました。
記念館には、歩道に烈士石碑、東和町沖で謎の爆発沈没した戦艦陸奥の砲身で作られた平和祈念の鐘、慰霊碑、「回天」模型等があり、館内には「回天」に関する遺品や資料が展示してあります。
周囲には桜の木が多くありますが、未だ殆どが蕾状態でした。
桜の開花は例年よりも一週間位早いとの予報でしたが、ここのところ冷え込みが続いているので、結局例年並みか遅れ気味になっているようです。

回天記念館を見学した後、裏山(163m)に向かい魚雷見張所跡を経て頂上(163m)の展望広場に着きました。
ここにはモニュメント「未来の風」が建っており、徳山湾が見渡せます。
この広場で昼食後、山を降りて海岸線沿いの道路を北上し民家の裏にある樹齢350年と伝えられるツバキの巨樹を見に行きました。幹周りが2mほどあるそうで、背丈より少し上当たりで二つに分かれいて花を咲かせていました。

長くなりますが参考までに(回天記念館資料から抜粋)
1.回天誕生
太平洋戦争の末期(昭和18年夏)、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻作戦しかないと人間魚雷を構想。
その後、戦局は更に悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ昭和19年8月、正式に兵器として採用され、”天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて、人間魚雷は誕生した。
これは、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器で、隊員の訓練基地が大津島に置かれた。
2.人間魚雷「回天」
「回天」は秘密保持の為に、0六兵器と呼ばれた。
回天の母体となった九三式魚雷は酸素魚雷といわれるもので、終戦まで秘密のベールに覆われていた高性能魚雷であった。隠密性に優れ、爆薬を多量に積載することが出来た。各国の魚雷に比べ航続距離もはるかに長かった。
この九三式魚雷の中央部に乗員の為の操縦室等を取り付けたのが「回天」である。
昭和19年6月頃から搭乗員の募集が始まり、彼らは自分の命をかけて祖国を守ろうと全国から20歳前後の精鋭達が集まり、毎日激しい訓練をした。
3.回天特別攻撃隊
終戦までに訓練を受けた「回天」搭乗員は1375人で、その殆どが兵学校、機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者達だった。年齢も17歳から多くても28歳、多数は20歳前後の若者だった。
「回天」による戦没者は、搭乗員、整備員他145名(搭乗員は106名)、没時の平均年齢は21.1歳である。
4.人間魚雷「回天」発射基地
「回天」の訓練基地は全国に4箇所(山口県の平生、光、大分県の大神)あったが、大津島基地が最も早く開設され、更に当時の施設が現在も残っているのも唯一大津島だけです。
大津島では昭和12年に当時の日本海軍が世界に誇った高性能の魚雷、九三式酸素魚雷の発射試験場が建設された。
その後、九三式酸素魚雷を推進装置として使用した「回天」の誕生とともに、新たに訓練基地隊が昭和19年9月1日に開隊され5日から訓練を開始した。
出撃する隊員は、沖合いに待機している「回天」を搭載したイ号潜水艦に乗り移り戦地へ向かった。
5.試練を乗り越えて
訓練開始から2日目の9月6日、黒木大尉と樋口大尉同乗の回天が沈没事故を起こし、最初の犠牲者を出した。
その日海上には波が立ち始めていた。指揮官は訓練の中止を命じたが、若い隊員の気迫に押されて訓練に踏み切り、二人は回天に乗り込んで海中に発進して行った。一時間が経過。浮上予定時刻を過ぎても彼らは戻ってこなかった。
夜を徹した捜索が続けられ、16時間後に発見されたが、すでに二人とも絶命していた。彼らは沈没した艦内で刻々と迫る死とたたかいながら、沈没の状況の報告とともに「回天」の将来に希望を託す2000字におよぶ遺書を残していた。
この報告をもとに「回天」の改良が進められ、次の日から「黒木、樋口に続け」の合い言葉のもとに、訓練が再開された。

神宮外苑(国立競技場)

2009年03月30日 08時08分33秒 | 日記
本日も素晴らしい快晴の朝を迎えましたが、外気は冷たく感じます。
今朝も愛犬(城)を抱いて公園まで連れて行きましたところ、便をしました。
少し元気になったのか、抱こうとすると抵抗をしました。
今朝は食欲もあり見かけは元気なようですが、油断は出来ません。

本日より、NHK朝の連続ドラマ「つばさ」が始まります。
川越市が舞台になりますので、観ようかと思っております。

さて、3月24日(火)に散策をしました、神宮外苑の紹介その2です。

本日は、国立競技場をHPを参考にしながら紹介いたします。

国立競技場の正式名称は、国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場だそうです。
東京オリンピックの開会式の会場でした。
実は、その少し前に開催されたアジア大会のために建設されたそうです。
私は、5回くらい入場をしたことがあります。


競技場の正面裏側に当たります


近づいて見ますと、画面上部中央に聖火台が見えます


正面入り口を望む


正面入り口の左側にあります「オリンピック開催」の碑があります


上空写真(HPより)


それでは、HPより「国立競技場の歴史」を紹介いたします。

○日本で初めての本格的陸上競技場の誕生 
 国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」(以下、神宮競技場)であり、大正13年10月に、日本で初めての、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地であったこの地に建設されました。神宮競技場は、大正8年12月に工事が着工されましたが、その後、物価の高騰や関東大震災の被災者の収容施設になったりで工事が中断され、大正13年3月にやっと工事が再開され、同年10月に完成となりました。
 この神宮競技場は、陸上競技のみならず、サッカー、ラグビーなども行われ、総合競技場として利用されていました。陸上競技では、織田幹雄氏が三段跳で、南部忠平氏が走幅跳で世界記録を樹立するなど、多くの名選手を生み出しています。一方で、第2次世界大戦中に学徒出陣の壮行会が行われたり、敗戦後は連合軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されたりと、暗い時代もありました。

○日本の競技場から国際的な競技場へ 
 敗戦から数年後、日本は、「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出します。そのための国際的なアピールとして、昭和33年、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが、現在の国立競技場です。
 国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33年3月、ついに完成となりました。
 そのアジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、まさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしてゆくこととなります。

○アジアで初のオリンピックの開催 
 東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。
 そして、昭和39年10月10日、94か国・5,558名が参加した「第18回オリンピック競技大会・東京大会」の開会式が、改装されたこの競技場で行われました。国立競技場で行われた競技種目は、陸上競技、サッカーの決勝と3位決定戦、馬術の大賞典障害飛越で、10月24日の閉会式まで、アジアで初めての聖火は燃え続けました。

神宮外苑(明治記念館・絵画館)

2009年03月29日 08時16分44秒 | 日記
よい天気が続いておりますが、外気は冷たく少し冬に戻った感じです。
本日も同様に冷たく、桜の蕾がなかなか開花しません。

昨日久しぶりに、囲碁をやってきました。
4連勝と好調でした。

昨夜のことですが、城が私の晩酌のつまみをじっと見ているので、まず「柿の種」をやりましたところ喜んでどんどん食べました。
飽きたら、次に「ピーナッツ」、「煮干」を食べました。
愛犬(城)の先祖は、酒飲みなのでしょうか。


さて、3月24日(火)に散策をしました、神宮外苑の紹介その1です。
明治記念館および絵画館を紹介します。

明治記念館は、1947年(昭和22年)11月1日に、憲法記念館を「明治記念館」として開館し、常緑の1千坪の庭園を有し、婚礼や各種の集会、宴会、さらに各種記念日(七五三など)などにご利用されております。
結婚式場のほか、宴会場・会議施設としての利用があり、レストラン等も併設しております。

私はお祝い会に一度、結婚披露宴に一度、明治記念館へ伺ったことがあります。

明治記念館の歴史(HPより初期のみ抜粋)
1881年 明治14年 10月
現・本館の建物は、赤坂に仮皇居が設けられた際に別殿「ご会食所」として完成
1888年 21年 6月
帝国憲法の案文の審議(枢密院憲法会議)が「ご会食所」で始まる
1908年 41年 4月
「ご会食所」が憲法草案の中心となった伊藤博文公に下げ渡され、伊藤邸内(現品川区大井)へ移築。「恩賜館」として保存される
1918年 大正07年 4月
伊藤家より明治神宮へ「恩賜館」を奉献。外苑の現在地に移築竣工、「憲法記念館」と 改称される





正門より望む


正門を入ったすぐ右に「憲法記念館」の碑があります



本館


次に、絵画館についてHPより紹介をします。
絵画館は、聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)が正式の名称のようですが、東京都新宿区の明治神宮外苑の一角にある美術館です。
神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の業績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画が展示されております。
維持管理は明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けておらず、常に警察官により厳重に警備されているそうです。




絵画館正面です
入り口に警察官が立っております


和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」の木
なんじゃもんじゃの木は、正面に向かって右側の通路の入り口にあります。
昔からこの地内にあった名木です。


この写真の通路の右側にあります






全景です


少しアップしました

以下、HPよりコピーしました。
この木の親木は古く幕末の頃、ここから南約400mの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
 このあたりは明治18年に青山練兵場となったが、時の政府は所有者萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
 明治36年、白井幸太郎博士(元帝国大学教授)が政府にこの木の保護願を出し、種々尽力したため大正13年12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
 然し樹齢百数十年といわれたこの名木もついに昭和8年枯死、根接で残していたのを昭和8年ここへ移し植えた。
 練兵場に枝を広げて立つ明治39年頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)の中に描かれており、またその遺木の一部は絵画館内に飾られている。
 ここにあるひとつばたごは、二代目六道木で、明治36年頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。(明治神宮外苑)



5月初め頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見える。(HPより)







愛犬(城)のその後

2009年03月28日 08時16分38秒 | 日記
愛犬(城)が再び倒れてから1週間になります。
その後ですが、獣医さんに診てもらった結果、やはり心臓の働きがよくないようです。
このところ落ち着いてはいるのですが、やはり本調子ではありません。
歩くのも、ヨタヨタです。
そのような訳で、外への散歩は家の前を少し歩くくらいでほとんどしておりません。
食もあまり進まず、どうしたことかうどんをよく食べます。
今朝も先ほど、うどんを食べたところです。

便も数日間していなかったので、昨日は抱いていつも散歩をしていた公園に連れて行きましたら、やっと便がでました。
愛犬(城)もほっとした様子でした。
今朝も相当に冷え込んでおりましたが、抱いて公園に連れて行きましたところ便をしました。
面白い習性ですね。

このところ少し寒い日が続きましたが、暑くはないので愛犬(城)には快適な時期ではないかと思うのですが残念です。
もっとも、愛犬(城)が一番悔しく思っていることでしょう。
焦らず、気長にお付き合いをすることにしております。


車庫で寝ている愛犬(城)です


愛犬(城)がお世話になっている、動物病院です
とても親切な獣医さんです


仕事の準備を始めました

2009年03月27日 08時06分23秒 | 日記
昨日は、肌寒い一日でした。
一昨日の懇親会でも話に出たのですが、年を取ると「肺炎」で亡くなる人が多いようです。
風邪をひいたら無理をしないで、十分に静養をすることが大切である、と体験談をある人が話されました。
この温暖差の激しい時期には、注意が必要のようです。
老人の方は、互いに注意をしましょう。
老人とは、65歳を超えた方?でしょうか。
太陽は出ているのですが、本日も肌寒い一日となりそうです。

さて昨日は、4月からの仕事の準備をしました。
働き人間なのでしょうか、仕事のことになると力が入ります。
4月から、水曜日と木曜日に仕事に出かけます。
話があるうちは、仕事を続けようと思っております。
本日も仕事の準備をしながら、パソコンを相手に囲碁をしようかと考えております。



公園の雪柳です

雪がちらつきました

2009年03月26日 08時05分59秒 | 日記
昨日のブログで誤りがありました。
昨年のWBC は 3年前のWBC
でした。
ボケがはじまったようです。

今朝はとても寒い朝を迎えました。
室温10度です。
先ほど一瞬ですが、雪がちらつきました。
愛犬(城)はぐっすりと寝たようですが、食欲があまりありません。

さて昨日は、隅田川の花見でしたが雨の中行われました。
花もところどころに2つ3つ咲いている程度であり、雨も降っているので早々に引き上げました。
そして宴会場へと急ぎましたが、約束の40分前であり会場へ入れませんでした。
宴会が始まり私はマイペースで飲んできましたが、皆さんは年のためでしょうか控え目に飲んでおられました。
近況報告を互いに交わしましたが、話の多くは健康に関わる話でした。
私は「憩室」の話をしましたが、多くの方が「憩室」を知っておられました。
最も年配の方は、階段で転んで大怪我をされたそうです。
日常より歩くことが大切である、と言っておられました。


以下、新聞の記事ですが、天下りが前年より23人多い99人と3年連続の増であったようです。

人事院は25日、08年に民間企業に再就職した国家公務員についてまとめた「営利企業への就職の承認に関する年次報告」(天下り白書)を国会と内閣に提出した。人事院に承認され、出身官庁と密接な関係のある企業に再就職した本府省の課長級以上と、再就職先の企業で役員になった課長補佐級以下の職員は、前年より23人多い99人と3年連続の増。今年から再就職は内閣による事前承認に変更されたため、1963年から始まった白書は今回が最後となった。

天下った役人が役職につき、元のポストを利用していろいろと悪いことをしているようです。
困ったことですね。


我が家の水仙群の一部です
あちこちで咲いております

侍ジャパンおめでとう

2009年03月25日 08時01分29秒 | 日記
侍ジャパンが韓国を破り、優勝をしました。
侍ジャパンおめでとう、と大声で叫びたい心境です。
あまり野球に興味のない私ですが、どうしたことかWBCには関心を持ちました。
私は同じ年の「王貞治」氏を尊敬しておりますが、昨年の第一回WBC大会で監督として優勝をもたらしました。
そのような関係で、WBCに感心を持ったようです。
延長10回には先頭の内川が右前打、稲葉が送りバントを決め、岩村が左安打で一死一、三塁とチャンスを作り二死からイチローが中前に2点適時打を放ち勝ち越しに成功しました。

昨日は、テレビで観戦できず残念でしたが、侍ジャパンが勝ってとてもすがすがしい気持ちです。
昨日、午前中で用務を終えましたので、神宮外苑をぶらついてきました。
近日中にスナップを紹介したいと思います。

本日は、知人に誘われて「隅田川」の花見です。
昨日も冷えましたが、今朝も少し冷たい感じです。
したがって桜は、あまり咲いてはいないかも知れません。
予報では天気が午後より崩れるように伝えておりますが、今のところはなんとかもちそうです。
本日のメンバーは、「花より団子(酒)」です。
飲みすぎに注意をする必要があります。


昨日の帰り、「東山道武蔵路」の桜の木の花が4つ咲いておりました。
満開になりましたら、再度紹介します


東山道武蔵路の中央に桜の木があります


よく分かりませんが、近づいて見ますと蕾をもっております


咲いていた花の1つです


日本と韓国で決勝(WBC)

2009年03月24日 08時13分54秒 | 日記
昨日、野球の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の準決勝がドジャースタジアムで行われました。
時々テレビを観ながら、応援をしました。
日本代表は、野球の母国であるアメリカと対戦して、9-4で勝ちました。
本日、いよいよ決勝戦です。
相手は、今大会の対戦で2勝2敗、5度目の顔合わせとなる韓国です。
強敵ですが、これが最後の対決です。
是非とも勝って欲しいと思います。
日本の投手は岩隈(楽天)(1勝1敗)、韓国は奉重根(2勝)のようです。
本日は所用があって、都心(四谷)まで出かけます。
残念ですが、テレビ(6ch・9:55~)を観ることが出来ません。

昨日成田空港で貨物機が強風のため、横転・炎上する事故がありました。
機長と副操縦士が死亡しました。
機長の操縦ミスではないかという噂もあるようですが、風の力(エネルギー)はすごいですね。
この力を有効利用できないものでしょうか。
地震も大地を揺るがすものすごい力を持っておりますが、未だ有効利用には至っておりません。
その他水のエネルギー、雷のエネルギーなど自然界に存在するエネルギーは沢山あります。
これら自然界のエネルギーが、一日も早く有効利用され災害がなくなることを願っております。

昨日午後8時15分頃、東京駅の中央線(私の最寄り駅のJR線)ホームで、女性を線路に突き落とすという事件がありました。
犯人は、「死にたくてやった。死刑になりたかった」、と言っているそうです。
だれでもよかったようです。
本当に物騒な世の中です。
ホームでは、最前列に並ばないようにした方がよいのでしょうか。





我が家の庭のボケです