聖なる国 日本

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諏訪Ⅷ.謎の先住部族【狩猟民族の諏訪守矢氏とユダヤ神話】

2022-10-30 | 古代ミステリー

🌾🌾🌾前回までの諏訪の投稿は

約2000年〜1500年前の諏訪大社⛩️に建御名方命が祭られた時代を中心に書いてきたが、ここからは更に時代を下っていき古代諏訪の謎について投稿したいと思う✨😌


◇古代ユダヤと守矢氏
◇ケルト民族と蝦夷
◇銅鐸と鉄鐸
◇ミシャグジの起源
◇縄文王国の諏訪
◇生きている諏訪

(タイトル仮)

どこまで書けるか分かりませんが😅🙏何回かに分けて投稿します。

(書ききれなかった分は、書籍の方の聖なる国日本に加筆予定😌)

興味のある方はご覧下さい。(R15)

長文です。🙏✨

 


古代ユダヤ神話と守矢氏

元々の諏訪の先住民で狩猟民族である
『洩矢氏』その起源はどこか?

諸説ありますが古代ユダヤ人説から☝️


海神族の王族と共に諏訪に流入して来た弥生人が『建御名方命』一族で、

それ以前にいた、先住民の洩矢氏はどこから来たのか?

縄文人の血を引くアイヌ人同様の狩猟民族なので、縄文から続く民族だと考えられている。

本当にそうだろうか?


先住民の狩猟民族の祭祀は、諏訪大社に同化された後も諏訪大社『前宮』(=前の祭祀場)として残り、続けられてきた。

農耕民族が祭るのは諏訪大社下社の方らしい。

諏訪大社「前宮」や洩矢氏の守矢資料館がある茅野市には『鬼場』という地名があり、中心には御座石神社が祭られている。

鬼場の語源はもと「御贄場」との説があり、猟(漁)の獲物が贄に捧げられていたという。

今でも御座石神社には建御名方命への供物を再現した「どぶろく祭り」があり肉魚濁酒が振舞われる。

(※鹿肉を火切り臼火切杵を使い焼く=農耕文化と狩猟文化の習合したお祭り)

仏教と神道が習合した祭りはあるが、農耕民族の祭祀『神道』と狩猟民族の祭祀が習合したお祭りは全国で唯一こちらだけかもしれない😳☝️

 

 

(御座石神社)御祭神 渟名川姫命


守矢氏(洩矢氏)の祭祀は、冬季にヘビやカエルなど冬眠している動物を見つけて捧げるなど、冬眠中のクマを捧ぐアイヌと同じ様な祭り方をする。

諏訪大社『前宮』では、75頭の鹿の頭を捧げる神事も残ってきた。

現代では生贄の習慣は無いが、古代では珍しくは無い。

ただその残酷さに私達は目を背けたくなるなるが、無かったことにすれば犠牲になった命も浮かばれない。蓋をせずそれは確かに有ったものとしてオーセンティックに投稿したい。

 

 

(守矢資料館)捧物


動物を生贄に捧げるのは狩猟民族の特徴だが、農耕民族は寧ろ人を生贄とし、今では「人身御供」という言葉だけが残されている。

諏訪にはその両方の伝承が残る。


出きれば、これが野蛮だとは考えたくは無い。(気持ちは別として)

現代人の感覚では古代人の感覚を伺い知ることは出来ないので、直ぐにそうした評価を与えてしまう事でかえって物事を歪めてしまう恐れがあるからだ。😔


太古の昔より、民族や種族に関わらず人間には共通した

『死生観』(サナトロジー)

というものが存在していた。

約3千年頃前〜

『宗教観』が発生すると消滅していったが、一部では微かに残り続けた。


長くなるのでまた別に詳しく書くが、死生観=生贄という事ではなく、

ただ

死ぬことと、生きることの世界観に意識的な大きな違いがあったことだけは確かだ。

 

私はベジタリアンという訳ではないが肉を食べないが、

狩猟民族にとって肉を食べるということは、

命を頂くことと命を贄に捧げること、

魂が生まれ変わることと同じ世界観があった様だ。


前置き長くなりましたが、🙏✨


洩矢氏について、、書きます😌

守矢氏とも言い、守矢氏は諏訪大社の神事の神長を努める一族だ。

 

 

 

【ミシャグジと守矢氏】
諏訪大社本宮と前宮の中間辺り、茅野市宮川に守矢資料館があり、後ろの斜面には諏訪の古代信仰ミシャグジの総社が祭られている。

ミシャグジは、

石神、御裂地、御尺神、御佐口神、御社宮神、御佐軍神など200種類以上の当て字がある為、起源には様々な憶測が生まれ民俗学では「石神問答」なる論説バトルもあった。

二千年以上前〜伝わった漢字文化よりも古くから「ミシャグジ」という信仰が広がっていた為だろうか、

諏訪から東日本を中心に3000社ほど広がったと云われ、本場の諏訪盆地では山の斜面に祭られていることが多い。


農耕民族にとっては田畑を見下ろす場所であり、または古代の牧場の適地だ。


守矢氏は狩猟民族の代表であるかの様に語られているが、鹿を飼育する牧場を持っていた可能性がある。

諏訪にいた狩猟民族らの多くは、建御名方の諏訪入り後に関東や信越に去っていって、守矢氏だけが祭祀のために諏訪に残った。

守矢氏の神長が住んだ場所はかつて武居の里と呼ばれ、『武居エミシ』という諏訪の国神様がいて諏訪神に仕えていたという。そもそもの諏訪先住の狩猟民族は守谷氏でなく武居氏なのだ。

 

東へ移動していった狩猟民族は「武居」「エミシ」などそのまま東国に残る呼び名の起源となっていったと思われる。

(※武居エミシの嫡孫は諏訪大社下社の祝りとなり祭祀者だけはやはり残った🤔)

もしかすると守矢氏は元々の狩猟民族ではなく、動物を育てる遊牧民族にも近く狩猟民族とも農耕民族とも違う古代祭祀を司る部族で、

国津神の『武居エミシ』こそが諏訪先住民族の首長だったのかもしれない。


遊牧民といえば羊飼いで有名なユダヤ民族だが、

諏訪大社の御神体は守屋山であり、これが旧約聖書に登場する「モリヤ山」と関係があるのではという説がある。

モリヤ山は、ユダヤ教では「神の見ている山」と言う意味の聖地だ。

(※以前はモリ山と呼んだらしく、モリヤマとは稲魂を授かる儀式が行われる山のことだが、農耕民族起源説は置いてユダヤ説で書き進めます😌)

 

 

【ミシャグチと古代ユダヤ説】

諏訪大社本宮からは御神体の守屋山は見えないが、遥拝所がある。

山を御神体としながらも山が見えない所に神社が祭られていることは多く、男体山をご神体とする日光二荒山神社なども直接見ることは出来ないので、境内に再現した山を遥拝する。

富士講と呼ばれる神社の遥拝も皆そうだが、しかし諏訪大社本宮は遥拝所自体が立入禁止になっている。😳

しかも、拝殿は守屋山の方ではなく南東の方角を拝ませる様になっていて、その方角に「安国寺」があり守屋山でなく寺院の方角を拝ませる配置になっている。これは、神仏習合の時代に神社が寺院の支配下に置かれると、その様にされたという事らしい。

(安国寺)諏訪霊場百番所

 

諏訪人は御祈祷をお願いする時は守矢山側でとお願いされる方も多いという。

 

駐車場側から入った神楽殿脇の小さな参道は、元々の守屋山の方角に向ていて遥拝所があるので本当はこちらが?と思うが、🤔

天流水社の横の石段から勅使門の方へ上がることは出来てもそれ以上は進めなくなっている。

 


「本当に大切なものは知らせず公開せずそっとしておいた方が良い」と、

通りすがりの宮司さんが言っていたことがあるが、或いはそんなところかもしれない。


御神体とされながらも封印されている様なこの「守屋山」が謎を呼び、
ユダヤと結びつけられたのは、諏訪の古代信仰『ミシャグジ』の解釈による。


ミシャグジは「御〇〇神」という説で、御は敬語で最後のジは神であり、中に何を当てはめるかで意味を持つ。

サゴは鹿の胎児のことなので御サゴ神という狩猟民族の祭祀であるとか、

サクとは土地を裂く開墾のことなので御サク神という農耕民族の祭祀だ…という具合で様々な憶測を呼んだ。


古代ユダヤ民族説では旧約聖書の


「イサク」であると云われる。

御イサク神=ミシャグジとなる。

「イサク」はユダヤ人の始祖アブラハムの子で、旧約聖書の創世記に登場する。燔祭という、モリヤ山の生贄となるエピソードだ。

 

ユダヤ人の始祖エイブラハムは100歳になっても妻サラとの間に子供が生まれなかった。

神はサラとの子を跡取りせよと知らせたが、90歳の妻から子供が生まれるはずは無いと思い笑った。笑ったので、

神は子が生まれたら「笑う=イサク」と名付けよと言い、その通りにイサクは生まれてきた。

ある時、神はエイブラハムの信仰心を試そうと、「イサクを生贄に捧げよ」と命じた。神の見ている山「モリヤ山」へ息子イサクと共に登ったが、生贄の羊がいなかった事にイサクは自分の運命を悟り、縛られて祭壇にあげられるのに抵抗はしなかった。


いよいよ、イサクに刃物がふり上げられた瞬間、天使が止めに入った。そして、近くの茂みで角を絡めて動けなくなっていた羊を代わりに捧げた。

 

 

このモリヤ山とイサクの旧約聖書の記述を由縁とした、


モリヤ氏とモリヤ山、ミイサクジが、

洩矢氏、守屋山、ミシャグジの起源でないかという。

 

ユダヤ渡来説は、今更というほど珍しいことでもなく注意してみていると

方々に足跡が見られるので、歴史の古い諏訪にあっても不思議はない。

但し、日本人でも縄文人・弥生人と歴史的文化の違いがある様に、同じユダヤ人でも、秦氏やフリーメイソンなどと違い、

始祖のユダヤ人(ヘブライ人)は

『羊飼いの民』という牧歌的なイメージがある。

そして反面、生贄の民であるイメージも強い。

人身御供は、民俗学的な伝承では童女や女性が捧げられるイメージがあるが、諏訪では何故か少年(または小僧)のみに限られていたのも、イサク少年に由来しているのかもしれない。🤔

「か〜ごめかごめ〜後ろの少年、、」と

因童の童唄が聴こえてきそうだ。

 

イサクの子はヤコフと言い神と合い

「イスラエル」の名を与えられ、12人の子をもうけイスラエル12支族の祖となった。

2700年前にアッシリアに滅ぼされ、イスラエルの10支族は世界に散ったとされる。この頃の古いイスラエル人はまだ一神教ではなく、その末裔ならばユダヤの神「ヤハウェ」でなくイサクを祭っても不思議はない。

(2600年前にバビロニアに滅ぼされたユダ国のユダヤ人は捕囚として連行された為、ヤハウェを民族の拠りどころとして一神教化した。)


諏訪大社に残されていた鹿の生贄の習慣も、もしかすると日本列島には羊がいなかった為に、渡来してきたユダヤ人は羊の生贄を捧げることができず、鹿で代用されたのかもしれない。

ユダヤ民族は、狩猟は禁じられていて、羊や鹿は食べても良いが人の手で育てたものでなければならない。

遊牧民族とは異なるが、狩猟民族にも生贄は自ら育てるという習慣はあった。


アイヌの熊祭りイオマンテでは狩猟で殺した後の熊は、耳と耳の間にカムイが宿るとされ特別に奉納され、あとは人々が小熊から飼育した熊を捧げたらしい。

(守矢資料館) 耳を裂いた鹿

諏訪大社上社・前宮での御頭祭では、75頭の鹿のうち一頭だけ特別な矢で屠った耳を裂いた鹿が捧げられていたらしいが、他の鹿はみな飼育していた様でありアイヌの祭り方と似ているので、これはやはり狩猟民族の祭祀なのだろう。

(守矢資料館)


守矢資料館をみる限り明らかに農耕民族では無いが、

ユダヤの遊牧民は血を食べるのは禁じられていて

血抜きのできない動物は食せず羊と鹿くらいしか食べる事が許されない。

 

諏訪盆地の斜面に鹿や猪を飼う古代牧があったとしても遊牧民とは言えず、、

羊を育てて狩猟は禁じられていた遊牧民のユダヤ人とは違うのかもしれない

しかし、

馬の生産を日本で初めて行ったのも信州であり、遊牧民とは言えないが少なくとも牧場の経験値は日本随一だったのだろう。

 


✨🤔つづく・・・

 

あと少しだけ

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

【ケルトのドルメン】


ドルメン類似遺跡。このドルメン類似遺跡は約四千年前の遺跡だ。

 

考古学者の鳥居龍蔵の命名で、何故わざわざ『類似』と名付けられているのかは分からないが、この様なファジーな名の遺跡は他に知らない。

似て非なるものという事だろうか?

 

更なる謎は、石碑の裏側の文字が何故か意図的に削られている事だ。🤔

 

よくみると消された文字の下には
『アイヌ石』と書かれている。😮

アイヌ石とは何だろう、?

 

ドルメンとは、平らな石を水平に置いた供物台の様なもの。

よく山に祭られているのを見かける。

支石墓として朝鮮半島から渡来してきた様なので、私はドルメンとは朝鮮語源の
ドル(岩)ミョン(面)だと勘違いしていた。

しかし、こちらの説明にはケルト語と書かれていた(😅そうだったのか、)

4000年前、縄文中期まで

イギリスのケルト系先住民人と日本の縄文人は、同じストーンサークルをつくる文化を持っていたが、

イギリスには青銅器文化を持つビーカー人が、日本列島には弥生人が流入しストーンサークルの文化は姿を消していった。

ユーラシアの東と西の古代先住民の奇妙な符牒も不思議だ。


ケルト人とは、ローマ側からみた異民族の総称のことらしく、日本の大和朝廷が異民族に対し「蝦夷」と称していたのと同様だ。

ドルメン類似とは、

「ケルト人のドルメンに似てるが、アイヌ人(又は蝦夷)の遺跡である」という意味だろうか、🤔

 

11月1日はケルトの新年。

ケルト人は一年を二分していて、半年が一年だ。

明日、10月31日は大晦日であり

作物や動物をお供えしていたという。


今はハロウィンとして、

その名残りが残される。

🎃🎃🎃🎗️

そしてハロウィンの半年後、

次の新年の前には諏訪の御座石神社では
『どぶろく祭り』が行なわれる。😉

 

諏訪は、

様々な古代文化が習合している様子が面白い。なかなか推し測ることはできませんが、次は

守矢氏と物部守屋との関係を探ってみます。😌


✨✨✨

長い話しを読んで下さってありがとうございました。🙏

 



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