真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

達摩大師伝

2023-03-27 21:11:57 | 釈迦略伝・釈迦仏説因果経・観音菩薩伝・慈航渡世問答・達磨大師伝
Ray:神光というのが禅宗の初代祖「慧可」です。

三.大師、神光と問答す

大師が中国各地を遍歴していた頃の洛陽は佛教の非常に盛んな都であって、そこに当時名僧と謳われた神光(しんこう)が在住していました。神光は經典を講じ説法をすること四十九年、当時百萬もの弟子がいるとの噂を聞いて大師は、神光を先ず救おうと思いました。そこで密(ひそか)に聴衆の一人に身を窶(やつ)して、法座の傍に参りました。

神光は聞きしに勝る雄弁家で、それを言葉で形容すれば『天より花が乱れ落ち、地より金蓮が湧き出で、泥牛(でいぎゅう。泥で作った牛、これがが海に入れば、元に返れないことの例えとなる)が海を越え、木馬が風に嘶(いなな)くが如し』と言う状態でした。それ程までに神光の説法はずば抜けて秀で、聴衆の心を掴んで放しませんでした。

大師は道脈が神光に繋がることを直ちに察し、彼に道を傳えねばとの思いで神光の前に姿を現わされました。神光が説法を終えて気が付くと、目の前に色黒の髭面で目のギョロリとした一風変わった姿の僧侶がいるので、その人に向かって問いを発しました。

神光「老僧は、何処(いずこ)から来られたのですか」

大師「遠くない所から来ました」

神光「遠くない所と言われたが、今まで見たお顔ではない。何処の生まれですか」

 神光は鋭敏な人ですから、百萬の弟子があっても毛色の変わった大師には直ぐ気が付いたのです。大師は、前と同じように人を食った言い方で

「暇が無いから、今までここへ来たことはない。或るときは山に登って霊薬を採取し、また或るときは海に入って珍宝を採取して一座の無縫塔(むほうとう)を修造している。まだ功果が完成していないので、今日は閑(ひま)をみてここへ来た。あなたが慈悲深い經文を講ずるのを聴きたいと思う」

 神光は大師の言葉を聞いて心中不可解な思いに満たされましたが、根が眞摯で率直で徳の高いお方ですので、「お經を聞きに来た」との言葉に早速經典を取り出して展(ひろ)げ、一生懸命に説法し始めました。大師は腕組みをして黙って神光の説法を聞いていましたが、説法が終わるや否や

「あなたが説かれたのは何ですか」

と訊ねました。全く説法を聞いていなかった人のような問いなので、驚いた神光は

「私の説いたのは法であります」

大師「その法は、何処にありますか」

神光「法は、この經巻の中にあります」

大師「黒いのは文字であり、白いのは紙である。その法は、一体何処に見ることができましょうか」

神光「紙の上に記載されている文字に正しい法があります」

大師「文字の法に何の霊験がありますか」

神光「人間の生死(しょうじ)・生命を解脱させる法力が潜んでいます」

すると大師は、言葉を継いで

「今あなたが説かれたとおり紙の上に載っている法が人の生命を生死輪廻から救う効験があるとするならば、ここで私が紙の上に美味しそうな餅菓子の絵を描いてあなたの空腹を満たしたいと思うが如何ですか」

 神光は驚いて

「紙の上に描かれた餅がどうして空腹を満たすことができましょうか」

大師「然り。紙上に描かれた餅が空腹を満たすことができないと言うのであれば、あなたが説かれたところの紙上に載っている佛法が、どうして人の生死を救い輪廻を解脱させ涅槃(ねはん)の境地に至らすことができるのですか。あなたの説かれていることは、元々無益です。その紙の巻物を私に渡しなさい。焼き捨ててしまいましょう」

 そう言われた神光は顔色を変え、声を荒げて

「私は經を講じ、法を説いて数え切れないほどの人々を済渡しています。どうしてそれを無益と言うのか。汝は佛法を軽んじているのか。佛法を軽賎する罪は甚だ重いことを知らないのか」

大師「私は、決して佛法を軽賎したりしてはいません。あなたこそ佛法を軽賎しているのです。あなたは全く佛の心印・心法を究めていないだけでなく、ただ徒らに經典や説法に執着し、その字句や題目に囚われ、偏った法の解釋をしているだけです。とどのつまり、明らかにあなたは本当の佛法がどういうものであるのか解っていないのです」

 神光は大師の説く理論を聞いて頗る不愉快となり

「私に法が解らないと言うなら、どうぞあなたが私に代わって台に登り法を説いて下さい」

と吐き捨てるように言いました。

大師「私には、説く法はありません。ただ言えるのは、一の字のみです。私は、西域からわざわざこの一の字を持って来ました」

神光「その一の字とは何ですか」

大師「その一の字は、たとえ須彌山を筆とし、四海の水で墨を磨り、天下を紙としたとしても書き写すことができません。そもそも、この一の字の形を描くことはできないのです。形も影もないから、見れども見えず、描けども描けないのです。もし或る人がこの一の字を識り、これを描くことができれば、その人は生と死とを超越することができます。本来形象はないが、春夏秋冬の四季を通じて常に光明を放つことができます。この玄中の妙、妙中の玄を知り得る人があれば、間違いなく龍華會(りゅうげえ)において上人(しょうにん。ラウム)と會うことができましょう」

 神光はこの大師の言葉の意味を理解することができず、怒りが込み上げてきました。大師は、続いて次のような偈(げ。詩)を作りました。

「達摩、元は天外天(理天)から来た。佛法を講ぜずとも仙人となる。

 萬巻の經書、全て必要とせず。ただ僅かに、生死の一端を提(と)る。

 神光、今までよく經を講じてきた。智慧聡明で多くの人にこれを傳える。

今朝(こんちょう)、達摩の渡(すく)いに逢うこと無ければ、

 三界を超えて生死を了(お)えることは難しい。

 達摩は西方からやって来たが、一字も携えてはいない。

 全く心意に憑(たよ)り、功夫(くふう)することあるのみ。

 もし紙上によって佛法を尋ねようとするならば、

筆尖(ふでさき)を浸しただけで、洞庭湖(どうていこ)も干上がってしまうであろう」

 この偈を聞いた神光は、辱められたと思い、烈火の如く怒り、手に持った鉄の念珠で大師の顔を殴り付けました。お經も碌に講ぜられない坊主が傲慢にも長年人々を感化してきた自分の説法を嘲笑したとの思いで、憤りが更に倍加したのです。

 顔面を強打された大師は前歯が二本も折れ、口の中に血が溢れ出ました。大師は思わず口の中の血を吐き出そうとしましたが、この地方が三年も続く旱(ひでり)に見舞われるのを懼れて止めました(註。無実の罪を受けて流した聖人の血は、その地方に三年間の旱魃を齎すという言い傳えがありました)。しかし折られた歯や口中の血を呑み込めば、たとえ自分の流した血であっても三厭(さんえん。飛禽〈鳥類〉走獣〈獣類〉水族〈魚類〉の総称、一般に動物の血肉を指す)に違いないため五臓の戒めを破ることになります。

 進退窮まった大師は、歯と血を含んだままその場から離れ、西に向かって歩を進めながら、また偈を作りました。

「達摩、血を含んで言葉を発することも儘(まま)ならない。

神光が我が意を全く認めようとしないのは、理解に苦しむ。

 船は川岸に着いたものの、人を度(すく)うのは難しい限りである。

 一見縁がありそうであっても、実際に縁ある者はいないものである。

 武帝も神光も、共に高徳の士である。

 然るに、何故西方から来た道根に気が付かないのであろうか。

 この出會いを看過すれば、再びこの縁に巡り會うのは難しく、

 永久(とこしえ)に紅塵に埋没されることとなろう」

 こうして大師は、一旦洛陽の神光の許を離れて郊外に去り、そこで袖を展げて口に持っていくと、折れた歯は元通りになり、血の跡もなく傷もたちどころに完治して綺麗になりました。しかし大師は、人を救うことは容易でないことを痛感していました。

 二箇所で人を渡す機會を失った大師は、縁の薄い人たちを只々嘆き哀しむのでした。そして旁門(ぼうもん。正道以外の分派・別派、宗教宗派の類)の恐ろしさを嘆じて、次のような偈を作りました。

「旁門を歎く。字のある法は口先で論談するのみである。

 ただ習うのは口頭の禅であって、生と死を究めることはない。

 修行する人はあっても、無字眞經(正法)を知ることはない。

 衆生に講ずるのは、偽道・邪道のみである。

 道教・儒教・佛教を修める人であっても、死を了え生を超える道を究めることはない。

 假(いつわ)りの僧道は、概ね鼓打唱念を習うのみである。

神光でさえも、ただ単に講を説いて満足するのみ。

 弁舌爽やかに講ずることは出来ても、性命を了えることは難しい。

 遂には十殿閻君(じゅうでんえんくん。地獄十殿主宰神の総称)を免れることが出来ず、地獄に堕ちることとなる。

眼を挙げて旁門の内にいる無数の人等を観ずれば、心經を窺(のぞ)き、道を訪れ、修行する人幾人(いくたり)もおらず。

 われ今日、神光を度おうとしたものの、彼もまた縁分なし。

 何処か別の所に行けば、初めて縁ある人に巡り合うことが出来よう」

 続く

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