匿而不明怎参玄 匿(かく)して明らかにならず怎(いか)に参玄(さんげん)
道統萬善體四端 道は万善を統(おさ)め体は四端(したん)
不以良心存中正 良心を以て中正(ちゅうせい)を存(そん)せずば
現在現報実可憐 現在に報い現れ実(まこと)に可憐(かれん)
解:
天道が降された原因は、人々をしてもとの我が姿に還らせるよき道であるから、それを匿(かく)して人に伝えず(済渡:さいど)自分もそれで良いと思って明らかにさせないならば、どうしてその玄妙(げんみょう)を参(さと)ることが出来ましょうか。
道は万善を統一しているもので、その体は仁義礼智の四端(したん)を発揮している、それで良心を以て事にあたり、中正を保っていないとすれば、この現在の世ですぐにでも報いが現れ、それを受けるのは哀れな事です。故に、
一、自分が求道できたのも、紹介人の勧めによるもので、求道した後にどうしてこのよき道を匿して人に勧めないのでしょうか。
これでは他人(ひと)の仏縁を誤ってしまうのです。
天地は語らず、人類に頼って勧めるもので、これを宣べなければ、どこで眞道を聞けましょう。
故に自分が善(よ)ければ人にも善(よ)ろしく、大慈大悲の心で私は極楽浄土に帰りたいならば、衆人(ひとびと)にも勧めなくてよいのでしょうか。
故に己(おのれ)達して人をも達せさせ、天に代わって宣化し、共に覚(さと)りの岸に登るのです。
若しも自分一人善くして人を済度(さいど)しなければ、どうして誓願を全うする事ができましょう。
二、犯しやすい缺点(けってん)
1,慈しみの心無し:弥勒祖師は天運に応じて衆生を悉(ことごと)く済渡して理天にかえり龍華會(りゅうげかい)を慶(よろこ)ぶ期(とき)であるから、弥勒の世になったのです。
この三期末會(さんきまつえ)の際(さい)では、特別に衆生とは縁があるのです。弥勒は凡語でその意を譯(やく)したら慈です。
慈は楽を与える心で、衆生に快楽と幸福が無ければ方法を設けて彼に与えるのです。悲は悲憫(ひびん)の心で他人(ひと)の苦痛を救(たす)けることで、菩薩には皆この慈悲を具えています。
弥勒様は慈しみの心を修めることに重きを置き、心の発した時に、殺生せず。
衆生の肉を食べない誓いで、生を慈と為しています。
私達はこの点を理解して、弥勒祖師と同じように心を発(おこ)し、いついかなる時でも尽力を以て人を助け、他人(ひと)を安楽に導き、菜食(清口:せいこう)により殺生せずなどは、みな慈しみの心でこれによって弥勒祖師の慈悲心と相い応じ、将来、龍華大會(りゅうげたいかい)で佛陀(ぶつだ)に見(まみ)えて佛果を証(あか)すのです。
けっして只(ただ)空しく祖師の一日として早く現れるのを期待するのではなく、自己の功(いさお)を行いて愿を了(おわ)らし、天に代わって道を宣べ、己を度すと共に人を度し、自ら救い、自ら圓満(円満)にと、しなければどうして祖師だけを頼る事ができましょう。
2,善を擇(えら)ばずに度す:只(ただ)数量を求め品質を求めなければ、道に入った後にも毀謗(きぼう)の言
求道して眞理を研究せず道を修めなければ、その価値は知らないので道を匿(かく)して人に伝えず、善を擇(えら)ばずに度するも適中ではないのです。
三、衆を渡し道を伝えるも選擇の必要があるのです。
言うべきは時に言わなければ、その人を失い、言うべからざるの時に言えば、その言葉は惜しくも失います。
それで君子は人を失わず言も失わないよう注意し、済渡の量も必要であれば、その素質も養成する必要があり、両者を兼ねて行うならば道を人に伝えずということもないでしょう。
続く