教養と趣味

私が経験してしてきたことや考えていることに対してご指導を下さい。趣味などを通して有意義な生き方についてご伝授ください。

「おくりびと」を鑑賞しました

2009年09月22日 07時24分12秒 | 日記
昨日は、曇り空の一日でした。
スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋など何をするにも最高の季節となりました。
私にとっては、肥える秋にならぬことです。
スポーツジムの運動は、順調に進行中です。

話が変わって、愛犬(城)の話になります。
この頃の食事の話です。
朝食は、アンに包んだ薬を飲み、その日の好みで何か軽食をして後は玄関番をしながら熟睡です。
そして、昼は私どもと同じ昼食です。
一人前の量を食べます。
夕食はいろいろですが、最後に私のお手製の「ウイロウ」をデザートとして食べます。


夜中に起きた城の顔です
これから夜の散歩です

昨日「おくりびと」をテレビで放映しましたので、録画をしながら鑑賞しました。
話題の作品でしたが映画を観ませんでしたので、じっくりと拝見をしました。
夜9時から11時34分と長時間でしたが、最後に父親の納棺をする場面には感動しました。
妻や友人が、「納棺師の仕事は人に嫌われる仕事である。やめるように」、と諭します。
本人もはじめはなじめませんでしたが、次第に大切な仕事であると考えるようになります。
反対をした友人は、自分の父親を納棺してもらったことで感謝をし納棺師の仕事の大切さを知ります。
よいことばかりではありません。
「こんな顔ではなかった。化粧をやり直してくれ」、と親族より苦情を受ける場面もあります。
誰にでも死があり、納棺師のお世話になります。
納棺師の仕事の重要性を、改めて認識させられる作品でした。

三大松原

2009年09月22日 06時21分18秒 | 日本三大
三大松原

出展: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三保の松原(静岡市清水区)
白砂青松の総延長7kmの美しい松林が続く海浜(砂嘴)と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。その美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされている。日本の白砂青松100選にも指定されている。
羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞いおりたとされる羽衣の松と呼ばれる樹齢650年の老松があり、付近の御穂神社(みほじんじゃ)には、羽衣の切れ端が保存されている。
フランスのダンサー、エレーヌ・ジュグラリスは日本の「能」を研究する中で「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を発表、また来日して三保の松原を訪れることも希望していたが35歳で病死した事により実現できなかった。後にエレーヌの夫は彼女の衣装と遺髪を持って来日した。エレーヌの功績を称え、1952年に「エレーヌの碑(羽衣の碑)」が完成、碑の袂には彼女の遺髪が納められている。
近年、「羽衣の松」を含む松林が徐々に枯死する症状が進行しており、問題視されている。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な対策が見つけ出せずにいるのが現状である。


三保の松原と富士山


羽衣の松

虹ノ松原(佐賀県唐津市)
17世紀のはじめ、唐津藩の藩主である寺沢広高が新田開発の一環として、防風林、防砂林として植樹を行った。藩の庇護の下、禁伐の掟(伐採は死罪)はもちろんのこと、燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課せられていた。また、藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理された。
寺沢広高は、この中に自分が愛してやまない松が7本だけあると言ったというが、どの松と指定されてはいない。これは住民に「もし自分が粗末にした松がその7本のどれかだったら」と思わせることで、全ての松を大事にせざるを得ないように、心理的に圧力をかけたものといわれている。
この松原は、その区域の長さから、藩政時代は「二里松原」と呼ばれていた。明治時代に呼ばれるようになった「虹の松原」の語源とも言われているが、呼称が変わった理由などは知られていない。
1771年には、当時天領となっていたことから、農民の反乱である「松原寄り(虹の松原一揆)」の舞台ともなっている。
明治維新以降は国有林に編入、2007年現在は、佐賀森林管理署が管理を行っている。民有地が僅かに点在するものの、ほぼ全域が保安林に指定されており、現在も伐採は制限を受けている。


鏡山展望台から虹の松原全景

気比松原(福井県敦賀市)
敦賀湾の奥に面する部分のうち西側半分がこの松原である。400,000m² の広さの中に17,000本の各種の松が並び、夏には浜辺が海水浴場として賑わう。日本における海岸の松林はクロマツが多いが、気比松原ではアカマツが85パーセントを占める。江戸時代以来松原は敦賀および北陸の名勝として知られてきたほか、今日では日本の白砂青松100選にも指定されている。
夏になれば近畿や中京からの海水浴客で賑わいを見せる。また日本海一と自称する花火大会とそれに伴い行われるとうろう流しの会場にもなると人でごった返す。冬には松林一体が雪化粧されて美しく、日本海の荒波ともあいまった壮麗な風景となる。普段は静かでひっそりとした場所である。松原の中には散策路がめぐらされている。
年に2,3回ほどマツ材線虫病防除の薬品が散布されるので立ち入り禁止になる日がある。また、マツ材線虫病の感染拡大を防ぐため、感染木の伐倒駆除や殺菌剤樹幹注入による防除もおこなわれている。


気比松原全景

天橋立(京都府宮津市)
天橋立は、宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6kmの砂嘴である(地学上では砂州)。また、それを展望できる傘松公園等も含めた総称とする場合もある。一帯には約8,000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がる。砂嘴の幅は20~170mほどである。
人が逆さになって見ると、天に架かる橋のように見えることからこの名がついた。北側の傘松公園から「股のぞき」で見るのが名称の由来でもあり、伝統的に美しいとされている(この眺望は、「斜め一文字」と呼ばれる)。
古くから名所として知られており、一例として百人一首の小式部内侍の歌「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」が見られるほか、丹後国風土記には、イザナギが天に昇るためのはしごが、イザナギが寝ている間に倒れて天橋立になったとの記述がある。江戸時代から松島(現在の宮城県)、宮島(現在の広島県)とともに日本三景の一つに数えられた。
成り立ちは今から約4000年前とされており、丹後半島の東側の河川から流出した砂や小石などの砂礫が海流により流され、天橋立の西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかったことにより、ほぼ真っ直ぐに砂礫が海中に堆積して形成されたと言われている。
1952年(昭和27年)11月22日に国の特別名勝に指定され、また日本の白砂青松100選にも指定されている。1955年6月1日には若狭湾国定公園の一部として国定公園に指定されていたが、2007年8月3日に丹後天橋立大江山国定公園として独立した。2007年には日本の地質百選に選定された。
京都府、宮津市などは「天橋立-日本の文化景観の原点」という名で、文化庁に対し世界遺産暫定一覧表記載資産候補としての提案を行い、落選したものの、カテゴリーⅠa「提案書の基本的主題を基に、作業を進めるべきもの。」 という評価を受けた。これは暫定リスト入りできなかった案件の中ではトップクラスの評価を受けたことを意味し、次回以降の選考による暫定リスト入りが期待されている。


北側(傘松公園)からの眺め(2004年頃)