一、五戒総論(前半)
一、戒律は皆さんの生死の解脱を助けるもので、皆さんを束縛するものではありません。
戒律はちょうど汽車のレールのようなもので脱線すると危険です。
「戒」すなわち「限度」であり、地図と同じように、どの場所に行くことができて、どの場所にいくことができないかと指摘しています。
一つの限界があって始めて矩を越えないのです。
一人の人が自己の本分を乗り越えることがすなわち戒を犯すということです。持戒は自己の慈悲心を発する手助けをします。
自分の妄念を降伏させ、無常の菩提に向かいます。
二、戒律は超生了死の基本です。
戒律がわからないといつのまにかたくさんのあやまちを造ってしまいます。
行功立徳があったといえども、入るものより出て行く方が多くなります。
戒律による制約があるからこそ、たくさんの罪業を減少することができます。
各教、各宗にもそれぞれ戒律がありますが、ただ名称が異なるだけです。
五戒はけっして仏教だけが専門的に修めている仏の道ではなく、どの修行者も福報を得るには必ず修持すべき基本条件です。
三、どの宗教にもかかわらず、戒を守ることは仏道に入る共通の道です。念頭は諸悪の根源です。
先にこれを断ち切って始めて聖胎を養い慧命を増長させることができます。
ゆえに修道は必ず三業を清浄にしなければなりません。
すなわち身を清浄にし、口を清浄にし、心を清浄にすることです。
四、三学である戒、定、慧は、戒を以て始まりとなします。
末法の衆生は根基が比較的愚鈍で、即刻見性することができないので、必ず戒をもって師となさねばなりません。(性をもって悟ることができないので、先に必ず戒をもって師となさなければなりません。)
十方の聖賢といえども先に戒律より修められました。
戒は一切の悪を断ち切る根本です。
求道はただ善縁を結んだだけにすぎず、持戒してこそ善を行い、悪を断つ基本になります。
五、真理は頓悟することができますが、事は必ずだんだんと修めていかなくてはいけません。
どの人も累世から持ってきた業力、習性をすぐに除去することは容易ではありません。
ゆえに必ず順序をおって事を進め、戒律に頼って自己を調伏します。
戒律を末法と思ってはいけません。
もし基本である戒律を修めなければ経典や心法を講義することは不適切です。
続く