真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

【宇野正美】秘められた古代史。聖徳太子とイエスキリストの繋がりは…。隠され続けた〇〇。「講演会」2021年。

2021-06-25 22:54:53 | ONEメッセージ

【宇野正美】秘められた古代史。聖徳太子とイエスキリストの繋がりは…。隠され続けた〇〇。「講演会」2021年。


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∞9次元アクトゥリアン評議会~人類,地球,宇宙を救うあなたがたの使命~愛と光 ダニエル・スクラントンさん経由~自分の使命を果たす為には、自分自身を大切にする必要が有ります。

2021-06-25 22:33:12 | ONEメッセージ

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【衝撃】皆様はそのことに全く気付くことができない!!イエスからのメッセージがヤバすぎる!!【スピリチュアル】

2021-06-25 22:21:39 | ONEメッセージ

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【薇羽看世間】日本語版|董氏は誰に属しているのか?

2021-06-25 20:46:24 | ONEメッセージ

【薇羽看世間】日本語版|董氏は誰に属しているのか?


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道を得る時は今!

2021-06-25 20:30:32 | 道すなわち真理

孔子・論語・里仁を現代の学者が【朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない。】を解釈すれば以下のようになります。

原文

子曰、朝聞道、夕死可矣。
〔子(し)(いわ)く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、と。〕

俗説

一般には上記の[意味]のように理解されているが、異説はかなり多い。その一つとして、この一句は孔子(こうし)が死に瀕したときに述べた言葉という考え方がある。それによると、孔子は死ぬことを気にするよりも、現実の生きているうちに真理を学ぶことが重要であると弟子たちに説いたということである。同じ孔子の言葉の「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや」〔『論語』先進(せんしん)〕のような考え方で、むしろ生きていることに忠実であれということを強調していることになる。
しかし一般的には、死を間近に控えての孔子の悲愴(ひそう)な考えを述べたものという理解がなされている。伊藤仁斎(いとうじんさい)は、その著『論語古義(ろんごこぎ)』の中で、「ある人が、『朝に真理を聞いて夕方死ぬというのでは、少しせわしなさすぎるのではないか。』と尋ねたのに対し、『そうではない。人間として道を聞かなければ、生きていても益がない。だから孔子が、朝、道を聞いて、夕方死んでもよいとされたのは、どうしても真理を聞かずにはおれないというつきつめた気持ちをお示しになったもので、決してせわしないなどということはない。』と答えた。」と解釈している。
(しん)の劉宝楠(りゅうほうなん)の『論語正義(ろんごせいぎ)』には「朝、道理を聞いて夕方死んでしまい、学問が途中で挫折(ざせつ)したとしても、道理を聞くことなく死んでしまうよりはいい。」としている、この一句が、孔子が死を前にして弟子を励ました言葉か、それとも飽くことのない学問追求の態度を表す言葉かはっきりしないが、いずれにせよ道を求めることを強く主張しているものであることには変わりがない。これを孔子の積極的な姿勢として受け止めるか、死を前にした悲愴な感慨と受け止めるかは、読者の主観によるほかはあるまい。

聖人だけが得た道については、3000年にわたって様々な解釈がなされていました。「道すなわち真理」は得たくても得られるものではありません。今日のように闇が極まった時のため、中庸に「天の命ずるをこれ性(霊)と謂い、性に率う(ひきいる)をこれ道(真理)と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。」謂い伝えられています。すべての人は根源創造主の御霊の分霊(性)を具えています。人はその性(霊)を明らかにし、その性に率いる(進化の軌道を歩む)ために「道すなわち真理」を得なければならない、そして道を修める(修道)には教えを学ばなければならない、という意味ですが、もし、その上で、もし道を得ることができたならば【朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない。】という意味になります。

時代こそ違いますが、お釈迦様もしかり、観音様も解脱の道を求めて修道をしていました。

「私は、未だ得道していません。人心を明師から直指(じきし:直接命(霊)のあり処を指す)されていないので、未だ明心見性の境に達していません。悟っては迷い、迷っては悟りして未だ究竟(くきょう)の般若(はんにゃ)を開かれていません。得道するまでに三千の功徳を積み、八百の果を重ね、数多くの魔障を受けてもなお不退転の意思を持ち続ければ、何時か必ず得道の機会が訪れましょう」” と、おしゃっておられるように、3千年前からつい最近の百年ほど前までは、聖人から聖人にのみ伝えられていたため求道し得道することは至難の技でした。

しかし、聖人・仏など高次元の聖霊が天地造物主へ働きかけ、私達凡人でもこの「道」を得ることができるようになっています。このことについて、アルクトゥルス・・・2015年1月28日 惑星 の次元上昇で、多次元宇宙を体感する7次元以上の物質界を超える道が開かれていることを語っています。

このことが、この時期人類にとって最も重要な課題です。戦後72年間、安全で豊かな軌跡の生活環境で育ってきた日本人が、これから経験する自己との対面と経済社会の激変の中で、何を求めなければならないかが明確になってゆきます。

どんな高度な情報でも手に入りやすくなっている情報社会で、優秀な人ほどその情報で自己を確立していますが、それは入口を狭め、落とし穴を深く掘ってしまうことになってしまいます。「道」は情報や知識ではなく、天命を果たすため天地造物主(母ソース)から離れたあなたが母の元に無事に還れるよう、母親が持たせてくれた「お守り」です。それを道といい、真理といいます。

道は、あなた自身によって真の気づきの真の(縁)をもたらします。

Ray:詳細は、本ブログのカテゴリー【道すなわち真理】をご覧ください。


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